第20話:美咲の提案
(あぁ、もう……美咲のせいで頭がいっぱいになってた……。教室にノートを忘れてきちゃったよ!)、階段を降りている途中でハッと気づいた。僕はすぐに引き返し、元来た道を戻った。
(美咲がまだその辺にいないといいんだけど……)僕は急いで部室に入り、本を手に取った。(おかしいな……なんで誰かに見られているような気がするんだろう?)
ついさっき部屋を出たばかりだったので、誰かの気配を感じたような気がしたのだ。廊下の向こう側にある、あの空き教室からだろうか……?
そんなわけない。ただの気のせいだ。一応、部屋の中をサッと見渡してみた。けれど思った通り、そこには誰もいなかった。
僕は一人で苦笑した。
(美咲のせいで、すっかり神経質になってるな、僕)
首を振って、再び外に出ようとした。なぜか開け放たれた教室が不気味に思えたので、今度はドアを閉めてから行こうと決めた。
ガタッ!!
「え?」
今のは確実に何かの物音が聞こえた。だけど、中には誰も見当たらない……。ちょうどその時、ドアがわずかに動いた。
(待てよ……誰か隠れてる? ドアの後ろか?)
僕はゆっくりと教室の中へ戻った。
「誰か……いるの?」
誰かが息をひそめているような気がした。ドアの後ろを覗き込む。
(うわ、嘘だろ……)
ドアの後ろで身をかがめて、僕を見上げていたのは……サキ(※原文Ichikaだが、これまでの文脈およびこの後の「Misakiを見て居心地が悪くなった」「Ichikaは会話を聞いていなかったはず」というレンジの思考から、隠れていたのはイチカ)。
「あっ――」
「?! 」
イチカは何も言わずに、ドアの後ろから飛び出して走り去ってしまった。
「イチカ――」
美咲の姿を見たことで、きっと居心地が悪くなってしまったのだろう。僕は彼女を追わずにそのまま行かせた。今はそのことに深く踏み込まない方がいい。僕は美咲がいた教室の方向を見つめた。
考えすぎかもしれないけれど。イチカが僕たちの会話を聞いていたはずがない。
気にしないことにしよう。イチカは知らない方がいい。美咲を見られただけでも十分に最悪なのだから。でも、これからはもっと慎重にならなきゃいけないと痛感した。
[イチカの記憶、あの運命の日]
「私のこと……笑わないでくれてありがとう」
「笑うわけないだろ!」
「君は僕の親友(大親友)なんだから! 心配しないで。君が閉所恐怖症だってことは、誰にも言わないよ」
「ありがとう……。じゃあ、私も君の秘密を守るね。でも、驚いちゃった……。君が不安症を抱えているなんて知らなかったから」
彼女は優しくクスリと笑った。
「ちょっと! 君だって僕をからかわないって言ったじゃないか!」
「ごめん、からかってるわけじゃないの」
彼女はまだ笑いながら言った。
「私が笑ったのは……君が私と同じだったから」
彼女は微笑んだ。
「嬉しいな。だってお互いに信頼し合えるのは、私たち二人だけなんだから」
彼女は僕の手の上に、自分の手を重ねた。
「うん……その通りだね。僕も、君みたいな友達がいてくれて本当に嬉しいよ」
僕たちはしばらくの間、お互いに微笑み合って座っていた。
「誰か、助けて!!」
彼女は必死にドアを叩いた。
「ここから出して!!」
彼女は抑えきれずに激しく泣きじゃくった。
(どうして彼は私をここに閉じ込めたの?! どうして私を裏切ったの? 秘密を打ち明けた後なのに……。なんて残酷な悪戯なの? なんで……どうして?)
電気が消えた。
「嫌だっ!! 誰かお願い、助けて! ここはすごく暗くて、寒いよ……」(私、死んじゃうかも……。あぁ……どうして私にこんなことをしたかったの……?)
