5.
「道順を覚える時は、目的地の方角と距離を頭の中でマークしておき、ランドマークを把握しておくこと。これ、鉄則な」
昔、小説家志望だった友人が、居酒屋で道順の覚え方を得意げに語っていた。
その時はハイボールを飲みながら笑って流したけれど、今の私はその状況の真っ只中にいる。
いっそきつい酒でもあれば……
現実逃避くらいはできたかもしれない。
◇
カビと湿気の匂いが染み付いた暗い階段を抜けると──
名作ファンタジー映画の冒頭のような、圧倒的な光景が広がる……
と身構えていた。
だが、網膜を焼く光の中で、私は"既視感”を覚えた。
西洋の宮廷建築みたいだ……
だが、どこかが決定的に違う。
空気も石畳も、異様に清潔すぎる
牢で鼻についた潮の匂いも、ここではまるでない。
それに不自然なほどに、生命の気配が薄い。
生活感のなさというか……
まるで映画かドラマの撮影セットの中のようだ。
完璧に管理された"静止画"の中を歩かされているような違和感が、足裏から全身へ駆け抜けた。
……いや、異世界だから、で片づけていいのか?
思わず独り言が漏れる。
「……おい。キョロキョロするな。前を見て歩け」
先を歩く隊長が、氷のような声で嗜めてきた。
私は反射的に、現代社会人の必須スキル"にっこり笑って誤魔化す”を発動した。
営業先の無理難題にも耐えてきた、渾身の愛想笑いだ。
「…………」
だが、隊長はぴたりと固まった。
私の笑顔は同僚曰く「目が笑ってない」らしい。
屈強な騎士様を引かせてしまったようだ。
切ない。
まぁ、今回の反応はマシなほうと思い頭の彼方に捨て置く。
「……黙って歩け。余計な表情を作るな」
隊長は不快感を隠さず歩き出した。
私は大人しく従う。
キョロキョロするなとは言われたが、本能には逆らえない。
好奇心が勝る。
左右を屈強な二人に固められ、石畳を歩かされながらも、周りを見た。
広大な敷地だ。
位の高い貴族や高官が集う聖域なのだろう。
遠くでは人々が静かに行き交っている。
光沢のある上質な衣服を纏い、その腰には例外なく鋭い長剣が下げられていた。
──命を奪うための物が。
飾りでなければ、だが。
その中でチラチラとこちらを見てくる。
……視線が痛い。
細切れにされそう。
この手の視線は知っている。
敵意でも好奇でもない、ただ"異物”を見る目だ。
騎士や高官らしき人々は、私をゴミか外来生物のように見ている。
下手な動きは命取りになりそうだと思った。
その視線から逃れるため、私は必死に地形を脳内の白地図に書き込んでいく。
「樹、木、塀、兵の数……北東に逃げ道なし。南西の壁、高さ3メートル……」
無意識に生存のためのマーキングを繰り返すが、分岐点が多すぎて眩暈がする。
諦めかけた時、目的地の全貌が視界に飛び込んできた。
……あれか。この世界の心臓部。
1キロほど先。
なだらかな上り坂の頂点に、周囲とは格の違う巨大な建造物。
純白の石材と黄金の装飾。
遠近感が狂うほどの規模。
白亜の壁面は朝日を受けて淡く輝き、その光が空気ごと震わせているようだった。
巨大すぎて、建造物というより地平線に突き刺さった"壁”のように見えた。
「1キロか……ちょうどいい散歩になりそうだな」
徒歩15分。
勾配を考えても負荷は最小限。
身体のコンディションも良好だ。
幸いなことに。
周囲の人たちは馬や豪奢な乗り物で移動している。
そういうのを見ると、囚人を移動させるなら殊更何かに乗せた方が効率的だろうに。
危機管理どうなって……いや、危機感が足りないのは私の方か。
この世界の常識に、私の尺度を当てはめる方が間違っている。
兵士の配置、監視の死角、逃走ルート——遠くばかりに気を取られていた。
だからか、すぐ目の前の"壁"に気づくのが、致命的に遅れた。
「ふぎっ……!?」
正面から硬質な何かに鼻をぶつけた。
壁?
