第28話:誰にでも起こりうること
なかなか眠りにつけない。
イチカが布の下で身返りを打つ音で、何度も目が覚めてしまう。
何が僕の眠りを妨げているのか分からなかった。用具入れの中にいるからなのか、それともイチカが目と鼻の先で眠っているからなのか。
もう一度、彼女に視線をやる。
(決して寝心地が良いわけじゃないはずなのに……でも、少なくとも眠れるくらいには落ち着いているんだな……パニックを起こすんじゃないかと心配だったけれど、ちゃんと耐えていて感心したよ。でも……これって本当に、僕がここにいるからなのだろうか?)
なぜか僕の方が、彼女よりも緊張している。こんなに女子の近くで寝るなんて、今まで一度もなかったから……
眠っている彼女の姿を見つめる。
(僕がここにいるから、彼女は安心して眠れているんだ……すごく信頼してくれているんだな……)
そう思うと、胸がじんわりと温かくなった。彼女の寝顔を見つめていると、不意に心が穏やかになっていくのを感じた。
(ありがとう、イチカ……君がここにいて、僕を信じてくれている……ただそれだけで、僕の心も解きほぐされていくよ。君のおかげで、今夜はちゃんと眠れそうだ……)
小さなクッションに再び頭を預ける前にもう一度だけ、彼女の顔を見つめた。
部屋の中は少し冷える。けれど、イチカが寄せてくれる信頼の温もりだけで、なんとかこの夜を乗り越えられそうだった。
一朝一夕一
ドアがガタガタと揺れる音で目が覚めた。
「え……あっ! イチカ! 起きて!」
彼女はうーんと小さく唸ると、寝返りを打っただけだった。
(やれやれ、本当に無事に夜を明かしたんだな。パニック発作も起こさなかった。すごく不快で大変だったはずなのに。なんだかイチカのことを誇らしく思うよ。トラウマを一つ克服したみたいだ。)
突然、ドアの向こうから声が響いた。
「え? 誰か中にいるの?」
「おい! 開けてくれ! たのむ、ここから出してくれ!」
「まあ大変! 一体何事かしら……!?」と先生の叫び声が聞こえた。
ドアが激しく揺れ、ついに勢いよく開いた。
「イチカ! 先生が来てくれたよ!」
彼女の体を少し揺さぶる。まだ半覚醒状態のままだ。外の大騒ぎを聞きつけて、彼女はハッと跳び起きた。
「ああ! 本当にありがとうございます! 助かりました!」
先生はわけが分からないといった様子で僕たちを見つめた。
「あなたたち、一体全体そこで何をしていたの? 昨日の夜からずっと閉じ込められていたの?」
「はい……」と、彼女がすぐに答えた。
イチカが立ち上がると、僕は状況を説明しようと口を開いた。
「昨日の稽古の後、奥で衣装の片付けをしていたんです……僕たちがまだ中にいるのに、誰かがドアを施錠してしまったみたいで。出られなくなって、声も誰にも届かなくて……」
「まあ、なんてこと……それは本当に大変だったわね。部活を運営する熱意がないなんて、もう言えそうにないわね。以前はあなたたちにそんな力はないと思っていたけれど……芸術のために用具入れで一夜を明かすなんて! これこそ熱意だわ!」
「ええと……」と、僕の友達は言葉を詰まらせた。
彼女を横目で見やる。なんとか夜を越せはしたものの、まだ顔色がよくない。ちゃんと体を休める必要があるはずだ。
「助けに来てくださって本当に感謝しています……でも、イチカにとってはかなり過酷だったと思うんです。今日は彼女を家に帰らせてあげてもいいでしょうか? かなりストレスがかかっていると思うので……」
「ええ、勿論よ……可哀想に。顔を見れば、本当にしっかり休む必要があるって分かるわ。家に帰りなさい、担任の先生に渡す連絡票を書いてあげるから」
「ありがとうございます……」と、彼女は小さく呟いた。
