第2話:幽霊部活の前に佇む、一人の黒髪美少女。
最後の廊下を曲がり、僕たちの部室へと向かおうとしたその時、予想だにしていない人影が目に飛び込んできて僕は急ブレーキをかけた。
(え?)
部の前に佇む黒髪の女の子の姿を見て、心の中で声を漏らす。
(待て。誰だあれ? なんで演劇部の部室の前に立っているんだ? うわ、これはマズいぞ。誰であれ、こんな時間に部室に入るところを見られるわけにはいかない。部長のくせに自分の部に遅刻してきたなんて、絶対に知られたくない! それに、何よりも……僕が唯一の部員だなんて、見られたくないんだ……)
気配を消して静かに後退しようとしたが、僕の不器用な動きが彼女の注意を引いてしまった。
突然、彼女がこちらに視線を向ける。
心臓がドクリと跳ねた。
「え」
(あちゃ……)目が合っちゃった! ということは、これ、何かしら反応しなきゃダメなやつか?
彼女が僕をじっと見つめているのを痛いほど感じる。
沈黙はあっという間に気まずいものへと変わっていった。僕は唾を飲み込み、この硬直状態を打破することを決意した。
ゆっくりと顔を上げ、彼女の視線を受け止める。
(うわ、ちょっと待て……彼女、めちゃくちゃ可愛いな! いや待てよ。前にもどこかで見たことがあるぞ)
「あの……こんにちは?……」
彼女はノートを胸に抱き抱えたまま、少し首をかしげて恥ずかしそうに瞬きをした。
(声がすごくおっとりしていて、可愛いな……。それに、ものすごく聞き覚えがある……。なんでどこで会ったか思い出せないんだ? あと、名前はなんて言ったっけ? そもそも、なんで僕の部の前にいるんだ!?)
脳細胞が、どうしても出てこない記憶を力づくで引っ張り出そうともがく中、僕は完全にフリーズして彼女を凝視してしまっていた。
僕が完全に石化しているのを見て、その女の子は困ったようにクスッと小さく笑い、僕の目の前でひらひらと手を振った。
「あの、もしもし、レンジくん……? もしかして、タイミング悪かったかな?……」
(僕の名前を知ってる……。これ、本格的に申し訳ないやつだ……)
僕は罪悪感のチクりとした痛みを感じながら、決まり悪そうに頬をポリポリと掻いた。
「あの、うわぁ! ごめん! えっと、もう一回名前を教えてもらってもいいかな?」
「え、嘘でしょ?」
(やばい。怒らせちゃった)
「一年間、ずっと同じ美術のクラスだったのに……本当に忘れちゃったの?」
彼女は悲しそうに視線を落とし、小さくため息をついた。
「ユキノだよ……思い出してくれない?」
その声は、恥ずかしそうに小さく震えていた。
(あ! やっと思い出した!)
彼女はがっかりしたように、もう一度ため息をついた。
「男の子って、本当に現金なんだから……。まあいいや、とにかく、私は演劇部に用があって来たの」
「あ、そ、そうなんだ、もちろん! ここで合っているよ! でも、知っておいた方がいいことがあって……その、今……現在のところ、うちの部活には、きっちり正確に一人しか部員がいないんだ!」
「うん、それなら知ってるよ」
(え、彼女、もう知ってたの?)