「じゃあ、これまでの時間……彼は本当のことを言っていたの? これまでずっと……あの美咲って女の子が……私を傷つけようとしていたの……?」
(彼は私を守ってくれていたんだ……)あなたは私を守ろうとしてくれていたんだ……
[現実]
僕はいつものように遅れて、慌てて演劇部の部室へと駆け込んだ。
「あ、サキ!! もう来てたんだね!」
「あ、お疲れ。グループチャットのメッセージ、見てないの? スキが今日、講堂のステージを確保してくれたんだよ。だから、みんなと一緒に立ち位置の計画をしに先に向かったわ」
「うわ、ありがとう! みんな本当にすごいな!」
僕はチームの熱心さに感心しながら微笑んだ。
「あ、でも……」
突然、美咲のことが頭をよぎった。彼女が他のメンバーの誰かに接触していないだろうか。
「ん? どうしたの? 何か考え事をしているみたいだけど」
「実は、そうなんだ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……。君は……僕たちのことを信頼してくれてる、よね?」
「え? もちろん。何よその変な質問?」
彼女は不思議そうな顔で僕を見た。
「はは。そうだよね。ちょっとバカなことを聞いちゃった。ただ、その、ほら……誰かが僕たちの演劇部について探りを入れているみたいで」
「もし何か噂を聞いても、信じないでほしいんだ……」
サキは声を上げて快活に笑い飛ばした。
「本当にバカね! あんたの演劇部の評判なんて、とっくに知ってるに決まってるじゃない! 私を甘く見ないでよね! これからもっと良くしていくんだから、見てなさい!」
「あ、ははは。その通りだね!」
僕は場の緊張を和らげるために、話題を変えた方がいいと判断した。
「何はともあれ、目の前の作業に戻ろう。ところで、なんでここに一人でいるの?」
「ああ、私は少し後から降りようと思って。ここにある小道具や衣装をいくつかチェックしていたの。もしメッセージを見ていなかったら、あんたに電話しようと思っていたところよ。だから、来てくれてちょうど良かった!」
「そうだね。僕も手伝うよ!」
心配するなんてバカげていたな、と僕は心の中で思った。結局のところ、美咲に一体何ができるっていうんだ? あの頃とは違う、あの時はみんな同じ演劇部のメンバーだったからだ。
でも、彼女はここへ来たばかりの新人だ。
僕たちの部活の人間ではないし、他のメンバーのほとんどは彼女の顔さえ知らないはずだ。彼女が近づいていったとしても、みんながその言葉に耳を傾けるわけがない。きっと僕の取り越し苦労だ。
「ちょっと! 起きてよ、レンジ!」彼女の声が響き、僕の思考は遮られた。
「あ、え? 何?」
「またぼーっとしてる! これについてどう思うかって聞いてるのよ!」
彼女は僕たちの前に、一着の衣装のドレスを広げてみせた。
「あ、なかなか綺麗だね……」
ドレスのことなんて全く分からない男の反応として、僕はドギマギしながら答えた。
「もう、しっかりしてよ! もっとマシな感想はないの?!」
サキはそのドレスを自分の体に直接あてがって、僕に見せてきた。
「あ、ええと……」
彼女は不満そうに顔をしかめて僕を見た。
「本当に、レンジ? 女の子を褒める方法も知らないの?」
「あ、違うんだ! ごめん! その……僕は男だから……ドレスのことなんて本当に何も分からなくて!」
サキはフンと鼻を鳴らした。
「ドレスのことなんて聞いてないわよ、バカ! 私に似合っているかどうかを聞いているの!」
「あ、うーん……すごく似合ってるよ!」
僕は明らかに緊張しながら、すぐにそう答えた。
サキは首を振って、長いため息をついた。
「あんたって本当に救いようがないわね、レンジ。時々、なんであんたのことが好きなのか分からなくなるわ」
「え、今なんて言った?」僕は驚いてパチパチと瞬きをしながら聞き返した。
「あ、何でもない。ほら、この箱を持って下に運んで。私はすぐに行くから」
「あ、うん、分かった……」
恥ずかしくなった僕は、箱を掴んで彼女の言う通りにすることにした。サキは一人で残りの小道具の荷造りを続けた。
「よし、今日はこれで足りるかな。みんなが心配する前に、私も急いだ方がよさそうね」彼女は独り言をつぶやいた。
「あなたがサキね」
