253.
少し読み直して、微調整しました。
ストーリーは変わらないです。
「あっ、ルイっ。と教官。先に訓練してたの?ずるいっ、俺も混ぜてくださいよ」
場にそぐわない明るい声と共に、バタバタとジェイが走り寄ってくる。
……さっきまでの空気が、嘘みたいに薄い。
つい数秒前まで、私の首筋と教官の喉元に流れていたあの濃密な熱気が、一瞬で霧散していくのが分かった。
「……本日は、ここまでに。ルイ様をお戻しいたします」
ナリアッテがスッと間に割って入り、有無を言わさぬ口調で告げた。
私は教官の、どこか言い足りなそうな、それでいて深く沈んだ瞳から逃げるように彼女の言葉に乗った。
「ジェイ、みんなによろしく。……また明日」
「えっ! ルイ行っちゃうの……?」
捨てられた子犬のような顔をするジェイに手が伸びかけたが、それをナリアッテの視線が制する。
私は後ろ髪を引かれる思いで、食堂の喧騒を背にその場を後にした。
背後に残してきた稽古場の空気は、まだ私の肌に張り付いているようだった。
ナイフを喉元に突きつけた時の、あの無防備な教官の肌の質感。
そして、顔を背けた時の彼の仕草。
思い出すたびに、指の腹に残った感触が消えない……
あの距離を──
もう一度、確かめたくなる。
『お前……自分のことを「女」だと思ってないだろう』
教官の掠れた声が、石造りの廊下に響く自分の足音に混じってリフレインする。
これまでは”教官と教え子”という、ある種、無機質な関係に逃げ込めていた。
けれど、ドレスを捲り上げ、至近距離で刃を突きつけたあの瞬間、何かが決定的に壊れてしまった。
その事実が、じわじわと罪悪感に近い居心地の悪さを連れてくる。
隣を歩くナリアッテは、何も言わない。
私は逃げるように歩を早めた。
シンヴァーク様の部屋に戻ると、そこには不自然なほどの静寂が広がっていた。
「最初から、そのように手配してございますわ」
ナリアッテが、事もなげに言う。
主騎士であるシンヴァーク様を遠ざけ、私に1人になる時間を与える。
その徹底した管理に、感謝よりも先に、胸の奥がざわついた。
「……ありがとう、ナリアッテ」
促されるまま、湯殿に向かう。
お湯に浸かると、身体の境界線が溶けていくようで余計に怖くなる。
冷えた体に湯の熱が染み渡り、リラックスするはずなのに──
思考は皮肉なほど明晰になっていく。
まるで自分という存在が、数字の羅列に置き換えられていくような──
個という境界が曖昧に崩れ、私という輪郭が数値へと変換されていく。
身体の重さが、遠い。
思考が、ばらける。
どこかの"集合”に、吸い上げられていくような──
──けれど。
頬を伝った一筋の湯滴が、私の唇をなぞった。
その瞬間、今朝のあの、熱を帯びたシンヴァーク様の感触が鮮明に蘇る。
ジオイドに見せられた夢の中──
あれは、本当に"夢”だったのか……
死にゆくシンヴァーク様の瞳は、どこまでも澄んでいて、私を射抜いていた。
その背後で、ヴォイドがいると分かっていながら、私は彼に縋った。
裏切りだ。
それが慈悲だとしても、救済だとしても、私は愛すべき人の前で、別の男の熱を求めた。
その罪悪感が、湯船の底から這い上がってくる泥のように、私の全身にまとわりつく。
……離れない。
──そして、今朝の寝ぼけたシンヴァーク様の、温かい感触。
夢の”死”が、現実の”生"へと上書きされていく。
生きていてくれて、嬉しい。
そう思う心に嘘はない。
けれど、その安堵の裏側に、夢で感じたあの「もっと」という疼きが、確実に息づいている。
それはまるで、底なし沼にゆっくりと沈んでいくような、抗いがたい力だった。
「……これじゃあ、まるで……」
私はそっと、自分のわななく唇に指を這わせた。
湯気でふやけた指先は、今朝触れられたあの熱をまだ覚えている。
この体は、この心は、一体どこへ向かおうとしているのか。
無理やり思考を止めたものの、先ほどの教官のやりとりを思い出す。
ユイクル教官の言葉は、冷や水を浴びせられるような鋭さを持っていた。
『男は思い余るとやらかすぞ』
教官は、私を”一人の騎士”として育てようとしながら、同時に”隙だらけの女”として案じている。
一方シンヴァーク様は、私を”一人の女”として慈しみながら、同時に”隙だらけの女”に縛り付けられている。
引き戻されているのか、沈められているのか。
どちらなのか分からないまま、ただ息が詰まる。
ただわかるのは、どちらに対しても私は、決定的に不誠実だということ。
くそっ……応えられないくせに……
……結局、問題は自分の"無自覚”なのだ。
無性に地球の友人に会いたくなった。
彼女ならこんな私に色々助言してくれただろうに……
なのにもう……会えない。
ここにきて初めて地球を恋しく思った。
考えれば考えるほど、視界が白く霞んでいく。
のぼせただけだ、と自分に言い聞かせても、心臓の音だけがうるさく耳の奥で鳴り響いていた。
胃の奥からせり上がってくる不快な熱が収まらない。
私は逃げるように湯船を出て、ナリアッテが用意してくれた薄手の部屋着に着替えた。
用意されていた夕食を、味が分からないままに口へ運ぶ。
「……ルイ様。こちらを」
差し出されたグラスの中で、氷がカランと乾いた音を立てた。
琥珀色の液体は、淑女が嗜むような甘い果実酒ではない。
従騎士たちが戦場前夜、恐怖を麻痺させるために煽る、喉を焼くような安酒だ。
「……ルイ様。時には、考えないことも勇気ですわ」
ナリアッテの手が、私の肩を優しく、けれど拒絶を許さない強さで押さえる。
私が今、自分自身を捌ききれずに、自滅しかけていることに気づいて。
拒む理由が、もう残っていなかった。
私はグラスを手に取ると、一気にその”毒”を喉に流し込んだ。
──熱い。
喉から胃にかけて、火が走るような熱が広がる。
シンヴァーク様の体温も、教官の警告も、ヴォイドへの未練も。
その全てを、この安酒の暴力的な熱さが一瞬だけ塗りつぶしてくれる。
「……お強いことですわね」
微かに笑ったようなナリアッテの声を聞きながら、私は泥のような眠りへと引きずり込まれていった。
任務まで、あと7日。
この静けさが、私をどこまで沈めるのか、それが、どこへ落ちるのか──
そこまで考えて、思考を止めた。
──止めたはずなのに、沈んでいく"私”だけが、はっきりと残った。
……残ってしまった。




