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この国には、《分岐鏡》と呼ばれるものがある。
人生の大きな選択をしたとき、選ばなかった方の未来を一度だけ映す鏡。
ただし、使えるのは生涯に一度きりだった。
結婚相手を決めた日に使う者もいれば、家業を継ぐか故郷を離れるかで使う者もいる。老いるまで使わず、「結局、必要なかった」と笑う者もいるらしい。
リディア・フェルナーも、ずっとそうするつもりだった。
十八歳の今より、もっと大切な選択がこの先きっとある。そのときまで取っておこうと思っていた。
「本当に、お使いになりますか?」
神官に問われ、リディアは目の前の鏡を見た。
人ひとりをすっぽり映せるほど大きな銀色の鏡。その縁には、古い文字が細かく刻まれている。
一度使えば、二度目はない。
この先、結婚するときも。
仕事を変えようとするときも。
どこか遠い土地へ行こうとするときも。
もう、選ばなかった未来を見ることはできない。
「……少し、考えてもいいですか?」
「もちろんです」
神官は急かさなかった。
リディアは鏡の前に置かれた椅子へ腰を下ろした。
領地へ帰る。
もう決めたことだった。
半年前、父が倒れた。
命に別状はなかったものの、以前のようには働けなくなった。兄はいない。妹はまだ十二歳。
だから、自分が戻る。
そう決めた。
けれど父は、
『お前は王都に残れ』
と言った。
母も、
『こちらは何とかするから』
と言った。
誰にも、帰ってこいとは言われていない。
それでもリディアは、十二歳の頃から憧れていた王立図書院の正式採用を辞退して、領地へ戻るつもりだった。
――本当に?
その言葉が、何度も浮かぶ。
本当に、それでいいの?
あとで後悔しない?
王都に残っていたら、もっと違う人生があったのではない?
だから今日、ここへ来た。
それでも迷う。
生涯に一度しか使えないのだ。
「……もったいないでしょうか」
思わず聞くと、神官は少し笑った。
「私が決めることではありません」
「皆さんは、もっと大きなことで使うのでしょう?」
「大きいかどうかも、本人にしか分かりません」
もっともな答えだった。
もし使わなければ、領地へ帰る十二日間の馬車の中でも、きっと考える。
王都に残っていたら。
王立図書院の採用を受けていたら。
もしかしたら、十年後まで考えているかもしれない。
それが、少し怖かった。
選ばなかった方を見て、それでも領地へ帰ってよかったと思えたなら。
きっと安心できる。
この選択でよかったと、自分に言える。
リディアは顔を上げた。
「使います」
神官が念を押す。
「一度きりですよ」
胸が少しだけ強く鳴った。
それでも、リディアは頷いた。
「はい」
未来を知りたい。
というより。
自分の選択が間違っていないと、確かめたかった。
神官が祈りの言葉を唱える。
鏡の表面が、ゆっくりと揺れた。
やがて、そこに一人の少女が映った。
リディアだった。
王都にいる。
二年後くらいだろうか。
二十歳になった自分は、王立図書院の紺色の制服を着ていた。その胸には、正式な司書官だけがつけられる銀の鍵がある。
知らない男女に囲まれ、大きな本を抱えて何かを話している。
そして。
笑っていた。
とても、楽しそうだった。
「……」
リディアは息をするのを忘れた。
ほんの十秒ほどで光景は消え、鏡にはまた十八歳の自分だけが映った。
「……終わりました」
神官の声に、リディアはようやく鏡から目を離した。
「何が見えましたか?」
「私が……王立図書院で働いていました」
「そうでしたか」
「正式な司書官になっていて」
「はい」
「とても、楽しそうでした」
神官は少しだけ頷いた。
それ以上は、何も言わなかった。
*
神殿を出ると、母が待っていた。
「どうだった?」
「見たわ」
「何が映ったの?」
リディアは少し迷ってから答えた。
「図書院」
母の顔が、ほんのわずかに曇った。
「正式な司書官になってた。……笑ってた」
「そう」
それ以上、母は何も言わなかった。
だから余計に考えてしまう。
もし残っていたら、王立図書院で働いていた。
好きな本に囲まれ、新しい知識に触れ、同じものが好きな人たちと出会って。
鏡の中の自分みたいに、笑っていた。
それを。
私は、捨てた。
*
その夜。
荷造りをしながら、リディアは何度も手を止めた。
明日の朝には王都を出る。北方領まで、馬車で十二日。
机の上には、王立図書院から届いた採用通知が置いてある。
先程から、何度も手に取っては戻した封筒だった。
リディアはそれを手に取る。
――今なら。
まだ、間に合うのではないか。
父も母も、帰ってこいとは言っていない。
領地にだって、雇える人はいる。自分がいなければ絶対に困るわけでもない。
だったら。
王都に残っても、誰にも責められないのではないか。
「お嬢様」
扉が叩かれた。
侍女のナナの声だった。
「明日の出発ですが、予定通り七刻でよろしいでしょうか」
リディアは答えようとして、口を閉じる。
予定通り。
その言葉が、急に怖くなった。
「……ナナ」
「はい」
「もし、明日出発しないって言ったら?」
少し間があった。
「馬車を止めます」
あまりにも即答だったので、リディアは思わず笑った。
「そうじゃなくて」
「では、どういう意味でしょう」
リディアは手の中の封筒を見る。
「……分からない」
本当だった。
帰ると決めた。
そのときは、それが正しいと思った。
でも、選ばなかった未来を見た途端、全部が間違っていたような気がしてきた。
リディアは椅子へ座り込む。
「ねえ、ナナ」
「はい」
「人って、どうやって決めるの?」
「何をです?」
「人生」
ナナはかなり長いこと黙った。
それから、
「ずいぶん大きなお話ですね」
と言った。
リディアは机へ突っ伏す。
「私もそう思う」
窓の外では、夜の王都が光っていた。
明日の朝、ここを出る予定だった。
そのはずだった。
けれど今は。
どちらへ進んでも、選ばなかった方が美しく見える気がしていた。




