7.
馬車を降りると、私はすぐさま建物の裏手へと回された。
どうやら、この"不審な囚人"を公道や正面玄関で晒し者にするつもりはないらしい。
ん?
だったら、なぜ牢屋のあった場所から外れた位置に馬車を停めた?
人目を避けるのが目的なら、ピックアップポイントを牢のすぐそばに設定するのが、不測の事態に備えるロジスティクスの基本だ。
「あの、1つよろしいでしょうか」
「……なんだ?」
隣を歩くキースに声をかけると、彼の声がわずかに上擦った。
……まだ引きずってるのか。
私のためにも忘れてくれ。
「馬車に乗り込んだ場所についてです。なぜ、あんな私のいた場所から外れた位置だったのかな、と思いまして。牢の入口まで回した方が、逃走のリスクも兵の配置の手間も少なかったはずですが」
私の問いに、キースはなぜかガクッと肩の力を抜いた。
安堵したのか、あるいは私の"職業病"じみた質問に呆れたのか。
どちらにせよ、彼はそのまま黙り込んでしまった。
代わりに、前を行くローアム隊長が、肩越しに苦笑を投げかけてくる。
「君の今の立場ゆえに、その質問には答えられないな。囚人を乗せた馬車は通ってはいけない道がある」
「……なるほど。まあ、別にいいんだけど」
軍事機密か、あるいは何らかの儀礼的な理由か。
深追いしても無駄だと判断し、私は大人しく頷いた。
だが、「立場が変われば教えてもらえる」というニュアンスを含ませた隊長の言い回しは、私の脳内メモの"重要項目"にしっかりと追記しておいた。
◇
「ここを右だ」
隊長の指示に従い、角を曲がる。
そこにあったのは、装飾を削ぎ落とした実用本位の扉だった。
これぞ宮殿の裏口というような、使用人や出入り業者が使う通用口だろう。
扉の周囲には、頻繁に人が行き来している生活の形跡と、わずかに染み付いた油や埃、そして上質な石鹸が混ざり合った特有の匂いがしていた。
通用口の奥からは、使用人たちの足音や、遠くで食器のような何かが触れ合う微かな音が響いている。
それはまるで宮殿という巨大な生き物が、静かに呼吸しているようだった。
1歩、中に入る。
——空気が、変わった。
外にあった油と埃の匂いが、境界線を引いたように消えている。
音が遠い。
皮膚に触れる空気の密度が、明らかに違う。
内と外で世界が切り替わる感覚といえばいいか。
肌で感じ、目で見る情報の量が圧迫感を持って変わった。
一流ホテルのバックヤードを彷彿とさせる、効率と機能性だけを追求した石造りの通路。
だが、壁の隅々に至るまで塵1つ落ちておらず、松明の煤汚れすら見当たらない。
掃除が行き届いてるなんてレベルを超えている。
……いや。
清潔なんじゃない。
存在がなかったことにされているような……
──やめよう。
考えてはいけない気がしてきた。
と、そんな事を考えていたら2人はどんどん前へ進んでいく。
見失う前に2人を追いかけた。
この複雑に入り組んだ道を覚えるのは、骨が折れそうだ。
通路を進むにつれ、周囲の質感がじわりじわりと変化していった。
荒削りの石が、しっとりとした光沢を放つ大理石になり、壁にはいつの間にか滑らかに磨かれた木材の腰壁が回されている。
足下には、足音を完全に吸い込むほど毛足の長い、深いワインレッドの絨毯が敷かれていた。
廊下に飾られた調度品も、初めは実用的な真鍮のランプだったものが、進むごとに金細工を施した燭台や、素人目にも"それなり"だと分かる巨大な油彩画へとグレードアップしていく。
裏から表へ。
私たちは今、この世界の"中枢"へと確実に登り詰めているのだ。
やがて、重厚な扉の前に2人の衛兵が立つ一画に辿り着いた。
衛兵たちは彫像のように微動だにせず、私たちが近づくと、射殺さんばかりの鋭い視線を突き刺してきた。
相手を人間ではなく"排除すべき不確定要素"として処理しようとする、研ぎ澄まされた冷酷さ。
はいはい、不審者が通りますよっと。
だが、今の私にはそれがどこか心地よかった。
何をすればいいか、どう動くべきか。
「歩け」「座れ」「黙っていろ」。
プロフェッショナルな彼らの厳しい規律の中に身を置き、その絶対的な命令に従っている間だけは、余計なことを考えなくて済む。
その方が楽だ。
本当に……
何をすべきか考えなくて済むし、少なくとも今だけは、自分で判断し続ける必要がない。
ふと横のキースを見れば、彼はもう、あの"刺さるような目"を私に向けてはいなかった。
出会った当初のような鋭さはどこへやら。
今の彼は、私と目を合わせることすら避けるように、真っ直ぐ前方だけを見つめている。
……こんな不審者に慣れたくない、ということかな?
賢明な判断だ。
案内されたのは、優に20畳はある広さの部屋だった。
天井を見上げれば、そこには神話の一幕を描いたのであろう、緻密で壮麗な天井画が広がっている。
そして、部屋の中央でそれなりの存在感を放っているのは、中規模なシャンデリアだった。
バカラやスワロフスキーの"普及モデル"といったところか。
とはいえ、現代の高級ホテルのラウンジにあれば、十分に主役を張れるだけの輝きがある。
曇り1つない窓から差し込む陽光を受け、カットされたガラスが虹色の火花を散らしている。
現代の芸術誌であれば、これ1枚で特集が組めるほどの美しさだ。
だが、部屋の規模や設えからして、ここは下級貴族かなんかを待たせるための"控えの間"といったところだろう。
この空間に対して、隅に置かれた華奢な2脚の椅子とテーブルだけが、後から急いで用意されたような微妙な違和感を放っていた。
「座れ」
隊長に促され、私は絨毯の重厚な感触を確かめながら、指示された椅子に腰を下ろした。
すると、キースが私の正面に立ち、低く、重圧をかけるような声で言い放った。
「今から手枷を取る。……いいか、1ミリでも妙な真似をしてみろ。その瞬間に、貴様の首と胴が離れ離れになることを忘れるな」
直球の脅迫だ。
1mm……ね。
細かいな。
首と胴がサヨナラ。
非常に分かりやすくてよろしい。
だが、これほど厳重な警備に囲まれ、丸腰の私が暴れるメリットなど、考えるまでもなく"ゼロ"だ。
私は心の中で
『メモ:この国は、話し合いより先に剣が出るタイプ』
と書き記し、神妙な面持ちで頷いた。
カチャリ、と乾いた音がした。
手首を締め付けていた鉄の輪が外れ、じわりと血が巡る。
「……承知しました。抵抗するつもりはありません。ところで、一体これから何が始まるのでしょうか?」
私の呟きのような質問が、静まり返った空気の中に溶け込んだ、その時だった。
重厚な扉の向こうから、くぐもった、しかし凛として通り、周囲を圧するような声が響いた。
「──アークオーエン様がお越しになりました」
その声が響いた瞬間、部屋の空気が一気に張りつめた。
まるで空間そのものが息を潜めたようだった。
キースの表情も、一瞬で「ただの男」から「命を賭した騎士」へと引き締まった。
彼は無言で扉へと手をかけ、儀礼的な動作でゆっくりとそれを押し開いた。
足音はないのに、確かに"近づいてくる"気配だけが迫ってくる。
背筋が、無意識に正される。
逆光の中、開き始めた扉の向こう側から、この部屋の酸素濃度さえも一変させてしまうような、強大な”誰か”が姿を現そうとしていた。




