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十五話 「 城島 誠 (前編)」


「――お前を産んだのが失敗だった!」


誰かの、金切り声のようなけたたましい叫び。

それと同時に、ピピピ、ピピピ、と枕元でデジタル時計のアラームが煩わしく鳴り響き、誠は弾かれたように目を覚ました。


全身からじっとりと嫌な汗が流れ落ち、衣服が肌に張り付いている。

胸の奥で心臓が警鐘を鳴らすようにドクドクと激しい音を立てて暴れ、呼吸が浅く荒く乱れていた。

寝室の白い天井を見つめたまま視線を動かすこともできず、ただ耳元でアラームの電子音だけが執拗に鳴り響いている。

数十秒の後、ようやく鉛のように重い腕を動かしてボタンを押しアラームをオフにした。

突如として音が止まり、張り詰めたような静寂が部屋を包み込む。


「……ッ、」

喉の奥がグッと引き攣り、まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、どうしても上手く息が吸えない。

過去の暗闇に引きずり戻されそうになり、胸が苦しく締め付けられた、その時だった。


カチャカチャという微かな食器の音と共に、部屋の扉の向こうから本当に小さな鼻歌が聞こえてきた。

優しくどこか楽しげな、聞き間違えるはずのない梨紗の声。


その瞬間止まっていた時計が動き出したかのように、誠の肺に冷たい酸素が勢いよく行き渡った。

張り詰めていた身体から一気に力が抜け、シーツやパジャマが寝汗を吸ってひんやりと冷たくなっていることに気づく。べたついた不快感が全身を襲ったが、それでもすぐに行動に移す気にはなれず、誠はただ仰向けのまま大きな掌で自分の目元を覆った。


