4.
なんだかムカムカする夢を見ながらも、私は意識をクリアにした。
この状況下で2度寝は無理だ。
何があってもいいように、心構えだけはしておく。
小さな鉄格子の窓から差し込む、朝なのか昼なのかも判らない日の光が、埃の舞う牢内を鋭いスポットライトのように照らし出していた。
逃げ場のない檻であることを強調するような光と影のコントラストの中、昨日、精神的な余裕がなくてできなかった自分自身の”点検”に移る。
無意識に、腕時計を確認する。
実用性と堅牢さだけを追求したステンレス製。
7年前に失った”彼”の形見……
たとえ世界がひっくり返り、物理法則の通じない見知らぬ土地へ飛ばされようとも──
この時計の秒針だけは、私の知る唯一の”現実”と繋がって、正確なリズムを刻み続けている。
「……動いてるな、お前も」
その事実が胸の奥を揺さぶる。
そっと時計に触れる……
感情を整理するのは、安全を確保した後でいい。
私は頭を振った。
二日酔いの朝みたいに、頭の奥がじんじんする。
気を取り直して、私はゆっくりと、筋肉の強張りを解きほぐすように上体を起こした。
鏡がないので、指先を丁寧に動かして頭部を触診していく。
髪をかきあげるたびに、この場の冷たい空気が頭皮をかすめる。
そして頸椎の歪みを確認する。
出血、腫れ、骨の異常はない。
……外傷がない。
皮下出血も最小限。
あの衝撃でこれだけ?
眼鏡をかけ直し、スーツの汚れを払いながら手足の可動域を確認するが、どこにもラグはない。
本来なら、あの鉄骨が直撃した時点で、私の頭部は熟した果実のように弾け飛んでいたはずだ。
不自然なほど無傷な身体に、奇妙な違和感が募る。
思考がさらに深みへ沈みかける。
豪雨の中、私の前を走っていた真っ赤なアルファロメオ。
高いビルが立ち並ぶ都市部で、わざわざ低い位置を走るあの車をピンポイントで狙い撃った、意志を持つかのようなあの歪んだ雷──
夢に出てきたジオの顔が刹那よぎる。
だが、無理やり思考を断ち切る。
その時だった。
カツン、カツン──
静寂を切り裂き、石畳を叩く規則的な足音が響いてきた。
湿った空気の中を、何者かがこちらへと確実に近づいてくる。
──朝食のかすかな匂いとともに。
……来たか、配膳係。
サービス精神は期待してないけど。
私は無意識に、表情を鉄の仮面のような"無”へと切り替えた。
「おい、そこの。朝食だ。さっさと食え。……死なれたら寝覚めが悪い」
重苦しい鉄の扉が開き、監視役のキースが金属製のトレイを牢の中へ滑り込ませた。
トレイが石畳を擦り、鼓膜を逆撫でする嫌な音が響く。
顔を上げたその時、私とキースの目が合った。
キースはわずかに何かを言いかけたように口を動かしたが、結局は何も言わず視線を逸らし、通路の奥へ背を向けた。
「……何か言いたいなら言っていけ。沈黙は余計な憶測を呼ぶだけだっての」
乾いた独り言をこぼしながら、私はトレイをゆっくりと引き寄せた。
乗っているのは、異世界での"朝食"。
内容は、絶望的なまでに貧相だった。
具の影もない濁ったスープ。
そして、道端の石を焼き固めたような無骨なパン。
それだけ。
昨日の昼から何も食べていない私の胃袋は泣き叫んでいる。
それでも、目の前の物体を"検品"するように観察せざるをえなかった。
この牢屋の"環境"のせいで。
……ここは鼻をつく饐えた臭いに、換気もあまりない石造りの空間。
壁の隅には黒ずんだカビ。
照明は松明で、油の煤が空気に混じる。
文明レベルは、多分地球の中世に近い。
ということは、環境が違うので、生態系も違う。
恐らくこの世界の住人には無害でも、地球で育った私には猛毒。
慎重にならざるを得ないのに……私はパンとスープを前に、静かな戦慄を覚えていた。
異世界とか関係なく、単純に食中毒が怖い。
だが、私の中の”生物としての本能”は、そんな懸念など知ったことかと激しく主張してくる。
低血糖による思考能力の低下こそ、今の最大の敵だ。
結局、三大欲求には抗えない。
私は死を覚悟し、ひと口だけ未知のパンを齧った。
「……っ、かったい!」
パンは、想像を絶する硬度だった。
齧る、千切る、割る──どれも無慈悲に跳ね返される。
これはパンの形をした投擲用の鈍器だ。
仕方なく、スープに浸してふやかすことにした。
1分、2分……石のような生地が水分を吸い、ようやく粘土程度の柔らかさになる。
慎重に口へ運ぶ。
「……あ」
意外にも、スープの塩味とパンの香ばしさが絶妙に調和していた。
空腹という最高のスパイスを差し引いても、これは美味しい。
噛み締めるたび、生きているという実感が身体の隅々に染み渡る。
「皮膚、異常なし。呼吸、正常」
