十五話 「 城島 誠 (後編)」
「嘘だ……」
誠の唇から、弱々しい否定が漏れる。
だが杏奈の嘲笑う顔が、それが紛れもない真実であることを残酷に物語っていた。
脳裏を走馬灯のように過ったのは、亡き父・郁人の姿だった。
初めて自転車の補助輪を外して、後ろから支えてくれた日。
子供の時、「俺、父さんみたいな警察官になる」と夢を語った日。
『お前なら、きっといい警察官になれるよ』
まるで自分のことのように誇らしげに、優しい笑顔で頭を撫でてくれた父。
誰よりも温かかった父。
自分に職務の全うを教えてくれた、尊敬する祖父。
誠はずっと、その背中を追いかけてきた。
自分もいつか父のようになりたいと、城島家の男としての血を引いていることが、何よりも誇りだった。
だがその城島家の血は、自分の身体には、一滴たりとも流れていなかったのだ。
自分の中に流れているのは、人を騙し、男に溺れ、借金を重ね、父を侮辱する、この目の前の醜い女の血だけ。
「……っ、あ、」
胃の奥が雑巾のように強く捻じれる。
猛烈な吐き気が襲ってきた。
違う、そんなはずはない。
嘘だと叫びたいのに、喉が完全に押し潰されて否定する言葉が何一つ出てこない。
もし本当に父の息子ではないのだとしたら、これまで生きてきた「城島誠」という存在は、一体何なのだ。
父の息子ではない。
祖父の孫でもない。
父のあの圧倒的な優しさも、祖父の正義の強さも、自分は何一つ受け継いでなどいなかった。
ただの偶然、あの聖人のような人たちに育てられただけの、赤の他人に過ぎない。
父に愛されていたという、人生の唯一の心の拠り所だった記憶までが、砂の城のように音を立てて崩壊していく恐怖に、誠はただ立ち尽くすしかなかった。
「あの」
その時、誠と杏奈の間の凍りついた空間を切り裂くように、梨紗の声が割って入った。
梨紗は迷いのない足取りで誠の前に立ち、彼の激しく震える大きな手を、両手で包み込むようにして握った。
いつもは驚くほど暖かくて、自分を力強く守ってくれる誠の手が、今はまるで死人のようにひどく冷え切っていた。
誠の瞳は完全に光を失い、呆然と宙を見つめている。
その世界の終わりに立ち尽くしているかのような誠の顔を見た瞬間、梨紗の胸は張り裂けんばかりに締め付けられた。
彼が大切にしていた誇りのすべてを、目の前で強奪されてしまったかのように見えたからだ。
だからもう、梨紗はこの怪物の言葉を聞いていられなかった。
「アナタには、まこちゃんをこの世に産んでくれたこと……そのことだけは、感謝します」
梨紗は誠の手を握ったまま、杏奈に向かって一歩も引かずに声を張り上げた。
「でもまこちゃんがこんなに真面目で、優しくて、思いやりがあって、ここまで強く立派に、誰よりも家族思いな男の人に成長したのは、まこちゃんのお父さんが…郁人おじ様が、まこちゃんのことを、たくさん、たくさん愛してくれたからです」
梨紗は握った誠の手のひらに、きゅっと力を込めた。
大丈夫と、こんな怪物を見なくていいよと伝えるように。
「それに、血が繋がってないから何なんですか」
「はぁ?」
「まこちゃんが郁人おじ様を心から尊敬してたことも、郁人おじ様がまこちゃんを誰よりも大事にして、誇りに思ってたことも、紡いできた時間は、何一つ、消えたりしません」
杏奈はひどく不機嫌そうに、狂気混じりの顔を歪めた。
まるで、この小娘が一体何を熱くなって怒っているのか、本気で理解ができないと言いたげな顔だった。
その決定的に人間の心が欠落した顔を見て、梨紗は悲しく悟った。
この人には、どんなに言葉を尽くしても絶対に届かない。
どれだけ言葉を重ねても、どれだけ郁人が誠に注いだ無償の愛の尊さを伝えても、きっとこの怪物は生涯理解することはないのだ。
梨紗は横目で、背後にいる誠の様子を盗み見た。
誠はただ、生気を失った顔で俯いたまま、梨紗に握られている自分の大きな手を見つめていた。
その顔は酷く苦しそうで、今にも音を立てて精神が壊れてしまいそうで怖かった。
今この場で必要なのは、この怪物との不毛な言い争いじゃない。
これ以上、大好きなまこちゃんを傷つけないこと、この場所から怪物と引き離すことだ。
梨紗は目の前の杏奈を、強い瞳で睨み据えた。
「二度と、まこちゃんの前に現れないでください」
「この生意気な小娘がァ!!あたしに指図する気かい!?」
金切り声が夕闇の公園に響き渡り、完全に頭に血が上った杏奈が、梨紗の胸ぐらを乱暴につかみ取った。
梨紗の華奢な身体が無理やり引き寄せられた瞬間、誠の肩が僅かにピクリと動いた。
(守らなければ……梨紗を、俺が守らなければ……)
本能がそう叫んでいるのに、どうしても身体が動かない。
頭の中では分かっているのに、足の裏が地面に極太の杭で縫い付けられたかのように、1ミリも前へ進むことができなかった。
自分は郁人の子ではないという絶望が、誠の全てを麻痺させていた。