視界を閉ざした暗闇の中で、扉越しに聞こえてくる梨紗の鼻歌と、キッチンから漂ってくる芳醇な珈琲の香りが、優しく誠の心を解きほぐしていく。

ガタガタと震えていた体内の強張りが彼女の気配によってゆっくりと消えていくのを、誠は静かに噛み締めていた。






初夏の、まだ尖りのない柔らかな陽射しが、静まり返った墓地を穏やかに照らしていた。


郁人(いくと)おじ様、こんにちは!」

墓石の前にしゃがみ込み、小さな両手をきゅっと合わせた梨紗が、いつもの明るい調子で元気よく挨拶をする。

無骨な墓地の中で、彼女の存在だけがパッと花が咲いたように瑞々しかった。

そのあまりにもいつも通りな姿に誠は小さく息を吐き、隣から声をかける。


「墓参りでそう騒ぐな」

「だって、郁人おじ様だよ?挨拶は元気よくしなきゃ」

悪びれもせず、梨紗は振り返ってにへらと笑う。

梨紗はそう言って再び墓石へと向き直ると、「あのね、最近ね」と、まるでそこに生きている相手が佇んでいるかのように、ここ数日間の日常をぽつりぽつりと報告し始めた。


「あと、この前響さんがまた変なこと言って、まこちゃんに怒られてたんですよ」

「お前な……父さんにそんなくだらない報告をするな」


思わず呆れたように口を挟むが、梨紗の楽しげなマシンガントークは止まらない。


「それから、まこちゃんが――」

一生懸命に身振り手振りを交えながら話を続ける梨紗の横顔を、誠は黙って見つめていた。

生前のお茶目気の多い父なら、この賑やかで愛らしい新しい家族の姿を目元を細めて笑って見守っているに違いない。

不思議と、そんな確信が持てた。

誠は手際よく花立ての古い水を捨て、新しい水へと入れ替えた。


墓石に深く刻まれた「城島(きじま)郁人(いくと)」という父の名をじっと見つめる。

父が亡くなってから、もう10年近くの歳月が流れた。

自分の年齢が上がるにつれて、父の背中の大きさがよりリアルに理解できるようになる。

それでもこうして節目のたびに墓参りに来るたび、父の魂はまだ自分のすぐ近くで、警察官としての自分を、男としての自分を、静かに見守ってくれているような気がしていた。


「まこちゃん」

ふと、隣から衣服の擦れる音と共に名を呼ばれ、誠は思考の海から引き上げられて視線を向けた。

梨紗は満面の笑みを浮かべ、確信に満ちた強い瞳で誠を見つめていた。


「郁人おじ様、絶対喜んでるよ。まこちゃんが、こうして元気で頑張ってるの見てるもん」

「……そうか」

「うん、絶対」

迷いのない、力強い返事だった。

彼女のその無条件の肯定が、誠の胸の奥にすっと温かく染み渡る。

誠は小さく目を細め、それから改めて墓前へと向き直り静かに両手を合わせた。

目を閉じ、胸の中で父へ短い黙祷を捧げる。

挨拶を済ませると、誠はゆっくりと腰を上げた。


「手桶と柄杓、水道に届けて戻してくる」

「あ、じゃあ私はこっちのゴミ捨ててくるね」

梨紗は周囲の草むしりで出た落ち葉や、枯れた古い花をまとめた小さなビニール袋をぽんと掲げた。


「先に駐車場で待ってるね」

「あぁ。足元に気をつけろよ」

「はーい」

二人はそれぞれ、水道場とゴミ置き場へと分かれて歩き出した。





「……誠、なの……?」

手桶と柄杓を水道で綺麗に洗い、元の棚へと片付けている最中、背後からひどく掠れた震える声で名を呼ばれた。

誠は不可解に思いながら、ゆっくりと振り返った。

そこに立っていたのは、一人の妙齢の女性だった。

皺一つない上質な黒い喪服に身を包み、髪は丁寧に整えられている。


年齢は五十代の後半ほどだろうか。

その女性は、まるで信じられないものを見たかのように、大粒の涙を両目に浮かべながら誠の顔を凝視していた。


(……誰だ?)

