8.
心の準備なんて、1秒もできていない。
そんな個人の都合などお構いなしに、扉の向こうから"それ"はやってきた。
不安?
もちろんある。
だが、目の前に現れた存在を視界に入れた瞬間、私の不安は別のものに上書きされた。
美形は滅ぶといいよ。
マジで。
思わず脳内でそう叫んだ私は、決して悪くない。
断じて。
◇
扉を抜けて入ってきた1人の男。
そいつは、私を値踏みするような、冷たく鋭い視線を向けてきた。
まるで舞台の上を歩く俳優のような足取りでこちらに近づき、空いていた椅子に優雅に腰を下ろした。
昨日からこの"品定め"の視線を浴びるのも、もう何度目だろうか。
正直に言って、飽き飽きだ。
私は反射的に、かつてどこかで染み付いた──敵対的な視線には正面から対抗するという、本能に近い癖に従い、じっと男を見つめ返した。
感情を殺し、ただの"観測者"として相手を捉える。
男の形のいい眉が、わずかに跳ねた。
驚いたような、それでいて一瞬の困惑。
くそっ、綺麗なのにかっこいいなんてずるくない!?
だが、彼はコンマ1秒でそれを"無表情"という仮面の下に巧みに隠した。
ふぅん。
表情筋のトレーニングを欠かしていないタイプか、それとも無表情が常態化する環境に身を置かされた哀れな生贄……そんな印象を受けた。
そんな見当違いな感心と、一抹の哀れみを含めつつ、私は男を観察し続けた。
彼の纏っているオーラが、そこらの中産階級とは一線を画していた。
これが本物の"セレブ"というやつだな。
それにしても、だ。
私は、この下級貴族用か何かの控えの間に揃った"3人の男"を順に視界に入れた。
まず、目の前の男──アークオーエン。
30代前半、知性と冷徹さを極限まで煮詰めたような、怜悧なタイプの男前だ。
天井のシャンデリアすら霞むレベルで。
次に、ローアム隊長。
30代の渋みと、包容力のある色気を漂わせる、落ち着いたタイプの男前。
もっとも、キースと隊長はさっきから逆光だったり、私の背後にいたりで、今こうして正面からまともに拝むのは初めてなのだが。
何より声がいい。思わず聞き惚れるくらいには。
そして、隊長の横で私に対して剣呑な空気を放っているキース。
20代特有の、青さと繊細さが同居した、真っ直ぐなタイプの美形。
人形みたいな男前だが、感情がよく出るみたいなので人間くさい。
……地獄かな。
この3人を前にして平常心を保てる人間、存在するの?
思わず遠い目をする。
もし表参道とかロングコート着てこの3人歩いてるのを目にすると、男も女も溜息をつきたくなるだろう。
男は嫉妬で、女も嫉妬で。
行ったことないけど。
あ、なんかのワンシーンみたいに目に浮かんできた。
コマーシャルかよ。
それだけじゃない。
よく考えたら扉の前に立っていた衛兵たちも、馬車に乗る前に私を見ていた兵士たちも、そして遠目に見えた使用人たちも、揃いも揃って造形が整いすぎている。
もしかして、私のこの顔は、この国ではマイノリティーなのでは?
……え、ここで生きていける?