「はいはい、そこまでですよ」
その時、聞き慣れたどこか緊張感の抜けた声が梨紗と杏奈の間に割って入った。
杏奈が驚いて振り返れば、そこには警察官の制服に身を包み、鋭い眼光を放つ響が立っていた。
「随分と公共の場で騒がしいねぇ」
「な、なんで警察が……!」
「通報がありましたので」
響はわざとらしく肩をすくめながら答え、梨紗の腕を掴んでいた杏奈の手首を、警察官としての容赦のない力技でギリりと引き剥がした。
響の姿を見た瞬間、梨紗の肩から力が抜ける。
実は公園で杏奈に声をかけられ、ベンチに座って話し始めた時点で、梨紗はポケットの中でスマホを操作し通話モードにして事前に響へSOSを入れていたのだ。
お墓での誠の様子を見ていたからこそ、一人で対処できる相手ではないと分かっていた。
だからこそ梨紗は最初から、誠の相棒であり、唯一信頼できる響に連絡を入れていた。
「離しなさいよ!離せって言ってるだろ、このガキ!!」
「はいはい、落ち着いてくださいね。お母さん。公務執行妨害や暴行罪で引っ張られたくなかったら、大人しく署まで来てもらいますよ。詳しいお話は、向こうでじっくり聞きますから」
響の淡々とした、しかし有無を言わせぬ冷徹な声に、杏奈はギリギリと歯噛みして顔を歪める。
「ほら、行きますよ」と響に両腕をがっちりとホールドされた杏奈の、狂ったような怒鳴り声が、夜の帳が下りる街の中へと次第に遠ざかっていく。
杏奈のヒステリックな叫び声が、やがて完全に聞こえなくなった。
静まり返った街灯の下、その場には、誠と梨紗の二人だけが取り残された。
「まこちゃん……」
梨紗がそっと、壊れ物に触れるような優しい声で名を呼んだが、誠からの返事はなかった。
誠はただ、地に足をつけたまま、魂が抜けたようにどこか遥か遠くの虚空を見つめて静止していた。
俺は、郁人の息子ではなかった。
そのあまりにも残酷で、容赦のない事実が、誠の胸の奥を鋭利な刃物で抉り続けていた。
人生のすべての基盤であり、誇りそのものだった城島誠という人間の根底が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
父のようになりたかった。
父の息子であることが、何よりも嬉しかった。
それなのに、自分はただの赤の他人だった。
「俺は……」
誠の唇から、見たこともないほど震える声が漏れ出た。
「俺なんか……っ」
一気に、両膝からすべての力が崩れ落ちた。
ドサリと地面に膝をつき、四つん這いのような無様な体勢になった誠は、街灯の光に照らされる自分の大きな掌を見つめた。
この大きな手も、この頑丈な身体も、体内を巡っている血さえも。
すべて、自分が尊敬した郁人のものではなかったのだ。
「俺なんかさえ、生まれなければ……っ」
掠れた、血を吐くような絶望の声が零れ落ちる。
「父さんは……父さんは、あんな女に振り回されることもなく、もっと……もっと」
幸せな人生を歩めたんじゃないのか。
その言葉だけは、どうしても胸の奥に飲み込むことができなかった。
我が身を呪う誠の姿があまりにも痛々しく、見ていられなくて梨紗は地面に膝をつき、彼の冷え切った大きな手を両手で包み込むようにして強く、強く握りしめた。
「違うよ」
それは世界で一番優しい声だった。
彼の言葉を否定するためではなく、彼の崩れそうな魂をその場所で支え続けるための、温かい声。
「血が繋がってるかどうかなんて、そんなの関係ない。だって私はまこちゃんが好き」
誠の手を握る力を、さらに少しだけ強める。
「真面目で、正義感があって、誰よりも優しくて、強くて……ちょっと不器用だけど、でも世界で誰よりも家族を大事にしてくれる『城島誠』という一人の男の人に、私は恋をしたの」
誠は顔を上げることができない。
地面を見つめたまま固まっている彼の耳元へ、梨紗はゆっくりと言葉を紡ぎ続けた。
「それは郁人おじ様だって、おじい様だって同じだよ。
血なんて関係ない。まこちゃんが、最高の息子で、最高に可愛い孫だったから……だからたくさんの愛情を、いっぱいいっぱい注いでくれたんだよ」
『誠、よくやったな』
ふと誠の脳裏に生前の父が自分を褒めてくれる、どこまでも温かい笑顔と声が鮮烈に蘇った。
誠の記憶の底に残る父は、いつだって、自分の成長を誰よりも慈しむような愛に満ちた目で、見守ってくれていた。
その瞬間、誠の中で限界まで張り詰め、強がっていた何かが、プツンと音を立てて切れた。
もう、堪え切ることができなかった。
喉の奥が引き攣り、声にならない。
胸が苦しくて、上手く息が吸えない。
心臓が張り裂けそうなほど痛い。
どうしていいのか、自分が誰なのか分からなくて、気がつけば誠は、小さな梨紗の身体にしがみつくようにして、子供のように大声を上げて縋り付いていた。
「俺は……っ、俺は……!!」
喉が激しく震える。