誠の記憶の引き出しには、その顔に対する明確な心当たりがなかった。

仕事の知人だろうか、それとも父の関係者だろうか。

不審に思い自然と警戒心から鋭く眉を寄せる誠に対し、女性はさらに一歩、よろめくように足を踏み出し、引き攣った声でその名を呼んだ。


「あぁ……誠!誠なのね……!こんなに、こんなに大きく立派になって……!」

「ッ、あなたは何を――」

「私よ、分からないの誠……?」

女は遮るように声を張り上げ、誠に向かって飢えたように両手を伸ばした。


「あぁ、会いたかったわ……!私の、私の可愛い息子……!」


――息子。

その単語が誠の鼓膜を叩いた瞬間、バシンッ、と張り手を食らったかのような乾いた衝撃音が脳裏に鳴り響いた。


『何度言ったら分かるの!?あんたのせいで私は……!』


一瞬にして、脳内のダムが決壊したように幼い頃の記憶が溢れ出す。

激しく叩かれる頬の痛み。

理不尽に響き渡る怒鳴り声。

髪を振り乱して泣き叫ぶヒステリックな女の顔。


『お前なんか、産まなければよかった……!!』

頭の奥で、蓋をしていた過去の生き地獄が鮮烈に蘇る。

急激に呼吸が浅くなり、心臓が冷たく収縮していく。

胃の奥がひどく冷え切って、凍りついていくような感覚に襲われた。


「……は?」

掠れた声が、誠の唇から漏れ出た。

眼前の女を凝視する。

確かに年老いている。昔より肉が落ち、白髪も混じり、当時の面影は薄れている。

それでも自分を徹底的に破壊したその声と、瞳の形を、見間違えるはずがなかった。



杏奈は、感極まったように誠の胸へ抱き付こうと身体を寄せてくる。

だが誠は本能的な嫌悪感から、彼女の両肩を強い力で掴むとその身体を無理やり引き離して拒絶した。


「……母さん」

女――誠の実の母親である杏奈は、拒絶されてもなお、涙をボロボロと溢れさせながら縋るように深く頷いた。

「誠……!」

昂る感情を抑えきれない杏奈が、さらに距離を詰めようと一歩踏み出す。

誠は反射的に、嫌悪と恐怖を孕んだ足取りで大きく後退った。

その時だった。


「まこちゃん、遅いから来ちゃ……って、どうしたの?」

なかなか駐車場に戻ってこない誠を心配して、水道場へとやってきた梨紗が異常な空気に気づいて足を止めた。

誠の前に立つ、涙を流す見知らぬ喪服の女性。

「お知り合いなのだろうか」と梨紗が誠の顔を覗き込もうとした、その瞬間だった。

誠は無言のまま、梨紗の細い肩を強い力で引き寄せた。

そして流れるような動作で、気付けば梨紗を自分の大きな身体の後ろへと完全に隠してしまっていた。


衣服を強く掴み、まるでその女性から梨紗の存在を隠し、一歩も近付けさせないようにする。

誠の背中越しに僅かに見えるその横顔は、血の気が引き見たこともないほどひどく強張っていた。


「もしかして、その子…彼女さん、かしら?はじめまして。私、誠の母親の杏奈です」

「違う」

杏奈が取り繕うように笑みを浮かべ、梨紗へ視線を向けようとした瞬間、誠がそれを遮るように冷徹な声で即座に否定した。

言葉を被せ、威嚇するように。

まるで、それ以上梨紗に関わるな、一言も梨紗と話すなと拒絶するかのような、刺すような声音だった。

そのただならぬ気迫に、梨紗は誠の背中の後ろで、思わず怯えるように目を瞬かせた。


「そう、よね。急に現れて母親面するなんて、おかしいわね。ごめんなさい……」

杏奈は力なく自嘲気味に笑う。

俯いた彼女の肩は小さく震えており、今にもその場に泣き崩れそうだった。

だが誠は一切の同情の光を宿さないまま、ただ冷たく唇を引き結び、無言で杏奈を睨み据えていた。


その限界まで張り詰め、今にも壊れてしまいそうなほど苦しげな横顔を見て、梨紗は直感的に悟った。


(この人とまこちゃんを、これ以上二人きりにしてはいけない)


