十一話「 無自覚な感情」
「なぁ、誠。お前ってさぁ、梨紗ちゃんに対して『嫉妬』とかそういう感情を抱いたりしないわけ?」
「……は?」
ある穏やかな昼下がりの派出所内にて。
静まり返った空間に、突如として響の呑気な声が響いた。
手元の缶コーヒーをちびちびと飲みながら、思いついたように投げかけられたその突飛な質問にデスクで報告書を作成していた誠はピタリとペンを止め、心底不可解そうな顔で相棒を睨みつけた。
「いや、だってさぁ?梨紗ちゃんって客観的に見て普通に可愛いじゃん?愛嬌もあるし」
「……それがどうした」
「どうした、じゃないよ。あんなに可愛けりゃ学校とかで絶対に他の男からモテるだろ」
「知らん」
一切の躊躇もない誠の即答っぷりに、響は思わず盛大にため息を吐いて呆れ顔を隠そうともしなかった。
「知らん、じゃねぇよ。お前、本当に自分の嫁さんに対する危機感が薄すぎないか?」
「事実、関心がないからな。学校での人間関係など、いちいち俺が関与することではない」
しつこく食い下がってくる響に対し、誠はすっぱりと冷徹に切り捨てる。
再び手元の報告書へと意識を集中させようとペンを走らせた。
嫉妬。
正直に言って、誠にはその言葉が持つ本当の「意味」が、今ひとつよく分からなかった。
なにせ誠が知っている“梨紗”という少女は、出会ってから結婚に至るまでの二年間、一貫して、それこそ不気味なほど真っ直ぐに誠だけを見続け、誠だけに愛を囁き続けてきた人間なのだ。
梨紗が誠以外の他の男を意識している姿など、これまで一度たりとも見たことがない。
だからこそ周囲から「嫉妬しないのか」と煽られたところで、どうにも現実味がなく、実感すら湧かないのが本音だった。
思考の隅で、ふと二年前のある出来事が脳裏を過った。
出会って間もない頃、梨紗がどういうわけか誠のことを執拗に避け続けていた時期。
当時は、顔を合わせれば脱兎のごとく逃げられ、話しかけても不自然なほど距離を取られていた。
思い返せば、あの時の胸のうちは確かにどうしようもなく落ち着かなかったし、酷く不愉快だった。
後に梨紗を捕まえて問い詰めたところ、彼女のただの壮大な勘違いだったと判明したのだが。
結局あの時の不快な感情の正体が何だったのか、誠の中で明確な答えが出せないまま、タイミング悪く無情にも事件の出動要請が入り、その話はそのままうやむやになって流れてしまったのだった。
「響、行くぞ。出動だ」
「はいはーい、了解だよ。お堅い巡査殿」
相棒の軽い返事を背中で聞きながら、誠は胸の奥の小さな違和感を頭から振り払うように、警察帽を深く被り直して派出所を後にした。
◇
「本当にありがとうな、城島!お前のアドバイスのおかげだよ!」
「良かったねぇ」
「由香姉さんと正式に恋人になれたなんて…夢みてぇっ!」
「うんうん、おめでとう」
夕暮れ時の学校の帰り道。
クラスメイトの男子生徒・田口と並んで歩きながら、梨紗はまるで歓喜の涙を流さんばかりに熱弁する彼に向かって、我が事のように微笑んでいた。
梨紗に“年上の彼氏”がいるということは、同じクラスの人間であれば誰もが知っている周知の事実である。
本当のことを言えば、誠は彼氏ではなく戸籍上の「旦那」であり、梨紗は現役高校生にして既婚者なのだが。
過去に正直に伝えたところ「少女漫画の見すぎ」「妄想乙」と誰一人としてまともに信じてくれなかったため、面倒になって今はもう説明を放棄して放置していた。
が、中には年上の彼氏を一度も見たことない事から嘘なのでは?と勘違いをし告白してくる愚か者もいる。
だが梨紗の答えは一貫として。
「私まこちゃん以外、興味ないから♡」
と挑んできた男達を切り捨てていた。
そんな“年上の男を射止めた恋愛上級者”としてクラスで一目置かれている梨紗に、必死の面持ちで恋愛相談を持ちかけてきたのが、この田口だった。
なんでも、自分のことをいつまでも子供扱いしてくる年上の幼馴染のお姉ちゃんを、どうすれば一人の男として意識してもらえるか、そしてどうすれば彼氏になれるのか、と、数日前に真剣に悩んでいたのだ。
もっとも、梨紗が彼にしたアドバイスといえば、“子供っぽく茶化したり照れたりせず、一人の男として真剣にストレートに想いを伝えること”のみだったのだが。
どうやらその作戦が見事に功を奏し、無事に想いがお姉さんに届いたようだった。
「それでさ、実は今日、付き合って初めて彼女の家にお泊まりすることになってさ……!」
「おお〜、急進展」
「なぁ、城島。男として、今日一歩踏み込んじゃってもいいのかな……?」
