十五話 「 城島 誠 (中編)」
あの激動の墓地での邂逅から、数日後のことだった。
いつも通り勤務を終え、制服姿で派出所へと戻ってきた誠は、その入り口の直前でピタリと足を止めた。
ガラス戸の向こうに、およそこの場所には似つかわしくない、見覚えのある女の姿があったからだ。
「あら、誠!お疲れ様!」
杏奈は対応している響や周囲の警察官たちへ向けて、実に対後ろめたそうに、それでいて愛想よく何度も頭を下げていた。
彼女が陣取っている事務机の上には、手土産のつもりなのだろう、いかにも高級そうな菓子折りがぽんと置かれている。
「なんだ、城島くん。こちらは君のお母様だったのか」
年配の巡査長が、杏奈から手渡された菓子折りを手にしながら、「わざわざ勤務先にまで挨拶に来てくださるなんて、気を遣わせちゃったね」と申し訳なさげに目元を下げて笑う。
その瞬間、誠の顔から一切の表情が消え失せた。
同僚たちの言葉に返事すらしないまま、誠は大きな歩幅で杏奈へと肉薄すると、彼女の細い腕を有無を言わさぬ力で掴んだ。
「誠……?急にどうしたのよ」
「ちょっと来てください」
突然の誠の豹変に戸惑う同僚たちやその様子を奥の席から一言も発せず、ただ静かにすべてを察したような鋭い瞳で傍観している響。
彼らの視線を背中に浴びながら、誠は怒りのままに杏奈を人気のない裏路地へと無理やり引きずっていった。
連行される道すがら、杏奈は手首の痛みに「痛いわ、離して」「何するのよ誠!」と何度も甲高い声を上げたが、脳内に血が上った誠の耳には、その言葉はただの雑音としてしか届かなかった。
「二度と、ここへは来ないでください」
誰の目にも触れない、薄暗い路地裏に到着すると同時に誠はゴミでも捨てるかのように乱暴にその手を放した。
杏奈は赤くなった手首をもう片方の手でさすり、顔を歪めていたが、誠が冷徹に睨み据えるとすぐさま悲劇のヒロインのような、ひどく悲しげな表情を作って誠を見つめた。
「そんなに怒らないで頂戴……でも私、本当に困っているのよ。今は住む場所もまともにないの。ねぇ、お願いだから、誠の家に――」
「駄目です」
杏奈が言い終えるより早く、誠は被せるように冷徹な一言でその願いを叩き潰した。
あまりの頑なさに、杏奈は驚いたように小さく息を呑む。
だが彼女がどう思おうと、そんなことは誠にとって心底どうでもいいことだった。
(梨紗のいる場所に、この女を近づけるわけにはいかない)
脳裏に家で自分の帰りを待ってくれている梨紗の、あの無垢な笑顔が浮かぶ。
自分の過去を汚した元凶であるこの女を踏み入らせることなど、天地がひっくり返っても許せるはずがなかった。
だが頑なな拒絶を示す誠に対し、杏奈も生活がかかっているのか、なおも必死に食い下がる。
「そんなに冷たくしなくたっていいじゃない!なら、私はこれから何処に行けばいいのよさ!のたれ死ねって言うの!?」
路地裏に響き渡る、途方に暮れた杏奈の叫び声。
誠は奥歯を噛み締め、忌々しげに小さくため息をついた。
ここでこれ以上騒がれ、梨紗の存在や家の場所を探られるリスクを冒すわけにはいかない。
誠は杏奈に「此処で待っていろ」とだけ冷たく告げ、その場を一時的に離れた。
それから数十分もしないうちに、足早に杏奈の元へと戻ってきた誠は、無言のまま薄い白い封筒を彼女の目の前へと差し出した。
「これで本当に最後です。もう俺の手元には一銭もありません。あとはこの金で自分で住む場所を借りて、真面目に仕事を探してください」
「あぁ……!誠!!ありがとう、本当に貴方はいい子ね!!」
杏奈は誠が差し出した封筒の中に詰まった現金の厚みを察するや否や、先ほどまでの悲痛な表情を霧散させ、誠の手から奪い取るようにして封筒をひったくった。
その貪欲な姿に激しい嫌悪感を覚えながら、誠はこれ以上ないほど低い声で言い渡す。
「二度と職場にも、俺の前にも、姿を現さないでください」
誠の声は静かだった。
だが、そこには明確な、一縷の慈悲もない“決絶”の意思が込められていた。
◇
それから、さらに数日後のことだった。
夜番の仕事を終え、すっかり暗くなった夜道を歩いて帰宅した誠は、自宅マンションの手前ぼんやりと周囲を照らす街灯の下に見覚えのある女の影を見つけ、雷に打たれたように足を止めた。
