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翌朝。
リディアは王都を出なかった。
「……一日だけ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
今日一日考える。
それで決める。
明日には、必ず。
朝食のあと、リディアは机へ向かった。
紙を一枚、真ん中で二つに分ける。
左に『王都に残る』。
右に『領地へ戻る』。
王都。
王立図書院で働ける。
好きな本に囲まれる。
ずっと目指してきた仕事。
努力して取った採用。
そして。
鏡の中の自分は、とても楽しそうだった。
領地。
父のそばにいられる。
母を助けられる。
妹の成長を近くで見られる。
領地のことを学べる。
そこまで書いて、手が止まった。
「……どっちも、いいじゃない」
片方が明らかに悪ければ、こんなに悩まない。
王都に残れば、家族を置いてきたことを後悔するかもしれない。
領地へ戻れば、鏡の中の自分をずっと思い出すかもしれない。
あの紺色の制服。
銀の鍵。
笑っていた自分。
リディアは、その下に『十年後』と書いた。
王都に残る。
司書官として昇進。
研究に携わる。
もしかしたら結婚。
領地へ戻る。
家政を支える。
父から仕事を引き継ぐ。
こちらも、もしかしたら結婚。
「……分からない」
二十年後は、もっと分からない。
三十年後など、何一つ書けなかった。
なのに。
決めなければならない。
今日の選択が、その先全部を決めるような気がした。
「お嬢様」
昼前、ナナが紅茶を置いた。
机いっぱいに広がった紙を見る。
「何をなさっているのです?」
「比較しているの」
「何を?」
「人生」
ナナは、昨日と同じ顔をした。
「また大きなお話を」
「笑わないで」
「笑っておりません」
「顔が笑ってる」
「少しだけです」
リディアはため息をつき、紙を見せた。
「できるだけ公平に考えようと思って。でも考えれば考えるほど、分からなくなるの」
ナナはしばらく紙を眺めた。
「十年後まで書いておられるのですね」
「考えないと」
「十年前のお嬢様は、今のご自分を想像できていましたか?」
リディアは考えた。
八歳の自分。
木登りが好きで、本は読んでいたけれど、司書官という仕事があることすらよく知らなかった。
「……できてない」
「では、今のお嬢様が十年後を正確に書くのも、少々難しいのでは」
「でも」
「なぜ、そこまで先まで決める必要が?」
リディアは口を開いて、止まった。
「……正しい方を選びたいの」
ナナは何も言わなかった。
「せっかく選ぶなら、後悔しない方がいいでしょう。失うものが少なくて、将来のためになる方がいい。だから、ちゃんと考えないと」
ナナは頷く。
「では、お嬢様。正しい方が分かるまで、ここにいらっしゃるのですか?」
リディアは答えられなかった。
一日だけ考える。そう決めた。
でも、今日分からなかったら?
明日も考える? 一週間後は?
いつなら、正しい方が分かるのだろう。
午後。
リディアは、もう一度神殿へ向かった。
鏡を見たいわけではない。もう見られないことは分かっている。
ただ、あの十秒がいったい何だったのかを知りたかった。
昨日と同じ神官がいた。
「またいらしたのですね」
「……はい」
少し恥ずかしくなる。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「もちろん」
「昨日見た未来は、必ず起こるものなんですか?」
神官は少し考えた。
「あなたがその道を選んでいたなら、起こり得た未来なのでしょう」
「起こり得た?」
「分岐鏡が見せるのは、一つの場面だけですから」
「人生全部ではない?」
「もちろん」
当たり前のことのように言われ、リディアは黙った。
「では、あのあと不幸になる可能性も?」
「あるでしょう」
「図書院を辞めるかもしれない?」
「それも」
「でも私は、とても幸せそうに見えました」
神官は少しだけ目を細めた。
「では、あなたにはそう見えたのでしょう」
リディアは鏡を見る。
昨日、自分は十秒ほどの光景を見て、一つの人生全部を見たような気になっていた。
「それなら、どうして皆これを見るんですか?」
「見たいからでしょう」
「でも、余計に迷う人だっているでしょう?」
「いますよ」
あまりに普通に答えられて、リディアは拍子抜けした。
「では、“神々の慈悲”というのは?」
「ああ」
神官が少し困った顔をした。
「人々がそう呼んでいるだけです」
「神殿では?」
「《分岐鏡》と呼んでいます」
「……それだけ?」
「それだけです」
帰り道。
リディアは考えた。
もし領地へ戻った未来から、家族と笑っている十秒だけを見ていたら。
自分は何を思ったのだろう。
屋敷へ戻ると、机の上には朝の紙が残っていた。
『王都に残る』
『領地へ戻る』
その下には、大量の文字。
利点。
欠点。
未来。
後悔。
可能性。
リディアは新しい紙を出した。
そして、一行だけ書いた。
『私は、どうしたい?』
書いた瞬間、困った。
今までのどの項目より。
答えが分からなかった。