こんな開けた場所に壁なんて──
涙目で見上げると、それは壁ではなく、いつの間にか前にいたキースの背中だった。
岩盤のような広背筋。
服越しでも密度が伝わる。
「おい。前を見て歩けと言われただろうが。それとも、わざとか?」
呆れとも警戒とも取れる声。
それにしても、さっきから「おい」「お前」としか呼ばないこの男の将来を、私は静かに案じた。
名前を呼ばず、”飯”と”茶"で会話が成立すると思っているタイプは危険だ。
結婚してたら熟年離婚一直線である。
ソースは何かの熟年離婚特集だが……
「……なんだ、その目は。憐れむような薄気味悪い光を向けるな」
「いえ。何でもありません。ただ、貴方の行く末を案じただけです」
すかさず「鉄壁の愛想笑い」を最大出力で発動。
キースは苦虫を十匹噛み潰したような顔で横を向いた。
……ん?
耳が赤い。
怒ったのか。
感情が顔に出やすいタイプらしい。
彼は扱いにくいが読みやすい。
心の中でそうメモをつける。
「これから、この馬車に乗る。中で騒ぐなよ」
隊長が豪奢な馬車の扉を開けた。
先に隊長が乗り、続いて私──と思ったら。
「乗れ。足元に気をつけろ」
隊長はちょっとした気遣いを見せつつ、私に横の席を促した。
前はガラ空き。
当然キースがそこに座ると思った。
だが、なぜかキースは対面を無視して、私のすぐ隣に腰を下ろした。
狭い。
サンドイッチ再び……
革張りの座席は上質だが、閉ざされた空間に車輪の振動がこもり、逃げ場のない密室感をさらに強めていた。
無駄にがっしりした体温が、厚い生地越しに伝わってくる。
腕が触れ合い、圧迫感が増す。
まだ怒っているのか。
もし暴れられたら、この距離……
脳内で、いつものシミュレーションが静かに展開される。
手枷を鈍器ではなく”楔”として使う。
狙うのは男としての最大の急所。
全体重を乗せて手枷の角でそこを強打し怯んだ隙に──
「…………」
私は無意識に、キースの股間付近を凝視していた。
最小限の力で最大のダメージを与える角度を探る。
「っ……な、何を……どこを見てるんだ……っ!」
キースは弾かれたように膝を閉じた。
耳まで真っ赤になっている。
身を捩って私の視線から逃げる。
「……別に、"急所”を確認していただけですが」
「きゅう……!?き、貴様……なんて"破廉恥”な……!?」
キースは絶句し、肩を震わせながら窓際へ逃げた。
……破廉恥?
急所を狙うのが破廉恥なら、実戦はどうなるんだ?
心外な罵倒に首を傾げつつ、ようやく空いたスペースに身を預けた。
車内に、先ほどとは違う種類の、ねじくれた沈黙が流れる。
キースは二度とこちらを見ようとせず、しかし耳たぶは真っ赤なままだった。
隊長は一瞬だけこちらを見た。
その視線に、説明のつかない揺らぎが混じっていた。
私は狭い車内で隣り合うキースの、どこか落ち着かない呼吸音を聞きながら、窓の外を流れる白亜の宮殿を眺めた。
そこで待ち受ける理不尽と、逃れられない運命。
それでも、足を止めるという選択肢は最初から存在しない。
止まれば、そこで終わる。
手枷の鎖を小さくジャラリと鳴らし、無意識に眼鏡のツルに触れたとき、めくれた袖口からちらりと時計が見えた。
自嘲気味な笑みを飲み込み、私は再び表情を"無"へ戻した。
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