「それでも、入部したい?」
(うわぁ。なんて熱意だ……)
「えっと、それなら、我が部へ大歓迎だよ!! でも……なんで部員が一人しかいない部活に入りたいの?」
ユキノは僕の目をじっと見つめ、答える前にあえて気まずい沈黙を挟んできた。
「それ、レンジくんにそのまま返してもいい? なんで自分一人しかいない部活を、わざわざ続けようと思うの?」
(一本取られたな)
彼女のストレートな質問は僕のプライドにクリーンヒットし、僕は完全に言葉を失ってしまった。
しかし、彼女は僕の内心のフリーズには気づかない様子で、僕がプライドを守るための言い訳を思いつく前に言葉を続けた。
「……」
「でも、どうしても知りたいって言うなら、私はただ、新しい表現の場を探しているだけ。美術部にずっといたから、ちょっと退屈になっちゃって。だから、ステップアップするのもいいかなって思ったの……演劇部に入って、例えば衣装の担当とかをお手伝いできたらいいなって。ほら、私、主にファッションの絵を描いてるから」
ユキノは一瞬視線を逸らし、ノートの端を少し指でいじりながら、おっとりとした気恥ずかしさ混じりにその理由を説明してくれた。
(あ、そうだ。彼女、美術の授業の時、衣装のデザインを描くのがめちゃくちゃ上手だったな)
去年の授業で、彼女が描いていた細部まで作り込まれたスケッチをうっすらと思い出した。鉛筆一本で描き出す彼女の才能は紛れもない本物だったし、それを踏まえると、僕のような幽霊部活にとって彼女の提案は本当に魅力的なものだった。
「なるほど、それなら断る理由なんてないけど……でも本当にいいの? どんな衣装を描くことになるか、僕にもよく分からないよ。何しろ、ここには他に役者がいないからね」
僕は少し自嘲気味に笑った。彼女がデザインした服を試着できる唯一のマネキンは、この僕自身ということになるのだから。
「いいよ、構わない。あの退屈な美術部から連れ出してくれれば。……これでお約束、成立?」
ユキノは僕に向かって一歩踏み出し、その瞳に絶対的な決意を宿らせた。その視線に、僕が拒絶する余地など残されていなかった。
「分かった、いいよ。よろしく」
「よかった、ありがとう」
彼女は嬉しそうに、はにかんだ。
彼女の真剣だった表情が一変し、廊下全体をパッと明るくするような、本当に純粋で愛らしい笑顔を見せた。僕は思わず何度かパチパチと瞬きをしてしまった。
しかし、空気が完全に緩むよりも前に、彼女の瞳に再び旺盛な好奇心が戻ってきた。
「でも、レンジくん、一つ聞いてもいい?」
「え、なぁに?」
「なんで部員が一人だけなのに、この部活を『続けている』の?」
その質問は部室の空間にふわりと浮かび、僕がいつもおちゃらけた態度で隠そうとしていた心の奥のセンシティブな琴線に触れた。僕は一つため息をついてから、彼女を真っ直ぐに見つめた。
「ああ、それはね……実は……ある人を待っているからなんだ」
「人を待ってる? それって誰? もしかして、元カノとかそういうの?」
ユキノは即座に首をかしげ、猛烈な興味と、ほんの少しの悪戯っぽさを交えた目で僕をじっと見つめてきた。その表情に、僕は完全に不意を突かれた。
「違うよっ!!」
突然、激しい咳込みが僕を襲った。
「……」
*ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ*
「……」
「コホン。つまり、当然そんなんじゃないよ」
「……」
「でも冗談は抜きにして、本当のところは、ただ誰かが入部してくれるのをずっと待っているだけなんだ……」
「だったら、ただ誰かを誘って入部してもらえばいいじゃない」
「いや……分かってないな……誰でもいいってわけじゃないんだよ……」
「じゃあ誰なの? それって……内緒の片思いの相手とか?」
彼女の恥ずかしげな瞳が、好奇心に満ちた様子で僕を上目遣いに見つめてくる。
(なんでそんな目で僕を見るんだ?)