街灯の光に照らされていたのは、やはり杏奈だった。
彼女は近付いてくる誠の姿に気づくと、まるで我が子を歓迎する母親のように、嬉しそうにぶんぶんと両手を振ってきた。
「誠!おかえりなさい!」
誠は何も答えなかった。
ただ、全身の血が凍りつくような冷たい、刺すような視線で杏奈を凝視する。
杏奈は「偶然通りかかった」と言いたげに笑顔を浮かべているが、その立ち位置や時間帯からして、明らかに誠の帰宅を待ち伏せしていたのは明白だった。
さらに誠の心を凍りつかせたのは、彼女の視線が徐々に誠の住まいであるマンションの入り口へと、値踏みするように向けられていることだった。
誠は近づいてこようとする杏奈の手を冷酷に振り払い、背後に細心の注意を払いながら、逃げるように家へと戻った。
幸いにも、誠と梨紗が二人で暮らすこのマンションは最新のセキュリティが導入されており、防犯カメラやオートロックの壁は厚い。
例え実の母親だと主張したところで、容易に敷地内へ侵入することはできないだろう。
「まこちゃん、おかえりなさい!」
ガチャリと玄関の鍵を開ければ、いつものようにパタパタと廊下を走ってきて満面の笑みで出迎えてくれる梨紗の姿があった。
そのあまりにも無防備で、温かい光景に、誠は言葉を失ったまま静かに見つめる。
(もし……もしあの女が、梨紗の存在を完全に知ってしまったら、どうなる?)
嫌な予感と、どす黒い恐怖しか湧いてこなかった。
あの底なしの強欲な女だ。
誠に新しい家族がいると知れば、梨紗を人質に取るようにして、さらなる金を無心しにくるかもしれない。
「まこちゃん?どうしたの、怖い顔してる」
「……いや、なんでもない」
これ以上は、個人の感情だけで引き延ばしていい問題ではない。
杏奈を野放しにすれば、間違いなく梨紗が巻き込まれる。
誠は心配そうに覗き込んでくる梨紗の横を通り過ぎ、コートも脱がないまま自室へと直行した。
そして静かに携帯電話を取り出すと警察のネットワークとは別のかつてのツテで知り合った信頼できる興信所の番号へと発信した。
「……夜分にすみません、至急、調べてほしい人物がいます」
梨紗は両手に食材の詰まった買い物袋を下げながら、夕暮れの街を歩いていた。
ここ数日間の、誠の尋常ではない様子がどうしても頭から離れなかったからだ。
あの日、お墓で母親を名乗る女性と会ってからというもの、誠は明らかに何かに追い詰められたような、酷く険しい顔をしていた。
心配になって「大丈夫?」と声をかけてみても、誠は決まって「何の問題もない」としか返してくれない。
梨紗に踏み込んでほしくないのだということが、誠の態度から痛いほどに伝わってくる。
だからこそ梨紗もそれ以上、彼のプライベートに無理やり踏み込むことは出来ずにいた。
自分が学生でなければ、誠の力になれただろうか。
小さくため息をつき、うつむき加減に歩を進めていた、その時だった。
「あら、貴女……確か、あの日のお嬢さんよね?」
不意に頭上から聞き覚えのある、どこか粘り気のある甲高い声が降ってきて、梨紗はハッとして足を止めた。
ゆっくりと振り返れば、そこに立っていたのは数日前に邂逅した誠の母親――杏奈だった。
「こ、こんにちは……」
梨紗は本能的な警戒心を抱きながらも、大人の女性に対して無視をすることもできず、小さく身を縮めて会釈をした。
杏奈はそんな梨紗の警戒を解くように、いかにも困り果てたといった風に眉を下げて微笑んだ。
「実はね、誠が私の話を全然聞いてくれなくて困っているのよ。貴女、誠の彼女さんでしょ?少しだけでいいから、あの子についてお話できないかしら」
「え、あ、それは……っ」
あまりにも突然の提案に、梨紗は「断ろう」と口を開きかけた。
だが相手はどんな事情があるにせよ、最愛の誠をこの世に産み落とした実の母親だ。
結局、梨紗は断るタイミングを逃してしまい、マンションのすぐ近くにある人気のない公園前のベンチへ、杏奈と並んで腰を下ろすことになってしまった。
「貴女、近くで見ると本当に可愛いわね。お名前は?いくつなの?」
「……」
「その制服を見るに、17?ううん、18歳くらいかしら?」
「……あの、えっと……」
