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『私は、どうしたい?』
その一文を、リディアは朝になっても眺めていた。
答えはまだ出ていない。
王都と領地。
どちらが得か。どちらが将来のためになるか。どちらを選べば後悔が少ないか。
そういうことなら、いくらでも考えられた。
けれど、自分はどうしたいのか。
そう聞かれると、何も書けない。
「……本当は、どっちなの」
王都に残りたい。
それは本当だと思う。
王立図書院で働きたい。新しい本を読みたい。知らないことを知りたい。鏡で見た制服を、本当に着てみたい。
では、領地へ戻りたい気持ちは、ただの義務感なのだろうか。
父が倒れたから。
長女だから。
家族だから。
そうすべきだと思っているだけなのか。
もし誰にも期待されていなかったら、自分は迷わず王都に残るのだろうか。
そこまで考えて、リディアは少しだけ安心した。
だったら、本当の気持ちは王都なのかもしれない。
そう思った瞬間、頭に浮かんだのは十二歳の妹だった。
ミーナ。
去年の冬、帰省したとき。
『お姉様、今度帰ってきたら、一緒に湖へ行こうね』
そう言っていた。
父が倒れたあとに届いた手紙には、
『お父様は大丈夫って言うけど、お母様はちょっと疲れてると思う』
『でも、お姉様はお仕事があるから、心配しなくていいよ』
と書いてあった。
そして最後に、小さく。
『会いたいけど』
リディアは手紙の文字を思い出した。
会いたい。
妹に。
父に。母に。
子どもの頃に走り回った森も、秋になると赤く染まる丘も、冬には凍る湖も、急にありありと思い出せた。
それも、本当だった。
「……どういうことなの」
王都に残りたい。
領地へ戻りたい。
両方、本当。
それでは何の役にも立たない、とリディアは思った。
本当の気持ちというものは、もっと一つなのではないか。
迷いを取り払ったあと、最後に残るもの。それが本音なのではないのか。
そう思って、リディアは王立図書院へ向かった。
もう一度、確かめたかった。
自分が本当にここを離れたいのか。
*
石造りの大きな建物。
高い窓の上には、銀色の鍵の紋章が掲げられている。
何度見ても、少し胸が高鳴った。
中へ入ると、研修時代の先輩がリディアに気づいた。
「リディア? 領地へ戻るんじゃなかったの?」
「その予定でした」
「でした?」
リディアは曖昧に笑う。
先輩はそれ以上聞かず、
「ちょうどいいわ。南方の古い航路記録が入ったの。好きだったでしょう?」
と言った。
「見たいです」
返事は、考えるより早かった。
古い革表紙の記録を開く。
海図。
船員の日誌。
聞いたことのない島の名前。
読めない古語が出てくれば隣の資料を探し、意味が分かればまた次のページへ進む。
そこにはまた、知らない言葉がある。
一冊。
もう一冊。
気づけば、一刻どころか二刻近く過ぎていた。
「……楽しい」
思わず、口からこぼれた。
やっぱり。
私は、ここにいたい。
帰り道の足取りは、朝より少し軽かった。
今夜、母に言おう。
領地へ戻らない。
そう決めた。
はずだった。
*
屋敷へ戻ると、玄関に小さな包みが届いていた。
「お嬢様。領地からです」
「誰から?」
「ミーナ様です」
中には、少し形の悪い焼き菓子。
その下に、妹からの手紙が入っていた。
『この前教えてもらったお菓子、ひとりで作れました』
『三個焦げました』
『でもお父様は全部食べました』
リディアは思わず笑う。
そのまま続きを読んだ。
『お姉様が帰ってきたら、今度は一緒に作りたいです』
そして、その下に。
『でも、帰ってこなくても怒らないよ』
『お仕事が好きなの知ってるから』
リディアは手紙を持ったまま、立ち尽くした。
会いたい。
今度は、それが考えるより先に出てきた。
「ナナ」
「はい」
「私、今日、図書院に行ったの」
「そうでしたか」
「すごく楽しかった。残りたいって思った」
「はい」
「でも今は、帰りたい」
ナナは特に驚かなかった。
「そうですか」
「……それだけ?」
「他に何を?」
「おかしいと思わない? 王都にいたいのも、領地へ帰りたいのも、どっちも本気なのよ」
ナナは瞬いた。
「普通、本当の気持ちって一つじゃないの?」
「なぜです?」
「……え?」
「お嬢様は本がお好きです。ご家族もお好きです。なら、両方離れたくないのは普通ではありませんか?」
リディアは黙った。
「でも、選ぶのは一つなのよ」
「はい」
「なら、気持ちだって一つにならないと」
ナナは少し首を傾げた。
「一つしか選べないことと、一つしか望んではいけないことは、別では?」
リディアは何も言えなかった。
*
その夜。
例の紙を開く。
一番上には、
『私は、どうしたい?』
と書いてある。
リディアはその下に、
『王都に残りたい。』
と書いた。
少し間を空けて、もう一行。
『領地へ帰りたい。』
二つ並べて眺める。
矛盾している。
それでも、どちらも嘘ではなかった。
リディアはしばらく紙を見つめたあと、ペンを置いた。
今日は、どちらにも線を引かなかった。