「そ、そんなこと一言も言ってないだろ!」
僕は決まり悪くなって視線を逸らした。
「あ、ごめんなさい。そんなつもりじゃ……」
ユキノもまた、恥ずかしそうに顔を背けた。
「レンジくんが教えてくれたって、くれなくたって、どっちでもいいんだけどね。でも、その人のためにここまでして、一人きりで部活を守り続けているんだから、きっとその人はレンジくんにとって、すごく大切な人なんだね……」
「まあ、それは――」
まさにその瞬間、彼女が抱えていたノートから何かがハラリと落ちた。
「あっ――」
彼女が手を伸ばして掴むより早く、一枚の紙が僕の足元へとひらひらと落ちていく。僕はそれを拾おうと身をかがめた。
「待って! お願いだから見ないで……!」
「あっ! しまった!」
彼女の警告を頭で処理するよりも早く僕の反射神経が動いてしまい、指が床の上の紙に触れたまさにその瞬間、僕の目はその紙に描かれた内容を捉えてしまっていた。
僕は必死にすっとぼけようとしたが、顔に浮かんだ驚きを完全に隠すことはできなかった。
「なんというか……もう見ちゃった……」
「あうぅ――」
ユキノは羞恥心で顔を真っ赤にした。
彼女の顔は、今にも湯気が立ち上りそうなくらい鮮やかな紅色のトーンに染まっていた。彼女は慌てふためきながら、必死の動作でその紙を両手で隠そうと、僕の方へと突っ込んできた。
「あっ、ダメ! 見ないで……!」
彼女は僕の手から紙をひったくるように奪い返した。
(頬が真っ赤だな。彼女、照れるとこんなに可愛いんだ)
僕はその赤面した表情に見とれてしまい、美術のクラスでは一度も見せたことのないような、彼女の取り乱した姿に気づかされた。それは、彼女の完全に新しくて、そしてとてつもなく愛らしい一面だった。
「え? でも、なんでそんなに恥ずかしがるの?」
彼女はさらに顔を赤くして、ぷいと視線を逸らした。僕は深く考えもせず、思わず手を伸ばして、彼女の肩にそっと手を置いた……。
彼女を落ち着かせ、僕の方を向かせようとした突発的な行動だった。しかし、僕は人と人との距離感における基本的なルールを完全に失念していた。僕の手のひらは、彼女のセーラー服の柔らかい生地の上に、ダイレクトに置かれていた。
「っ!?」
「ひゃっ――」
彼女は顔を真っ赤に染め上げたまま、勢いよく後ろに飛び退いた。
「――あ――」
彼女の肩のぬくもりが、まだ僕の手のひらの中にチクチクと残っている。
手のひらに突然訪れた虚無感は、僕の中に奇妙な感覚を残していった。消えることを拒むような、熱の残響。
部室の空間が急に狭くなったように感じられ、その後に訪れた沈黙は、お互いにとって息が詰まりそうなくらい気まずいものだった。
(うわぁ……触るつもりなんてなかったのに……。でも、まぁ、嫌じゃなかったな、僕としても……)
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。いや、僕が言いたかったのは……その、本当に、本当に凄かったっていうか……」
僕は言葉をまくし立てるようにして、慌てて誤解を解こうとした。僕のリアクションがからかい半分のものではなく、あの紙の上で目にした本当に素晴らしいデザインに対する、心からの純粋な称賛だったのだと、どうにか彼女に伝えたかった。
彼女は、真っ赤になった可愛い顔を僕の方へと戻した。その表情は、恥ずかしさから一転して、突然の驚きへと変わっていた。
彼女の目は丸くなり、内気な表情の奥から、心からの信じられないといった煌めきが覗いた。まるで、これまでに誰からもそんなストレートで誠実な言葉をかけてもらったことがないかのように、僕の言葉を頭の中で咀嚼しているようだった。
「本当に……レンジくん、心からそう思ってくれてるの?」
「うん!……めちゃくちゃカッコよかったよ! 本音を言うと……もう一回、僕に見せてくれない?」
「う、うん……レンジくんがそこまで言うなら……」
ユキノは僕にその紙を差し戻した。僕は彼女からそれを受け取ろうと手を伸ばす。
その紙を受け取る瞬間、僕たちの手が、そっと触れ合った。
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