十七話「二人きりの花火」
夏の夜の風物詩である、地元の大きな花火大会。
何週間も前から、梨紗はこの日を指折り数えて待っていた。
いつも仕事で忙しい誠が、珍しく事前に非番の調整をして「一緒に行く」と約束してくれたからだ。
「よしっ……帯も綺麗に結べた」
自室の姿見の前で、梨紗は新調した紺色の浴衣の裾を軽く整え、嬉しそうに微笑んだ。
この日の為に友達から着付け講座を頑張って学んだ甲斐があった。
髪も不慣れながら綺麗にアップにまとめ、誠に見せるための準備はすべて整っている。
リビングへ向かうとそこにはいつも通りの私服姿の誠が、少しだけ落ち着かない様子で待っていた。
「まこちゃん、お待たせ♡」
「……よく似合ってる」
「ッ!!」
まさかの誠から賛辞に梨紗の胸は弾み、早くデートしたいと胸を躍らせていた。
しかし二人が玄関のドアノブに手をかけようとした、まさにその瞬間だった。
静かな室内に、誠の携帯電話の無機質な着信音がけたたましく鳴り響いた。
画面に表示されたのは、警察署からの連絡。
管内で突発的な緊急対応が発生したという、非常召集の報せだった。
「……城島です、はい。わかりました、すぐに向かいます」
電話を切った誠の表情は、完全に警察官のそれに切り替わっていた。
だが次の瞬間、誠はきつく唇を噛み締め、浴衣姿の梨紗をじっと見つめている。
その様子に梨紗は思わず首を傾げた。
普段の誠は「すまない、仕事が入った」とだけ告げ、梨紗もそれを当然のように受け入れて終わっていたはずの場面だった。
しかし今の誠の瞳には、明らかに以前とは違う、重苦しい躊躇いの色が混ざっている。
「まこちゃん?どうしたの?」
「……」
動かない誠に声をかければ、誠の瞳が微かに揺れる。
約束を破って梨紗を一人にしたくないという、無意識の強い執着が誠の足を鈍らせていた。
そんな誠の胸中を察したのか、梨紗は寂しさを微塵も感じさせない、笑顔を作って彼の背中を押した。
「まこちゃん、私は大丈夫だよ。それより怪我だけはしないでね」
「……あぁ」
梨紗の真っ直ぐな言葉に促され、誠は急ぎ足で現場へと向かった。
こうして楽しみにしていたはずの花火大会デートは、始まる前に中止となってしまった。
*
夜が更け、時計の針が深夜近くを指した頃。
静まり返った玄関の鍵が開き、疲弊した面持ちの誠が帰宅した。
リビングのソファーでうたた寝をしながら待っていた梨紗は、パチリと目を覚まして玄関へと向かった。
「まこちゃん、おかえりなさい」
すでに浴衣からいつもの部屋着に着替えていたが、誠はそんな梨紗の姿を見るなり、痛ましいものでも見るかのように、わずかに眉の間に皺を寄せた。
「……すまなかった。せっかくの約束を、台無しにした」
誠は低く掠れた声で言った。
現場での対応中も、誠の頭の片隅にはずっと浴衣姿で一人取り残された梨紗の姿がこびりついて離れなかった。
約束を守れなかったことに対する悔恨と
梨紗を失望させてしまったのではないかという不安が、今の誠の心を重く引きずっていた。
「うん?別に気にしてないよ。電話が来たとき、大きな事件じゃなきゃいいなって、それだけが心配だったから」
「…梨紗」
「まこちゃんがこうして無事に帰ってきてくれただけで、私は十分だよ」
梨紗は本当に気にした様子もなく、いつものように穏やかに笑った。
だが誠は、それでも納得がいかなかった。
自分の中に泥臭く居座り続ける「梨紗を優先したかった」という重い感情の処理が、自分自身でも上手く追いついていない。
無事に帰宅したことで全てを良しとする梨紗の健気さが、余計に誠の胸を苦しくさせていた。
お互いに言葉を失い妙な沈黙が流れかけた、その時だった。
「ね、まこちゃん。ちょっといい?」
「?なんだ」
「うん♡あのね、すぐそこまでお出掛けしよ」
強引に誠を連れ出した梨紗は、近くの深夜のコンビニへと向かった。
明るい店内の隅、夏の終わりに少しだけ売れ残っていた花火のコーナーから一袋購入する。
ついでに水のペットボトルとバケツ代わりのプラカップを買い、二人はそのまま、夜の静かな河川敷へと足を運んだ。
草の匂いが混ざる夜風が、二人の髪を優しく揺らす。
遠くで街灯の光が水面に反射する中、川辺の平らなコンクリートの上に腰を下ろし、梨紗は買ってきたばかりの花火の袋を開けた。
「花火、一緒にやろう」
「……」
遅い時間のため、大きな音や煙が出るものは避けて残ったのは小さな紙で縒られた素朴な線香花火だった。
「線香花火だけになっちゃったね」
「不満か」
誠の口から漏れたのは、低く、どこか固い声音だった。
約束を破り、こんな小さな花火の火種一つしか与えられなかった我が身への不甲斐なさが、そのまま言葉になって出たのだろう。
「ん?どうして?」
梨紗は誠の口から出た言葉が、あまりにも不思議で首を傾げた。
なぜ誠がそんなに申し訳なさそうな顔をしているのか、梨紗には分からなかった。
花火の大きさがどうだとか、そんなことは梨紗にとって些細な問題でしかなかったからだ。
「まこちゃんと一緒なら楽しいよ」
「…そうか」
「うん」
誠がライターで火を点け、梨紗の手元にある線香花火の先端へと移す。
じりじりと紙が焦げ、やがて小さな、オレンジ色の丸い火の玉が形成される。
火の玉から松葉のような繊細な火花が静かに散っていく。
その光の中に浮かび上がる梨紗の表情には、一転の曇りも、無理をした様子もなかった。
それを見つめていた誠の胸の奥で、張り詰めていた頑なな塊が、すっと融けていくような感覚があった。
「……俺もだ」
誠は、小さくそう呟いた。
大きな花火大会に行けなかったことは、確かに悔しい。
だがこうして静かな暗闇の中、誰もいない河川敷で、梨紗の体温を隣に感じながら二人だけで小さな火花を見つめているこの時間が…
どうしようもなく愛おしいと感じている自分がいた。
END
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