9.
恭しく掲げられ、部屋に入ってきた使用人が手にしていたもの。
そこに鎮座していたのは、見紛うはずもない私の私物──
あの安物のビジネスバッグだった。
使い勝手の良さだけをとことん追求し、可愛げという概念をゴミ箱へ捨て去ったような、無骨極まる黒のナイロンフォルム。
私の美意識からは光年単位でかけ離れているが、その無機質な佇まいは、間違いなく私の愛用品だった。
それを見た瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。
こんな無骨なやつでも、異世界で再会すると妙に心強かった。
私のバッグっ……!
思わず手が伸びたのを必死でこらえた。
もし今ここで抱きしめたら、確実に変な人扱いされる。
でも、それでも抱きしめたいくらいには恋しかった。
◇
「まず、ジャポンさん。貴方に確かめてもらいたいものがあります」
ジャポンさん……
ああ、誰かに呼ばれるたびに精神がじわりじわり削られる。
とっさに口をついた偽名だけど、もっとマシな候補はなかったのかな私。
自らのネーミングセンスの壊滅っぷりに、私はガックリと項垂れた。
それを見たアークオーエンさんが、不思議そうに首を傾げる。
その端正な顔立ちと"首を傾げる"という無垢な仕草のミスマッチ。
あざといっ……!
なんでそんな仕草が自然に出るの。
こっちは余裕ゼロなんですけど。
悔しいが、絵になりすぎていて腹立つ。
「いえ、なんでもありません」
私は力なくジェスチャーで返し、使用人からバッグを受け取った。
まずは、中身の無事を確認しなければならない。
バッグを膝の上に置き、中身をゴソゴソ探る。
指先に触れる、慣れ親しんだ素材の感触。
ノートPC、スマートフォン、そしてMP3プレイヤー。
これらは、かつて"現場"でも重宝した、私の"三種の神器"だ。
特にスマホは、まだガラケーが主流だった頃に、新しい物好きが高じていち早く手に入れた最新機種。
買った当時は「そんな板切れで何ができるんだ」と笑われたが、今となっては、これなしでは業務効率が80%も低下する。
……は、言い過ぎか。
ともかく手放せないものだ。
外に取り出して「これは何だ?」と質問攻めにされるのは御免なので、鞄の口を少しだけ開き、指先だけで電源を確認する。
……電源、入る。
暗い鞄の中で、液晶のバックライトがささやかに灯った。
どうやらあの落雷という過剰なエネルギーに巻き込まれても、私の精密機器たちは沈黙していなかったらしい。
充電はPCがソーラー充電で、スマホはそこから充電すれば問題ない。
よしっ。
後はPCが壊れていませんように。
「それは、貴方の物ですか?」
点検に没頭していると、不意にアークオーエンさんに声をかけられた。
私は短く頷く。
このバッグは、あの落雷のあった日、車の助手席に置いていたものだ。
なぜ車ごとではなくバッグだけがここに届いているのかは謎だが、今は中身が揃っていることだけを喜ぶべきだろう。
「そうですか。わかりました。……それでは、この後お時間頂きまして、貴方に会って頂きたい人物がいます。ご了承頂けるようでしたら、別の部屋を整えてからとなりますが、案内の者を寄越そうと思います。よろしいでしょうか?」
丁寧な口調ではあるが、拒否権など微塵も感じさせない。
この男、人の上に立ち慣れている。
その絶対的な支配感。
指示を受ける側としては、逆に安心するほどだ。
「はい、問題ありません」
淀みなく答えた私に、アークオーエンさんは穏やかに微笑んだ。
っ………!