言葉にならない、嗚咽と共に、大粒の涙が誠の目から堰を切ったように止めどなく溢れてくる。
郁人の息子でありたかった。
父のようになりたかった。
父の血を継いでいると、あの人の本当の子供だと、死ぬまで信じていたかった。
「っ……あぁ……!!う、あぁ……!!」
誠は男としてのプライドも、警察官としての矜持もすべて投げ打ち、声を押し殺すこともできずに、ただただ声を上げて大泣きした。
梨紗の腹に顔を埋め、まるで迷子になった子供のように。
泣いて、泣いて、泣き続けた。
梨紗は、何も言わなかった。
ただ自分のお腹にしがみついて、激しく泣き崩れる誠の大きな身体を、細い腕で精一杯、壊れんばかりに強く抱きしめ続けた。
今の誠には、どんな綺麗な言葉も慰めも届かないということが分かっていたから。
だから、ただ自分の体温と心音だけを彼にぶつけるように、強く抱きしめた。
彼がどこか遠くへ離れていってしまわないように。
彼の心が、このまま木端微塵に壊れてしまわないように。
誠の大きな頭を自分の胸元へと優しく抱き寄せ、子供をあやすかのように、何度も、何度も、その広い背中を優しく撫で続けた。
言葉にはしない。
ただ、その溢れんばかりの絶対的な愛と想いをすべて込めるように、梨紗は誠の傍で、彼の涙が枯れるまで、その身体を抱きしめ続けた。
◇
「まこちゃん、いってらっしゃい♡」
翌朝、玄関先でエプロン姿の梨紗がいつも通り笑っている。
昨日までの嵐のような出来事が嘘のように、いつもと何一つ変わらない朝の光景。
いつもと同じ、明るい笑顔。
いつもと同じ、心地のいい声。
まるで、最初から何も悲しいことなんて起きていなかったかのように、梨紗は平然と振る舞ってくれていた。
だが誠には痛いほどに分かっていた。
あの日、自分は彼女の前で、警察官としても男としても、酷くみっともない姿を晒してしまった。
子供のように大声を上げて泣き、弱音を吐き散らした。
それでも、梨紗は自分の元から離れなかった。
呆れることも幻滅して軽蔑することも一切せず、ただ自分のすべてを受け入れるように抱きしめてくれたのだ。
まるで彼女にとってあまりにも当たり前であるかのように。
「まこちゃん?どうしたの?」
黙ったまま玄関口で立ち尽くす誠に対し、梨紗が不思議そうに首を小さく傾げる。
誠はしばらくの間、梨紗の姿を吸い込まれるようにじっと見つめていた。
何故だろう。
胸の奥から、言葉では言い表せないほどの、爆発するような愛おしさが込み上げてきて仕方がなかった。
梨紗を守りたい。
梨紗を幸せにしたいという想いが、あの日を経て、より一層強く、強固なものへと昇華していた。
「まこちゃ……んッ!?」
呼びかけようとした梨紗の唇を塞ぐように、誠は不意に顔を近づけ、彼女の柔らかい唇へとそっと口付けを交わした。
ほんの一瞬だけの、静かな接触。
だがそれは紛れもない、誠の方から梨紗へと求めた“キス”だった。
「――――ッ」
梨紗の脳内の思考回路が、完全に停止した。
数秒のタイムラグを経て、今自分がまこちゃんに何をされたのかを理解した瞬間、梨紗の顔は爆発でもしたかのように真っ赤に染まり、一気にとれたての茹で蛸のように真っ赤に茹で上がった。
「え、あ、え、え、えっ!?!?」
あまりの動揺にパニックになる梨紗を見て。
誠はあの日以来初めて、その端正な口元を僅かに緩めて、本当に小さく愛おしそうに微笑んだ。
そして誠は真っ赤になって固まっている梨紗の小さな身体を、今度はそっと愛おしそうに引き寄せ、腕の中に抱きしめた。
「……行ってくる」
低く、心地よく響く誠の声が、梨紗の耳元で優しく落ちる。
梨紗はもう、恥ずかしさのあまり返事どころの騒ぎではない。
ただ顔を真っ赤にしたまま、誠の腕の中でコチコチに固まっていることしか出来なかった。
自分の行動一つでここまで真っ赤になってくれる梨紗の姿が、どうしようもなく愛おしくて、愛おしくて。
誠はもう一度だけ、その小さな身体を腕の中で強く抱きしめてから、その温もりを胸に真っ直ぐな足取りで仕事へと向かった。
尚、梨紗は玄関でしばらく腰を抜かしていた。
END
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最期までお読みいただきありがとうございました。
梨紗と誠の日常を今後も応援していただけるのでしたら、いいねや下の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎(全部入れると10pt)で評価していただけると、いろんな方に読んでいただけるようになるのですごく嬉しいです。
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どのシーンなのかはお楽しみに°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°




