254.
──あれから、何も進んでいない。
シンヴァーク様は一度も部屋に戻ることはなく、結局、ファインさんによる礼法講習も未着手のまま、任務3日前という瀬戸際を迎えた。
今日は、事前の戦術会議当日。
近衛隊との合同任務ということもあり、指定された会議室へ向かう足取りは自然と鈍くなる。
隣にはナリアッテ。
彼女も同行するようだが……
参加していいのか?
部外者扱いされないか少し心配だったが、私の側付きとして任務に同行するなら、軍の規律上は問題ないのだろうか。
扉を開けた瞬間、十一番隊の隊士たちの視線が一斉に突き刺さった。
ざわめきと、困惑。
鉄製の燭台がいくつか、壁際に並んでいるだけの簡素な室内だった。
乾いた石造りの床に、私の靴音だけがやけに高く響く。
ゴクリとつばを飲み込んだ。
無視して中へ足を踏み入れると、私は反射的に”彼”を探した。
そして──
ヴォイド。
……いないはずの影なのに。
それでも目が彷徨った。
シンヴァーク様は後方の席に深く腰掛けていた。
鉄錆の匂いに混じって、ふと彼の香りが蘇る。
あ……
あの朝の熱が、指先まで疼いた。
唇に触れかけたところで、辛うじて踏みとどまった。
私が歩き出すと、なぜか室内からは衣擦れの音しか聞こえなくなった。
シンヴァーク様の隣、あつらえたように空いていた二席にナリアッテと腰を下ろした。
やがてセラ小隊長を筆頭に、十一番隊の幹部、そして今回の警護対象を直接守護する近衛隊の幹部たちが入室してきた。
セラ小隊長以外は、あからさまに私を見て驚きの色を隠さない。
そんな中、隣のナリアッテだけが、この場に似つかわしくないほど眩しい、それでいてどこか”確信”に満ちた笑みを浮かべていた。
「──静粛に。これより事前会議を行う」
進行役を務めるセラ小隊長の声には一切の抑揚がなく、ただ淡々と情報の断片を広間に放り投げていく。
「ロイミオ殿下を奉じる馬車列は、全行程一日。我々混成部隊は、この街道における『移動障壁』となる」
部屋の中央、重厚な木の卓上に広げられた羊皮紙。
そこに示された図面には、馬車を囲むように配置された騎馬の密度が記されていた。
近衛隊が殿下の直近を固める「内殻」を。
我々十一番隊は、その外側で敵を食い止める「外殻」を担う。
「殿下がどの馬車に搭乗されるかは、出発の瞬間にのみ明かされる。予備の車両を含めた全四両、どの位置にいても命を賭して守り抜け」
セラ小隊長の一言に、部屋の空気が一段階、重く沈んだ。
誰もが自身の役割の重さを噛み締め、私語はおろか、隣の者と視線を交わすことさえ憚られるほどの静寂が落ちる。
それを私は、他人事のように聞いていた。
自分の命の話なのに、どこか遠い。
集中しなきゃ……と首を振る。
……情報の遮断による防諜。内部の裏切りさえ計算に入れた、徹底した管理。
会議室を見渡していると、シンヴァーク様と目が絡む。
絡め取られる。
……それでも、手は伸ばさない。
伸ばさないと、決めている。
今の私には、この冷たい鉄のような空気の方が、呼吸がしやすかった。
一通りの説明が終わると、居並ぶ者たちの視線が、隠しきれない好奇心と共に私へと集中し始めた。
セラ小隊長が、わずかに苦笑を滲ませて口を開く。
「今回の作戦の要諦として、十一番隊の従騎士に殿下の『身代わり』を命じることとなった」
顔が、波のように向く。
身代わり。
……果たして、私がその大役に足るのかは、正直、疑わしい。
それでも、逃げるという選択肢は、最初から私の中に存在していなかった。
誰も息をしない。
時間が、ゆっくりと歪む。
「ルイ、前へ」
──その一言が、静寂を切り裂いた。