詳しい理由は分からない。

誠の過去に何があったのかも知らない。

だけど直感が告げていた。

ここにいては駄目だ、と。


誠の大きな背中が見たこともないほど酷く傷つき、悲鳴を上げているように見えたから。


「まこちゃん」

梨紗は誠の背後からそっと腕を伸ばし、彼の強張った大きな腕を優しく包み込むように引いた。

「お墓参りも終わったし、もう帰ろ?」

「……あぁ」

梨紗の温かい声に、誠はハッと我に返ったように短く応じた。


「誠、お願い。少しだけでいいの。改めて、ちゃんと話をさせて……!」

背後から響く、杏奈の縋り付くような哀願の声。

だが誠は一度も振り返らなかった。

ただ隣に寄り添う梨紗の存在だけを道標にするように、彼女を連れて、足早にその場を後にした。




帰りの車内には、耳が痛くなるほどの重苦しい沈黙が流れていた。

車窓を流れていく初夏の景色を見つめながら、誠は一言も発しない。

ハンドルを握りしめるその横顔は、完全に感情を殺した無表情だった。

けれど隣に座る梨紗には痛いほど分かっていた。


今の誠には、1ミリの余裕もないということが。

彼を気遣って、何度も声を掛けようと唇を動かした。

だけど、どんな言葉をかければ彼のこの深い傷を癒せるのか、高校生の梨紗にはどうしても分からなかった。


「……」

赤信号になり、静かに車が停車する。

ふと見ると、運転席と助手席の間のスペースに所在なげに投げ出された誠の左手が目に入った。

梨紗は少しだけ迷い、けれどそっと自分の小さな手を彼の無骨な掌の上に重ねた。


その瞬間、ギチリと骨が鳴るほどの凄まじい力で握り返された。


「っ、」

そのあまりの強さに、梨紗は思わず小さく息を呑んだ。

いつもなら、梨紗の身体を壊れ物に触れるように、どこまでも優しく愛おしそうに包み込んでくれる誠が。

今は、血が止まるのではないかと思うほど酷く強張っており、骨がきしむほど強く握りしめられている。


まるで、暗闇の中で何かに必死に縋り付くように。

まるで、これ以上どこかへ置いて行かれないように。


決して離そうとしない誠の手に、梨紗は痛みで顔をしかめることも、理由を聞くこともしなかった。

ただ、その大きな手を両手でぎゅっと握り返す。


大丈夫。

傍にいるよ。

ただそれだけを手のひらの体温を通じて伝えるように、梨紗は誠の隣で、強く、強く手を握り続けた。



郁人の墓参りから、数週間の時が流れた。

あの日の衝撃的な再会から、誠も梨紗も示し合わせたかのようにあの出来事には全く触れようとしなかった。

城島家には、いつも通りの穏やかで温かい日常が戻っているように見えた。


ある日いつも通りの巡回ルートを自転車で回っていた誠は、背後から響いた、聞き覚えのある鋭い声に呼び止められた。


ペダルを漕ぐ足を止め、誠は冷たい視線で振り返る。

そこに立っていたのは、やはり杏奈だった。

数週間前よりも、どこか酷くやつれたように見える。


「何の用ですか。俺は今、勤務中ですが」

突き放すような、氷のように冷徹な誠の声。

杏奈はその拒絶に一瞬だけ身体を怯ませ、目に見えて落胆の表情を浮かべたが、それでも必死に誠へとすり寄るように歩みを進めてきた。


「お願い、誠……少しだけ、本当に少しだけでいいから、私の話を聞いて」

「……」

「本当に、本当に少しだけでいいの。これきりにするから」

泣き出しそうな、縋るようなその声。

誠は一瞬、警察官としての職務を盾に冷たく断ろうとした。


だがあの日の墓地で見せた梨紗の心配そうな顔、そして自分の胸の奥に燻り続ける過去の亡霊が脳裏を過る。

ここで逃げ続ければ、いずれ梨紗のいる家にまで押しかけてくるかもしれないという懸念があった。


「……仕事が終わってからです。駅前のファミレスで待っていてください」

「!ありがとう、誠……本当にありがとう」

あからさまにホッとした表情を浮かべる杏奈の顔を見て、誠は胸の奥に酷い違和感と、吐き気のような嫌悪感を覚えた。


誠の記憶に深く、そして醜く刻まれている彼女の姿は、自分に向かって形相を変えて怒鳴り散らし、暴力を振るう悪魔のような姿しかなかったからだ。

こんな風に、一人の弱々しい女性として自分に縋る姿など、記憶のどこを探しても存在しなかった。




数時間後、仕事を終えた誠は、梨紗に「少し遅くなる」とだけ短く連絡を入れ、約束通り駅前のファミレスへと向かった。

夕食時の喧騒が響く店内、窓際の席に座る杏奈の向かいに、誠は私服姿で静かに腰を下ろした。

杏奈はひどく緊張しているのか、誠が座ってから何度も何度も、手元のグラスの水を口に運んでいた。

まるで何から話し始めればいいのか、どう言い訳をすればいいのか分からないといった様子で、視線を彷徨わせている。


「……ごめんなさい」

長い沈黙を破り、杏奈の口から絞り出されたのは、あまりにも手遅れな謝罪だった。


「……」

「本当に、誠……本当に、ごめんなさい」

目の前で頭を下げる実の母親に対し、誠は微動だにせずなにも言葉を返さなかった。

ただの木石のように、冷ややかな瞳で彼女を見つめる。


「私ね……一度も働いたことがなかったの。社会のことも、家のことも……そして、子育てのことも、何も分からなくて」

「……」

「毎日が不安で、孤独で、息が詰まりそうだった。心に余裕なんて全然なくて……」

「……」

「気づいたら、何の関係もない貴方に当たってた。本当に最低な母親だったわ。言い訳のしようもないくらい、最低だった……」

杏奈はハンカチで目元を覆い、肩を震わせて涙を拭う。


誠は何も言わない。

同情も、怒りも、否定もせず、ただ淡々と、他人の身の上話を聞くかのように彼女の言葉を受け流していた。


「それでもね、貴方を置いて家を出てから……ずっと、ずっと心配してたのよ。元気にしているのか、ちゃんとご飯を食べているのか、怪我なんかしていないかって……ずっと、貴方のことが気になってたの」