かつて、友人がうんざりした顔で私に言い放った言葉が蘇る。
『あのさぁ……いつも「あの人ってどんな人?」って聞かれるんだよね。もう説明するの疲れたよ』
友人のあの辟易した様子を思い出すたび、私は申し訳なさと情けなさでいっぱいになる。
確かこのときにメガネを勧められたんだっけ。
きっと、数日経つと私の顔も名前も思い出せなくなるから、みんなわざわざ友人に"あの特徴のないやつ"の正体を確認しに来るのだろう。
記憶に全く残らない……悲しい。
そのせいで、職場でも散々な目に遭った。
名刺はなぜか減る一方だし、私だけ名指しで呼び出されるし(仕事ができるからではない)、最終的には"部署の和が乱れる"という理由で他部署送りになった。
営業やるより断然楽しかったけど。
残業は多いけど。
ああ、思い出しただけで泣けてくる。
私のこの存在感ゼロな顔が恨めしい……
いやいや……
それよりも、だ。
芸術品のような目の前のこの人たちについてだな。
コンプレックスの塊である私にしてみれば、目の前の3人は、存在そのものが暴力だった。
視界のどこを向いても美形。
逃げ場がない。
脳が処理を諦めた。
改めて、この"3種の美形盛り"を至近距離で突きつけられた結果。
胸の奥がじわじわ熱くなる。
脳がキャパオーバーを起こして、処理落ちしているのが自分でも分かった。
理性が、最後の砦を放棄した。
私の脳内ダムが決壊した。
「……美形滅べ」
3人が一斉に私を見た。
……あっ。
やってしまった。
どうやら、心の声がだだ漏れていたらしい。
ひいっ。
心臓が嫌なリズムで跳ねる。
手のひらがじっとりと汗ばむ。
3人の視線が刺さる。
痛い。
この2日間で浴びたどの視線よりも、居た堪れない。
穴があれば入りたい。
穴がないので、私はとっさに素数を数えた。
「2、3、5、7、11……」
落ち着かなくて、眼鏡のブリッジを押し上げたり、無意識に腕時計のベゼルを指でなぞったりする。
チクタクという規則的な感覚だけが、今の私の唯一の救いだ。
「…………そろそろ、いいだろうか?」
アークオーエンと呼ばれた男が、氷の張った水底のような声を出した。
とっさに顔を上げると、睨まれた。
怒ってらっしゃる。
当然だ。
いきなり"滅べ"と言われたのだから。
……ああ、やってしまった。
恥ずかしさと情けなさ、そしてこれから下されるであろう処罰への恐れ。
ぐわっと込み上げてくる感情を必死に抑え込もうとした。
涙が出たわけではないが、ドライアイの私に少し潤いが戻ったのが分かった。
私は恐る恐る、上目遣いに相手の出方を伺った。
視線が、再び真っ正面からぶつかる。
視線が絡んだまま、数秒だけ世界が静止したように感じた。
その瞬間、彼の喉が、かすかに上下した。
そして呼吸が、ほんの一拍だけ止まったように見えた。
彼は、突如として片手で顔を覆い、目を瞑って動かなくなった。
その反応は、怒りとも困惑ともつかない。
ただ1つ確かなのは、彼が"正面から飛んできた何かを直撃で受けたような反応だった"ということだけだった。
そのまま何やら深く、石像のように固まって考え込んでいる。
うわっ、どんな質問が飛んでくる?
どこの国のスパイだ?
とか、全部吐けば楽にしてやる、とか?
……え?
私の残念な頭じゃ拷問コースしか思い浮かばない。
背中に嫌な汗が流れる。
私は表情筋を総動員して、感情を殺した"鉄の無表情"を再構築した。
伊達メガネの奥で、まだ少し潤んでいるであろう瞳を隠すように。
せめて対面時には目を逸らさない。
それが私の、せめてもの矜持だ。
アークオーエンと呼ばれた男が、不意に再起動した。
彼は1つ咳払いをした。
「私はファイン=クェイネル=デラ=アークオーエンです。……まず、貴方のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
……ん? あれ? 自己紹介?
しかも、言葉遣いが驚くほど丁寧だ。
囚人を扱う態度ではない。
考えたら手枷も外されている。
私が考え込んでいると、後ろからキースに軽く小突かれた。
「……おい。答えろ」
「あ。私は、レイ=タダノ=オカシズキー=ド=……ジャポン……です」
舌がうまく回らず、語尾が震えた。
自分の声が、やけに遠く聞こえる。
「では、ジャポンさん。貴方に確かめてもらいたいものがあります」
──ジャポンさん。
苗字はそっちか。
ははっ。
私は思わず、天井画に描かれた神々の戯れ(?)に意識を飛ばした。
ジャポンさん。
響きがシュールすぎる。
今すぐどこかの温泉にでも浸かって、この理不尽な現実を洗い流してしまいたい。
あぁ、おんせんにいきたいなぁ。
……現実逃避。
アークオーエンさんが合図をすると、控えていた誰かが部屋にしずしずと入ってきた。
足音が近づくたび、部屋の空気がじわりと重くなる。
恭しく抱えられた、布に包まれた"何か"。
その物体が私の目の前のテーブルに置かれた時、空気の密度が一段、跳ね上がった。
あれは──