聞き覚えのない声が、部屋の静寂を破った。びっくりして、サキは驚きのあまり手に持っていた小道具を床に落としてしまった。
「誰?!」
彼女は素早く振り返った。そこにいたのは美咲だった。
「おっと、落ち着いて。そんなに警戒する必要はないわ」美咲はすっかり平然とした様子で教室に入ってきながら言った。
「誰よ、あんた? どうして私の名前を知っているの?」
「あら、どうして名前を知らないなんてことがあるの? あなた、この学校じゃ実質的に有名人じゃない、知ってる……?」
「有名人……?」サキは困惑しながら繰り返した。
彼女は持っていた箱を、冷静さを保とうとしながら慎重に床へと置いた。
「話を聞こうじゃない。何が望みなの?」
美咲は不敵な笑みを浮かべた。
「ふん。いい子ね」
美咲は威圧的な態度でサキへと近づいた。
「あなたよ」
「わ、私? 何のために?」
「私たちの演劇学校のために決まっているじゃない! あなたは素晴らしい女優になる運命にあるのよ! これぞ運命!」
「演劇学校?」
突然、サキの目がパッと輝いた。
「聞かせて! それって放課後の活動か何かなの?」
美咲はどこか小馬鹿にしたようなトーンで声を上げて笑った。
「違うわよ、バカね。そんなものよりずっと規模が大きいわ。あなたの新しい人生よ! 有名になりたくないの?」
「もちろん! それが私の夢だもん! でも、それにしても……どうして私のことを知っているの?」
サキはすぐにそう答えたものの、再び疑問を抱いて眉をひそめた。
美咲はニヤリと笑った。
「まあ、私のことを知らないのも無理はないわね……。だから、まずは自己紹介をさせて。私は美咲。有名な俳優や女優を多く輩出してきた一族の出身よ。実際、私の両親は……あなたも絶対に知っているような人たちよ!」
「え? あなた、セレブなの?」
美咲はすっかり無頓着な様子で肩をすくめた。
「そうかもね」
それだけ言うと、彼女はサキに一枚の写真を渡した。それは、エレガントな映画の授賞式に出席している美しい夫婦が写った雑誌の切り抜きだった。
「嘘でしょ?! これ、あのヒット映画の主演俳優じゃない! 『ライラの手向け(エル・テンプロ・デ・リラ)』! あなた、この人たちと関係があるの?」
美咲は素早い動きで、その写真をひったくるように奪い返した。
「その人たち……私の両親よ」
サキは衝撃のあまり言葉を失い、あんぐりと口を開けた。
「でも、今すぐみんなに言い触らしたりしないでね。彼らは理由があって芸名を使っているんだから。学校中のみんなに知られたら、私にどんなことが起きるか分かる?」
サキは事の重大さを噛みしめるように、静かにうなずいた。
「とにかく、一流の役者として、彼らは新しく現れる才能にすごく目を光らせているの。至る所にスカウトを置いているわ。この学校にだってね」
彼女はサキをじっと見つめ、意味深な笑みを向けた。
「それって、つまり……?」
「そうよ。彼らはあなたにものすごい可能性を感じているの。このチャンスを掴んで、本物の女優(ACTRIZ REAL)になりたくない?」
「あぁ……ずっと私の夢だった……」サキは胸の高鳴りを感じながら、ぽつりと呟いた。
「彼らの学校は、想像通りすごく授業料が高いの……。でも、あなたのためだけに、その学費を免除してくれるって言っているわ」
「理解できない……まるで夢みたい。あんたがただ私をからかっているだけじゃないって、どうすれば信じられるの?」
「もう、勘弁してよ。あなたのことなんてほとんど知らないのよ? どうして見ず知らずの他人にそんな嘘をつく必要があるわけ?」
サキはしばらくの間沈黙し、相手の言葉を頭の中で天秤にかけた。
「うーん……何か裏があるはずよ、と彼女は声に出して考えた。こんな上手い話が、私にそう簡単に転がり込んでくるはずがない……」
「まあ、一つだけ当たっているわ。タダというわけにはいかない。でも、誰だって喜んで差し出すような、ほんの小さな犠牲よ」
美咲は腕を組みながら認めた。サキは深い不信感を抱いて彼女を見つめた。
「それって何よ?」
美咲は冷たく微笑み、そして条件を口にした
。
「演劇部を辞めること。それだけよ」
サキは完全にショックを受け、一歩後ろへと後退した。
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