「ふふ、あの子ったら、こんなに若くて可愛い子を捕まえるなんて、隅に置けないわね。やるじゃない」
ベンチに座ってからというもの、杏奈は梨紗の素性を探るように、ひたすら一方的に話しかけてくる。
梨紗はその容赦のない質問攻めに、ずっと引き攣った曖昧な笑みを浮かべることしか出来なかった。
(この人に、私自身のことやまこちゃんとの生活のことを喋ってはいけない――)
胸の奥から湧き上がる強烈な警告の予感に、梨紗はどうしても本当のことを口にすることが出来ず、ただただ喉を詰まらせていた。
すると突然、杏奈の声のトーンが低く這うようなものへと変わった。
「ねぇ、お嬢さん」
「……はい?」
「貴女、これから誠の家に行くんでしょ?一緒に暮らしているのかしら?」
「……っい、いいえ」
「ねぇ、私もその家に入れてくれないかしら」
「……えっ」
突拍子もない要求に、梨紗は思わず目を丸くした。
杏奈は梨紗の手元へじわじわと距離を詰め、悲しそうな声を演出しながら懇願してくる。
「少しの間でいいの。行く当てもなくて寒いのよ。母親が息子を頼って何が悪いの?ねぇ、鍵を開けて私を中に入れて頂戴」
どこか狂気を孕んだ瞳に恐怖を感じながらも、梨紗はきっぱりと首を横に振った。
「ごめんなさい……それは、できません」
「なぜ!?貴女から誠に言ってくれれば――」
「そういう大事なことは、私の一存じゃ決められないので」
梨紗は買い物袋の取っ手を強く握りしめ、杏奈の目を真っ直ぐに見据えた。
「まこちゃんに、ちゃんと聞いてからじゃないと…駄目です」
その瞬間だった。
杏奈の顔から、それまで張り付いていた偽物の笑みが、瞬時に消え失せた。
「……私は誠の母親なのよ?」
地を這うような、ドスの利いた杏奈の低い声。
梨紗は肉食獣に睨まれた小動物のように、ゾクリとして少しだけ肩を震わせた。
「実の母親を家に入れるのに、どうして許可がいるのよ。
あぁ、分かったわ。アンタが余計なことをあの子に吹き込んで、私から遠ざけようとしてるんじゃないの?」
「ち、…違います」
「黙りなさい!」
一瞬にしてヒステリックに変貌した杏奈の様子に、梨紗の眉が僅かに寄る。
何かが決定的におかしい。
恐怖から少しだけ後ろに腰を引いた梨紗の胸元へ、杏奈は豹変した顔で一気に掴みかかるように詰め寄ってきた。
「この小娘が……!」
「……っ!」
「家族の問題に調子に乗って口出しするんじゃないよ!!」
剥き出しの気迫と怒号に梨紗は思わず身を竦め、ぎゅっと目を瞑った。
その矢先のことだった。
「――何をしている」
公園の入り口から、周囲の空気を一瞬で凍りつかせるような、極低音の冷徹極まりない声が響き渡った。
梨紗と杏奈の二人が弾かれたように声のする方へと振り返れば、そこには警察官の制服に身を包み、鬼のような形相をした誠が立っていた。
勤務中に興信所からの報告を受け、最悪の事態を察して執念で杏奈を捜し当てたのだ。
「まこ、ちゃん……」
梨紗は、誠のその表情を見て思わず息を呑んだ。
凄まじい怒り。
誠がここまで感情を露骨に、そして凶暴なまでに表に出す姿など、出会ってから一度も見たことがなかった。
「ま、誠!誤解よ!」
杏奈は慌てて梨紗の身体から手を離し、取り繕うように立ち上がった。
「違うのよ!私はただお話ししていただけで!なのに、この子がね!私に酷いことを言って私を追い出そうと――」
「嘘をつくな」
誠の地響きのような声が杏奈の言葉を無残に叩き切る。
誠は一歩、また一歩と、杏奈を圧殺するかのような足取りで近付いてきた。
「……興信所で、お前の身辺をすべて調べ上げた」
その一言が放たれた瞬間、公園の空気がパキリと音を立てて変わった。
誠の瞳には、かつて実の母に向けられていた僅かな戸惑いすら残っておらず。
ただ冷酷な法執行官としての、あるいは獲物を据えかねる獣のような光だけが宿っている。
「もう、全部知っている」
誠の無慈悲な宣告に、杏奈の顔から見る見るうちに血の気が引いていく。
だが誠は彼女の狼狽など一切顧みることもなく、手元にある書類の事実を淡々と冷徹に告げていく。
「借金は百万円でも、二百万円でもなかったらしいな。今も複数の闇金融業者から、男と遊ぶための借り入れを延々と続けている。当然、返済など最初から滞っている」