食事中も、私は自分のバイタルをチェックし続けた。
遅効性の毒かもしれない。
潜伏期間のある感染症かもしれない。
だが、考えても無駄だ。
飢えて死ぬか、リスクを承知で食べて生き延びるか。
二択なら、私は迷わず後者を選ぶ。
「食事はおいしく。……誰の言葉だったかな」
皮肉な格言を胸の内で呟きながら、私は異世界での1食目を完食した。
その時だった。
前の扉が乱暴に開かれた。
冷たい朝の空気が、牢内の淀んだ匂いを一瞬だけ押し流した。
「おい、お前。食事が済んだのなら立て。……ぐずぐずするな」
キースだ。
私は反射的に空のトレイを持ち、素早く立ち上がっていた。
反射とは恐ろしい……
鉄格子の隙間からトレイを返そうと手を伸ばす。
「っつ……」
使い古されたトレイの縁が、指先をわずかに掠めた。
1ミリ程度の小さな切り傷。
日本にいた頃なら放置するような些細な怪我だ。
だが今は違う。
食事は、飢えて死ぬよりマシだと飲み込めた。
だが、これは違う。
防げたはずの、ただの不注意だ。
……まずい。
錆、埃。
ワクチンもない世界で。
想像力は、時に毒より人を殺す。
破傷風、敗血症、壊疽──暗いイメージが脳内を駆け巡り、背中が冷たい汗で濡れる。
私はトレイを押し付けるように返し、指先を見つめながら呼吸を整えた。
「おい、どうした?顔色が紙みたいだぞ」
キースが眉を顰める。
「……いえ、なんでもありません。ただの、貧血です」
「こちらへ来い」
拒絶を許さない声。
言われるまま鉄格子へ歩み寄る。
手を貸せと言われ、震える指先を隠しながら差し出す。
そのとたん、キースの大きな手が私の手首を掴んだ。
「あっ」
彼は、指先に滲んだ小さな赤い珠をじっと見つめ──凍りついたように動かなくなった。
その瞳に宿ったのは、監視者の冷徹さではない。
細く脆い異分子への戸惑いか。
白い肌を汚す鮮血に、無意識下の何かが反応したのか。
数秒の沈黙。
牢内の空気が、奇妙な熱を帯びて停滞する。
キースの視線が、傷口に落ちたまま動かない。
何かを考え込むように、眉を寄せる。
その沈黙が、妙に長く感じた。
……なんだ?
だが次の瞬間、彼ははっと我に返った。
「こ、こんな傷、舐めておけば治る……!軟弱な奴め!」
……いや、犬じゃないんだから。
キースは自分の動揺をかき消すように吐き捨て、乱暴に手を離した。
その勢いに、私はわずかによろめく。
……何なんだ。
「何をやっている、キース。手際が悪いぞ」
廊下の奥から、重低音ボイスを響かせながら隊長が現れた。
重厚な鍵束を手に取り、迷いのない動作で牢の鍵を回す。
ガチャン──鉄扉が開く。
隊長が、私のパーソナルスペースに土足で踏み込んできた。
長身の彼が牢内に入ったその1歩、空気がわずかに震えた。
革と鉄の匂い、戦場を駆け抜けた者の冷たい気配。
隊長は無言で私の腕を掴んだ。
骨の感触を確かめるような、容赦のない力。
「……じっとしていろ」
逃げ場のない檻の中で、冷たい鉄の輪が手首にはめられた。
手枷だ。
金属の重みが、私に「捕虜」という現実を突きつける。
「出ろ。移動する」
手枷をはめられたまま、私は牢の外へ引きずり出された。
「行くぞ。遅れるな」
隊長とキースが左右を固める。
2人の体温と気配が、逃げ場のない圧力となって肩にのしかかる。
細く暗い通路。
成人3人が横に並ぶには狭すぎる。
隊長は185センチほどの鋼の肉体。
キースもまた、猟犬のように研ぎ澄まされた筋肉を纏っている。
その2人に挟まれ、私は圧倒的な圧迫感にさらされていた。
……カツ2枚に挟まれた、萎びたレタスの気分だ。
肩が触れ合い、体温が伝わる。
「最低でも45センチは空けてくれ」と叫びたい衝動を、奥歯を噛んで堪えた。
不格好で屈辱的な横歩き。
行動を完全にコントロールされながら進む。
20メートルほど進んだ頃、前方に暴力的なまでの光が見えた。
外界へ続く階段だ。
私は反射的に足を止めた。
「おい、どうした?怯えているのか」
隊長が振り返る。
「……いえ。大したことですが、大したことありません」
支離滅裂だが、それが本心だった。
階段の先にある、陽光に満ちた未知の世界。
夜に3つの月が浮かぶこの空は、昼にはどんな顔を見せるのか。
この世界は、私という異物を許すのだろうか。
「……進んでください」
隊長の翡翠の瞳を見据え、短く告げた。
隊長はわずかに目を見開き、すぐに表情を戻して1段目を踏み出す。
背後に伸びる自分の影。
震え、歪むその形は、今の私の心そのものだった。
私は光へ向かって、1段ずつ、運命を刻むように階段を登り始めた。
旧版の3,4を合体させました