だから、そんなとこだぞ……
先ほどまでの刺すような鋭い視線が、バッグの持ち主だと分かった瞬間、わずかに軟化した。
「そうですか。では、今から手配してまいります」
席を立ちそうな気配がしたので、慌てて質問を繰り出した。
「あの、1つよろしいでしょうか?」
「構いませんよ。私で答えられる範囲でしたら」
優雅に応える様がなんとも言えない色気に……
巻き込まれるな私……
「あの……私の今の立場といいますか状況を教えてください。囚人として、今後どのような刑に処されるのか。それを知りたいです」
アークオーエンさんが「え?」と小さく声を漏らし、目を見開いた。
一瞬だけ驚きを露わにした後、彼はスッと片手で顔を覆った。
その、長い指先から流れるような一連の仕草。
無防備さと色気が混ざり合った彼の雰囲気に、一瞬、意識を持っていかれる。
くっ。
お願い、やめて。
こっちは命の危機で精一杯なのに、色気で別の意味の危機を作らないでほしい。
私は首を左右に振って、無理矢理意識を元に戻した。
ふぅ。
どうやら顔を覆うのは、彼が思考を巡らせる際の癖らしい。
「貴方が囚人でないことは、たった今証明されました。私の言葉が足りず、申し訳ありません。貴方はもう、囚人ではありません。それが貴方の物であるならば、容疑は晴れたことになります」
若干焦ったような声音になっていた。
この人が声を乱すところはきっとレアなんだろうなぁ。
意識が目の前の男に向きそうになるが、いやいや待て待て、今の言葉おかしい。
このバッグが私のものであれば、"容疑"が晴れる。
どんな超理論だ。
証拠能力ゼロっぽい私物で無罪確定って、この国の司法どうなってるの。
疑問は尽きないが、これ以上蒸し返して牢屋生活に戻されるのは絶対、ぜーったいに御免だ。
「……そうですか。理解しました」
私は深く頷き、感情を押し殺した"鉄の無表情"をキープした。
「では、貴方の了承を得た旨をお相手に伝えねばなりません。私は一旦、これで失礼いたします。後ほど案内の者が来ますので、それまでどうぞおくつろぎください」
彼が立ち上がると同時に、私もスッと席を立つ。
アークオーエンさんは私に笑顔を1つ残すと、流れるような優雅な足取りで扉へ向かった。
だが、扉に手をかけたところで、彼はふと足を止めた。
肩越しに、こちらを振り返る。
——その一瞬。
纏っていた柔らかな空気が、すっと剥がれ落ちた。
感情を含まない、為政者の目だ。
だが、それは本当に刹那で。
私がまばたきをした時には、彼はもう、あの穏やかな微笑みに戻っていた。
「……では、後ほど」
扉が、静かに閉まる。
その音と同時に、私はドサリと椅子に座り込んだ。
——あの笑顔は反則だ。
あんなの、正面から食らったら誰だって沈む。
どこまでも様になる人だ。
一挙手一投足に無駄がない。
まさに、完成された所作だ。
取引先の重役や、ピリついた"現場"の責任者と対峙する時とはまた違う。
この部屋の空気には、常に"死"が混ざっていた。
少しでも挙動を誤れば、背後のローアム隊長か、あのどことなく不機嫌な騎士が、迷わず私の息の根を止めていただろう。
背筋がじわりと冷え、シャツは汗で濡れきっていた。
お風呂入りたい……
汗も汚れも、全部流したい。
——というか、この世界に風呂ってあるんだろうか。
湯船に浸かれないとか、それはそれで死活問題だし。
無事に"容疑"とやらが晴れて、本当に良かった。
思わずほぅっとため息をつく。
今は、後ろの2人の気配も随分と穏やかだ。
命の危機が去り、私の身体がふわふわしていた。
私は再び深く息を吐き、アークオーエンさんの残像を思い出す。
怜悧でありながら、艶のある色気を併せ持つ男。
例えるなら、それは抜き身の日本刀だ。
銀の光沢に、禍々しいほどの刃紋の輝き。
武器としての圧倒的な殺傷能力を誇りながら、鞘に収まっている時の佇まいは"静"そのもの。
その矛盾が生む、極限の機能美に近い美しさ……
……彼のような色気のある人物が、いわゆる"魔性の男"ってやつなのかな。
近寄らないのが一番。
うんうん。
そう自分に言い聞かせた、その時。
空気が──
ほんのわずかに、冷えた。
背筋をなぞるような、微細な温度の変化。
部屋のどこかで、誰かの呼吸がひとつ沈んだ気がした。
その直後。
声だけが、頭上から"落ちてきた"。
低く、尖っていて、感情を隠す気配が一切ない。
ただ、その声の主が"怒っている"という事実だけが、空気を震わせていた。
私は、弾かれたように顔を上げた。
視界が揺れる。
そして──
「…………ああいうのが、好みなのか」