「可哀想に、イチカ。普段はあなたたちと関わるなと怒っていたけれど……あなたが彼女に付き添って守っていたのね。みんながどれだけ真面目に練習に励んでいたかも見ていたわ。最初はお小言が過ぎたかもしれないわね……それに、昨日の夜、部室の清掃を担当していたのが誰なのか必ず突き止めてやるわ。生徒を用具入れに閉じ込めるなんて言語道断よ! しっかりとお叱りと厳重注意をしておくわ」
(嘘だろ、マジかよ? 僕のことを目の敵にしていたあの先生が……ついに僕たちを認めてくれたのか。)
「でも、あなた。あなたは今日残れるわよね。本番も近いし、部活にはリーダーが必要だわ」
「あ、はい。僕は大丈夫です。残れます。イチカが無事に帰れると分かっていれば」
「ありがとう、レンジ。私は大丈夫よ。教室から荷物を取ったら、すぐに帰るわね」
「分かった」
「ご自宅にもお電話して、ご両親に事情をお伝えしておくわね。きっとすごく心配されているでしょうから!」
イチカが教室へ向かい、先生も立ち去った。僕は一人、部室に残されて待っていた。
(ふぅ。まあ、先生が僕たちを信じてくれるようになったのは一安心だな。それにイチカが無事に夜を明かして家で休めるのも良かった。今日はもうちょっと作業を進めて、後でみんなに何があったか話そう。)
突然、外から人の話し声が聞こえてきた。
(あ、そうだ。まだ早い時間だから、登校してくる生徒たちがいるんだな。でも、校舎のこのあたりは午後の教室だから朝は人がいないはずなのに。こんな時間に誰だろう?)
ドアからそっと外を覗くと、スキがある女子生徒と話しているのが見えた。
(待てよ……ただの女子じゃない……スキが美咲と話しているのか?!)
僕はその光景を飲み込めず、その場で凍りついた。
(あいつが美咲と何の用があるんだ? スキは僕たちを裏切っているのか? いや……そんなはずない。僕はスキを信じていたんだぞ! 何か言うべきだろうか?)
少しの間観察していると、僕がどうすべきか考えている最中に美咲が立ち去っていった。喧嘩をしている風ではなく、むしろ親しい友人のように会話している印象だった。なぜスキは、僕たちの宿敵とあんなに親しげに話していたんだ?
(なんて言えばいいのか分からないな。何も言わずに、ただ様子を窺った方がいいのかもしれない。今あいつを信じられるか分からないし、何か追及したら隠蔽しようとするかもしれない。)
まさにその瞬間、スキが振り向いた。僕と目が合うと、彼は目を丸くした。
(やばっ。見つかった。)
「レンジ? 君かい? ああ……誰かいるとは思わなかったな……ええと、その……」
「どうして美咲と話していたんだ? 彼女が僕たちの宿副だって知っているだろう?」
「おいおい、待ってくれ……君たちが彼女を嫌っているのは知っているけれど……彼女はただ、部活の練習の応援をしに来てくれただけだよ」
「は? なんで君に?」
「ごめん……君が嫌がるのは分かっているけれど、僕と彼女は昔、良い友人だったんだ」
「君は知らないかもしれないけれど……彼女、最近また僕たちを脅迫してきたんだぞ……」
僕はこれまでの状況と、美咲からの度重なる脅迫について手短に説明した。僕の話を聞くと、彼の表情が一変した。
「そんな……知らなかったよ……美咲が僕にそんな一面を見せたことなんて一度もなかった。ただの無邪気な学校同士のライバル関係だと思っていたんだ、イチカとのね。女子同士のよくあるやつかと……でも誓うよ……君を裏切ろうなんて思っていないんだ」
「ふむ……君を信じられるといいんだけどな……」
「信じてくれ……気をつけて見ておくし、何かあったら絶対に報告するから」
「分かった……信じるよ……」
「とにかく、本当に世間話をしていただけだから安心してくれ。怪しいことなんて何も言っていなかったし、やっていなかった。だから大丈夫だと思うよ」
「ありがとう、スキ。疑って悪かったよ。これからはもっと君を信じるようにする。でも、今話したことは誰にも言わないって約束してくれ」