「うーん、流石に付き合って初日は早すぎない?お姉さんの心のペースにちゃんと合わせてあげなよ。焦ると引かれちゃうよ?」
「付き合ってすぐそんなことしたら誤解されるよ」と、大真面目にアドバイスする梨紗。
田口は「なるほど、姉さんのペース……」と呟きながら、必死にスマホにメモをとり始め、梨紗はそれを見て思わずクスリと笑ってしまった。
彼の様子から、本当にそのお姉さんのことが大好きなのだという純粋な気持ちがひしひしと伝わってくるからだ。
どうかこの二人が、末長く幸せでありますように――。
梨紗は心からそう願っていた。
そんな梨紗と田口が仲睦まじく並んで下校する姿を、自転車で地域を巡回中だった誠は、道路の向かい側から偶然にも目撃していた。
ただのクラスメイトの男子と並んで歩いているだけなら、普段の誠なら特に気に留めることもなかっただろう。
だけど、今梨紗は自分以外の男に向かって、あんなにも柔らかく、嬉しそうに微笑みかけている。
隣を歩く男と、一体何をそんなに楽しそうに話しているのか、距離があるため声までは聞こえない。
だが何かを語りかけている梨紗のその瑞々しい表情は、いつも家で自分に向かって話しかけてくる時の愛らしい顔と、酷くよく似ていて。
ザワリと誠の胸の奥で、経験したことのないような不快な波紋が広がった。
まるで口の中の水分が強引に奪い去られたかのように、急激に喉が渇く。
一体、この胸を支配する不穏な焦燥感は何なのだ。
自分でもその正体が分からないまま、誠はただ、目の前の苦々しい光景からどうしても目を離すことができなくなっていた。
「わッ…」
「おっと、危ない!」
会話に夢中になりすぎていたせいか、前方から来た自転車に気づかず、ぶつかりそうになってバランスを崩してよろける梨紗。
隣を歩いていた田口は、咄嗟に彼女の細い肩をガシッと掴み、自分のほうへとグイッと引き寄せた。
「びっくりしたぁ… 田口くん、ありがとう」
「ううん、怪我がなくて良かった。気にしないで」
お互いに顔を見合わせ、穏やかに笑い合う梨紗と田口の姿。
その光景が視界に飛び込んできた瞬間、誠は無意識のうちに、自転車のサドルを握りしめる手にミキミキと恐ろしいほどの力を込めていた。
何故なのか、自分でも全く分からない。
ただ、目の前で行われている他愛のないやり取りのすべてが、猛烈に面白くなかった。
胸の奥をキリキリと締め付ける、この感情の正体だけが、どうしても掴めない。
「じゃあ俺こっちだから。また明日な、本当にありがとな!」
「うん、また明日ね。さっきはありがとう」
ご機嫌な顔で大きく手を振る田口に、梨紗はほっこりとした笑みを返して手を振り返す。
田口の話を聞いていた所為なのか、無性に誠に会いたい。
梨紗は自然と愛しい旦那様のことを思い浮かべ、ふにゃりと頬を緩めながら、家へと向かって歩き出した。
が、その直後。
曲がり角に差し掛かった瞬間、背後から突然、強い力でグイッと腕を引かれ、梨紗の身体は薄暗い路地裏へと一瞬で引きずり込まれた。
「ひゃんっ!?」
冷たいコンクリートの壁に背中を優しく押しつけられ、驚いて顔を上げたとき、梨紗は思わず大きく目を見開いた。
「……え?まこちゃん?」
驚くのも無理はない。
いま、まさに自分が「会いたい」と心から切望していた誠その人が、警察官の制服姿のまま、目の前にいたのだから。
そして、誠自身もまた、自分の衝動的な行動の裏にある「言葉」を必死に探していた。
梨紗が向こうの男と別れて一人になった瞬間、頭で考えるよりも先に、気が付けば身体が勝手に動いていたのだ。
梨紗を強引に路地へと引きずり込み、彼女がそこから逃げられないように、両手を壁につく格好でその小さな身体を閉じ込めている。
何故自分は警察官の身でありながら、こんな白昼堂々、不審者のような真似をしているのか。
自分でも自分の行動の意味がさっぱり分からない。
だが、気づけば勝手に口が動いていた。
「……あいつは、誰だ」
「え?」
「さっきまで、お前の隣で一緒に居た男だ」
「え、あ、友達だけど……」
即答だった。
一切の迷いも、やましい陰りも何もなく、梨紗は丸い目をパチクリとさせながらハッキリと言い切った。
「……友達?」
「うん。同じクラスの、友達」
真っ直ぐに見つめてくる梨紗の純粋な表情や雰囲気からして、嘘を吐いている様子は微塵もない。
つまり、本当にただの友達なのだろう。
男が梨紗を狙っているわけでも、梨紗の心が揺らいでいるわけでもない。
なら何も問題はないはずだ。
問題はないはずなのに、誠の胸の奥に澱のように溜まった、この嫌な違和感とモヤモヤだけが、どうしても消えてくれなかった。