「……っ、それは……!」
「違うと言うな。男に騙されて日本を出るという話も、すべて金を巻き上げるための嘘だった。貴方は、昔から何一つ変わっていない。同じことを何度も何度も繰り返して、他人の人生を貪り食っている」
二人の間に、重苦しい沈黙がドロリと落ちる。
梨紗はベンチに座ったまま、拳を血がにじむほど固く握りしめている誠の背中を、ただじっと見つめていた。
その拳の震えが、凄まじい怒りから来ているのだということは誰の目にも明らかだった。
だが、それ以上に梨紗の目には、誠のその大きな背中が裏切りの連続によって血を流し、深く、深く傷ついているように見えて仕方がなかった。
「……二度と、俺たちの前に姿を見せるな」
誠の最後の警告。
杏奈はしばらくの間、幽霊のように黙り込んでいた。
だが数秒の後、彼女の俯いた口元から、クツクツと不気味で小さな笑い声が漏れ聞こえ始めた。
「……っはは」
初めは、自嘲するような小さな笑い声だった。
だが、それは次第に狂気を帯びて大きくなっていく。
「あっはははははは!!!あはははははは!!!」
甲高い、狂ったような笑い声が夕暮れの公園に不気味に響き渡った。
梨紗はそのあまりの異常さに、思わずゾッとして身を竦める。
「何だい、もうバレちまったのかよ。ケチな真似して探偵なんて雇いやがって」
杏奈は目元に浮かんだ涙を乱暴に拭い去った。
その姿には、先ほどまでの弱々しく哀れな母親の影など、どこを探しても微塵も残っていなかった。
ただの他人の皮を被った怪物の本性がそこにあった。
「まったく、警察官のくせに二百万ぽっちしか出さないなんてさ、本当に使えない子供だよ。もっと毟り取れると思ったのに、当てが外れたよ」
あからさまに不機嫌そうに吐き捨てる杏奈の言葉に、誠は苦痛に顔を歪めた。
「あのぼんくらもそうだったねぇ。碌に稼ぎもしない、ただの無骨な公務員のくせにさ、私に偉そうに説教ばかりしてさ」
「……やめろ」
「は?」
「父さんを……これ以上、侮辱するな」
殺気すら孕んだ怒声で咎める誠に対し、杏奈は鼻でせせら笑った。
「侮辱?事実を言って何が悪いんだい。だいたいねぇ、私はあの男のことなんて、都合のいいATMくらいにしか思ってなかったよ!つまんない男!」
杏奈の容赦のない言葉が、誠の心をズタズタに切り裂いていく。
握り締めた拳が激しく震えるが、杏奈はそんな誠の絶望に気づくことなく、最後に最も残酷な猛毒を吐き捨てた。
「その上、自分の血も繋がってない赤の他人の子供を、我が子だと思い込んで必死に可愛がっちゃってさ。
本当に滑稽で間抜けな男だよ、郁人は」
一瞬、何を言われたのか、誠には全く理解ができなかった。
“赤の他人”
その4文字の単語だけが、妙に、あまりにも不自然に誠の鼓膜の奥で反響を繰り返す。
「……何を、言っている」
掠れた、今にも消え入りそうな誠の声。
杏奈は勝ち誇ったように、意地の悪い笑みを浮かべて鼻で笑う。
「あん?聞こえなかったのかい?警察官のくせに耳まで悪いのかねぇ」
ケタケタと楽し気に笑う杏奈の声が、まるで水中を潜っているかのように遠のいていく。
あんなにもハッキリと響いていたはずなのに、その言葉が持つ致命的な意味を、誠の脳が受け入れることを徹底的に拒絶していた。
「アンタはね、あいつの子じゃないんだよ。どこの馬の骨とも知れない男との間にできた子供さ」
世界のすべての音が、光が、一瞬にして消え去ってしまったかのような錯覚に陥った。
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最期までお読みいただきありがとうございました。
梨紗と誠の日常を今後も応援していただけるのでしたら、いいねや下の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎(全部入れると10pt)で評価していただけると、いろんな方に読んでいただけるようになるのですごく嬉しいです。
※pixivにて小説の一部エピソードを漫画・イラストを公開しています。
どのシーンなのかはお楽しみに°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°