「勿論さ、約束するよ」
ちょうどその時、廊下の向こうからイチカが歩いてきた。
「よし、戻ったわ。あ、廊下でスキ、おはよう」
「おはようイチカ。体調は大丈夫かい?」
「まあまあね……」
彼女は用具入れでの出来事を説明した。
「だから、今日はもう家に帰ることにしたの」
「うわあ、それは災難だったね。どうか無理しないで休んでくれ」
「ありがとう、スキ」
彼女は僕の方を振り返った。
「じゃあね、レンジ……私、もう行くわね」
彼女は背を向け、去ろうとした。
「待って……」
僕は彼女の腕にそっと触れた。
「え?」
「家まで送ろうか?」
「あ……」
彼女は頬を染めた。
「ありがとう、レンジ……でも、本当に大丈夫よ。一緒についてきたら授業に遅れちゃうでしょう?」
「あ……でも、僕は気にしないよ」
彼女は僕に向かって微笑んだ。
「本当に大丈夫だから。昨日から私のために十分すぎるほど尽くしてくれたわ。ありがとう」
「じゃあ……せめて校門の外まで見送らせてよ」
「約束ね」
彼女は見上げて微笑み、僕たちは並んで歩き出した。校外に出たところで、僕はイチカを見送ろうとしていた。
「ねえ、レンジ……ひとつ聞いていい?」
「うん、勿論だよ」
彼女は少し照れくさそうな表情を浮かべ始めた。
「ええと、その……私には関係ないことかもしれないけれど……ほら、私、稽古中に裏方で作業しているあなたのことをよく見ていたでしょう……?」
「あ、はは。そうなの? 光栄だけど、ちょっと照れるな」
「うん……あなたとユキノのことなんだけど……」
「ああ、そっか。ユキノも裏方の仕事をしているからね」
「ええ……二人とも、すごく親しそうに見えたから……」
「うん。良い友達なんだ」
「ううん、そういう意味じゃなくて。レンジ……ユキノのことが……好きなの?」
思いがけない質問に驚かされた。
「え・何だって?」
「だから……彼女のことが『好き』なの?」
「ええと……」
(どうしてそんなことを聞くんだろう? 気まずくて答えづらいな。友達としてユキノのことは好きだけれど……もし『好き』って答えたらイチカはどう思うだろう? それとも『違う』って言ったら……?)
「あ……変なこと聞いちゃってごめんなさい。変に勘違いしないでね。別に私があなたのことを好きとか、そういうんじゃないから。ただ少し気になっただけ、それだけよ。とにかく、もう帰らなくちゃ」
彼女は背を向け、歩き出そうとした。
「イチカ、待って」
「え?」
彼女は僕の方へ振り返った。
「ユキノのことは、そういう意味で好きなわけじゃないよ。彼女はただの、すごく良い友達なんだ」
「そうなの? ふふっ、なんだ、良かった」
「え?」
「え? あ、ううん何でもないの。私には関係ないことだものね。それじゃあまた明日ね、レンジ」
彼女は歩み去っていった。
(変なの。どうしてあんなこと知りたがったんだろう?)
小さくなっていくイチカの背中を見送りながら、僕は奇妙な違和感を覚えた。誰かに見られているような視線を感じる。
(まさか、今のやり取りを誰かに聞かれていたんじゃないだろうな……)
あたりを見回す。周囲には誰もいないように見えた。
(でも、もし本当に誰かが見ていたら? 美咲やその手下だったら危険かもしれない。確かめておいた方がいいな。)
学校へ続く道の脇にある木立ちの方へ向き直る。
(もしかして、誰か隠れているのか……?)
木の裏側を覗き込む。
(あ……木の実を集めているリスか……可愛いな。よし、誰もいなかったみたいだ。誰かに見られていなくて良かったよ。変な噂でも立てられたら困るし。それに、正直……ちょっと気まずかったからな。)
校舎へ戻り、教室へ向かった。ゴミ箱の陰から、ユキノが姿を現した。
彼女はうつむき、深く溜息をついた。
「……」
(彼は……好きじゃないって言ったんだ……)と、ユキノは心の中で思った。