再び、テーブルの上に重苦しい沈黙が落ちる。

目の前で涙を流し、過去の後悔を語る杏奈に対し、誠はピクリとも表情を変えないまま、低く静かに口を開いた。


「それで」

「……え?」

杏奈が涙で濡れた目を上げ、きょとんとした顔をする。


「何故、今になって俺に会いに来たんですか。用件を聞いています」

誠が口にしたのは、それだけだった。

過去の虐待に対する謝罪を受け入れるわけでも、今更の後悔を責めるわけでもない。


昔話に付き合うつもりも毛頭ない。

誠が今、この場で聞きたいのは「何故今更、俺の前に現れたのか」という、そのあまりにも不自然な行動の裏にある“本当の目的”だけだった。


「……最後に、どうしても一目会いたかったのよ」

「最後?」

「あはは……恥ずかしい話なんだけどね。悪い男に引っかかって、騙されちゃってね」

力なく自嘲するように笑いながら、杏奈は今一度、グラスに残っていた水を一気に飲み干した。

その手が、微かに震えている。


「借金取りに、追われる日々になっちゃって。もう、この街にもいられないの。近いうちに、誰も私を知らない日本国外へ出るつもりなのよ」

それが本当に行き詰まった末の真実なのか、あるいは誠の同情を買うための嘘なのか。

誠には判定できなかったし、どうでもよかった。


「だから日本を離れる前に、最後に郁人へのお別れと謝罪をしようと思ってお墓に行ったらそこに偶然、誠がいたの」

「……」

「きっと、郁人が最後に会わせてくれたのね。導いてくれたのよ。……最後にあなたに会えて、本当に良かったわ」

杏奈は言いたいことをすべて言い終えたのか、どこか肩の荷が下りたような、すっきりとした顔で誠を見つめている。


「借金は、いくらですか」

「え……?」

「額を聞いています。いくらあるんですか」

「……、……百万よ。残りの額は、ちょうど、百万円なの」

誠はそれ以上何も言わず、無言で席を立った。

杏奈は突然立ち上がった誠の行動に驚き、「誠!?」と慌ててその後に続いた。

誠が迷いのない足取りで向かったのは、ファミレスのすぐ隣にある銀行のATMだった。

機械を操作し、出てきた厚みのある白い封筒を、誠は振り返りざまに杏奈の手へと無造作に差し出した。


「……え? これ、何……?」

杏奈が震える手で封筒を受け取り、恐る恐る中身を確認する。

その瞬間、彼女はヒッと小さく息を呑んだ。

中に入っていたのは、新札の束。

彼女が口にした借金の額と、寸分違わぬ「百万円」の現金だった。



「貴方には、父さんが亡くなってから、俺が成人するまでの間、形だけでも育ててもらった恩がある。籍が繋がっていた以上、それは事実だ」

誠は感情をほとんど乗せない、機械のような声で静かに言い放った。

杏奈が今どんな気持ちで自分を見ているかなど、どうでもよかった。


「これで、その分の恩は返したことにしてください。

今後二度と、俺の前にも、俺の周りの人間の前にも、現れないでください」

「ま、こと……っ」

杏奈は百万円の入った封筒を胸に強く握りしめ、再び大粒の涙をボロボロと溢れさせた。


「あぁ、誠……!ありがとう、本当にありがとう……!」

何度も、何度も壊れた人形のように感謝の言葉を繰り返し、泣きじゃくる。

だが誠はその身体を抱き返すことも、優しい言葉をかけることも一切しなかった。

ただ、夕暮れ時の駅前の雑踏の中で、冷徹な彫刻のように立ち尽くしていた。


(何故だろう――)

胸の奥が、驚くほどに空っぽだった。

これで、あの忌まわしい過去とは完全に決別できると思った。

この大金さえ払えば、全ての因縁を清算し、前を向けるはずだと思った。


なのに、何一つ終わった気がしない。

復讐の快感も、解放感も、親を救ったという満足感すらも、何一つ湧き上がってこない。


ただどこまでも冷たい、虚しさだけが誠の心の中を静かに吹き抜けていた。




***♡***

最期までお読みいただきありがとうございました。


梨紗と誠の日常を今後も応援していただけるのでしたら、いいねや下の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎(全部入れると10pt)で評価していただけると、いろんな方に読んでいただけるようになるのですごく嬉しいです。

※pixivにて小説の一部エピソードを漫画・イラストを公開しています。

どのシーンなのかはお楽しみに°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°

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