何故だ。
本人がただの友人だと言っているし、梨紗がそう言うならそれが真実なのだろう。
それなのに、どうして自分はこんなにも苛立っている。
(俺は一体、何をしているんだ……)
自分で問い詰めておきながら、自分の行動の理由が全く追いつかない。
割り切れない感情の濁流に、誠は処理が追いつかなくなり、とうとうその場に頭を抱えて低く呻きながらしゃがみ込んでしまった。
「はっ……!」
突然しゃがみ込んでしまった誠の異常な様子に、最初はオロウロとオロつくだけだった梨紗だったが、彼の耳たぶが微かに赤いこと、そして先ほどの問い詰めるような声音を脳内でリフレッシュした瞬間。
ふと、ある一つの恐ろしい、いや、最高に幸せな可能性に気が付いた。
もしや、もしや……これは!と高鳴る鼓動が破裂しそうなほどにバクバクと暴れ出す。
でも、パニックになりそうな頭の中で、今一番に誠に伝えなければいけない言葉は、ただ一つだけだった。
「まこちゃん。私は、まこちゃんだけしか見てないよ♡」
梨紗はしゃがみ込んでいる誠の背中へと、愛おしさを爆発させて後ろからギュッと抱きついた。
そして彼の硬い首筋のあたりに、優しく自分の唇を押し当てる。
チュッ、と路地裏に小さく響いたリップ音に、誠は弾かれたように一瞬だけ目を丸くした。
だが、何故だろう。
梨紗の体温を感じ、その絶対的な愛の言葉を耳にした瞬間、先程まで誠の胸の奥を黒く支配していた、あの名前も知らない妙な違和感が、まるで嘘のように綺麗さっぱり消え去っていた。
「……そうか」
「うん♡ まこちゃん大好き♡」
張り詰めていた空気を弛ませ、穏やかに口元を緩ませる誠。梨紗はそんな彼の広い背中を、言葉にできないほど愛おしい眼差しで見つめていた。
ただ、あまりの嬉しさに口元が「にやぁ」とだらしなくニヤけそうになるのを、必死の根性でなんとか堪えていた。
◇
数日後、夕方の派出所にやってきた梨紗は、誠と一緒に家に帰るため、ロビーの椅子に座って大人しく待機していた。
が、今日の梨紗はやたらと、いや、不自然なほどに機嫌が良かった。
待っている間も、ずっと一人でむふふと声を漏らし、ニコニコと幸せそうなオーラをご機嫌に振りまいている。
そんな様子の梨紗を見て、流石に目の前で書類を整理していた響も気になって声をかけた。
「なんか、今日の梨紗ちゃん、やけに機嫌が良いねぇ。良いことでもあった?」
「えへへ♡」
「……あ、さてはそれ、誠絡みだな?」
響に核心を突かれても、梨紗はにこにこ、にこにこと、ただ幸せそうに微笑むだけで何も語ろうとはしない。
だが、その隠しきれないハッピーオーラが、何よりの答えだった。
「梨紗、帰るぞ」
「はーい♡」
スーツに着替えた誠が奥の更衣室から出てくると、梨紗は待ってましたとばかりに、すぐに誠の元へと文字通り飛んでいった。
素早く誠の逞しい片腕をキュッと我が物顔で抱きしめると、梨紗は視界に入った響の存在にハッと何かに気づいたように顔を上げた。
「まこちゃん」
「なんだ」
「私、まこちゃんにしか興味ないから」
「……一体何の話だ。行くぞ、梨紗」
「はーい♡」
誠は「相変わらず意味の分からん奴だ」と呆れたように呟きながらも、腕に絡みつく梨紗を引き剥がすこともなく、そのまま派出所のドアを開けて歩き出していった。
後に残された響は置いてけぼりを食らいながらも、二人の絶妙な会話のドッジボールと、昨日の誠の妙な様子を脳内でカチリと結びつける。
すべてを察してニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
(ははーん……なるほどねぇ。あの頑物な誠のやつ、ついに嫉妬でもやらかしたな?)
こういう男女の機微や、他人の色恋沙汰の気配に対してだけは、異常なまでの聡さと直感を発揮する響であった。
END
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最期までお読みいただきありがとうございました。
梨紗と誠の日常を今後も応援していただけるのでしたら、いいねや下の⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎(全部入れると10pt)で評価していただけると、いろんな方に読んでいただけるようになるのですごく嬉しいです。
※pixivにて小説の一部エピソードを漫画・イラストを公開しています。
どのシーンなのかはお楽しみに°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°




