252.
カツン、カツンと軍靴を響かせ、こちらへ向かってくるのはユイクル教官だった。
あの人、絶対に眼鏡が似合う顔だ。
……今度、無理やりでもかけさせてみるか。
「ルイ様……お顔が崩れておりますわよ。妄想なさるときはお静かに。そして、淑女らしく扇でお隠しあそばせ」
ナリアッテに丸聞こえだったか。
私は慌てて表情を繕い、彼女に小声で尋ねた。
「ねぇ、この国に『めがね』ってある?」
「メガネ……?聞いたことがございませんわね。それは一体……?」
「ええと、視力矯正用というか、目が悪い人が使う補正用の……」
「ああ、それでしたら『モノクル』というものがございますわ。硝子のような板を片方の目に当て、文字を拡大して見るためのものです」
モノクル……
……うん、それも似合いそうだ。
「……もう、話は終わったか?」
気づけば、ユイクル教官が目の前で立ち止まり、呆れたような視線を私に投げかけていた。
「ひゃいっ」
やはり私に用があったらしい。
「はい……ユイクル教官」
「ルイ、少し話を。……これは命令だ」
命令、という言葉に私の背筋が勝手に伸びる。
「はっ!」
「……はぁ。とりあえず外に行くぞ。それから……」
ユイクル教官がナリアッテに向き直る。
「悪いが、ルイと二人だけで話したい。側付きは遠慮してくれ」
「承知いたしかねますわ。このような時刻に、殿方と二人きりにさせるわけには参りません」
ナリアッテが毅然とした態度で遮る。
「話が聞こえない距離にて控えております。側に侍ることをお許しくださいませ」
「……チッ。分かった、それでいい。ルイ、行くぞ」
「はっ!」
「……はぁ。今は淑女の格好なんだろ?普通の返事でいい」
「あ、……はい」
いつもの稽古広場へと向かう。
夕暮れの空はまだ明るさを残しているけれど、うかうかしているとすぐに日が沈んでしまいそうな、切ない色をしていた。
吹き抜ける風が少し冷たい。
広場の中央で足を止めた教官が、振り返るなり重いため息をついた。
「……ルイ、お前どういうつもりだ?」
……何の話だ?
「その顔、絶対わかってないな。昨日の様子を見て確信した。お前……自分のことを『女』だと思ってないだろう」
「ははっ……」
「笑いごとじゃない。今までは団服を着ていたからまだ良かったが、任務終了まではその格好なんだろう?」
コクリ、と頷く。
「はぁぁぁっ……頼む。その格好の時だけでいいから、自分が女だってことを自覚して行動してくれ。いいか?これは自分を守るためだ。お前がいつ襲われないかと、俺は気が気じゃな……」
そこで言葉を切る。
ユイクル教官は、じっと私の顔を見た。
「……もしかして。お前……すでに、襲われたのか?」
ユイクル教官の声が、ドスの利いた低音に変わる。
「襲われてはいませんが……」
「……『ませんが』?」
圧がすごい。
逃げ場がない。
「その……く、口づけを、いただきまして……」
声がしりすぼみになる。
「や、役得……じゃなかった、まぁ、挨拶みたいなものですから!あはは!」
ユイクル教官は、完全に固まった。
……あ、これ、まずい。
「……ちなみに。誰とだ?」
「……主騎士の、シンヴァーク様……です」
蚊の鳴くような声で答えると、教官の周りの空気がピキピキと凍りついた。
「よし。俺の全権限を使って、主騎士を変えてやるっ」
「いやいやいや!教官、職権乱用よくないですって!」
慌てて止める。
「じゃあ、どうするつもりだ。毎朝毎晩、くっ……それを許すつもりなのか」
「それは……ないかと……」
「なぜそう言い切れる」
「……ヘタレなので……?」
「……………………あぁ。把握した」
妙な沈黙が流れる。
「シンヴァーク様、あ゙そこはグィっとこなきゃなのに」
「……お前……女をどこかに置き忘れてくるのはやめろ。発言が上官たちと一緒だ」
ユイクル教官の上官たちの年齢、と……いっしょ……
やめっ、年齢は考えない様にしてたのに。
ロイミオ殿下のマネしなきゃなのに……
無理な気がしてきた。
年齢超絶詐称。
「……精進します」
「いや、それよりも。シンヴァーク卿と部屋が一緒で大丈夫なのか?男は思い余るとやらかすぞ」
私はちらりとナリアッテを見る。
「頼もしい味方がいますから」
「まぁ確かに。でも……その……口づけ……は、されたのだろ?」
複雑な色をさせた視線で、めっさ口元を見られている気がする。
「常に側にいられるわけでもあるまいし。どうするんだ、また……その……口づけ……をだな、されたら」
「許容範囲超えたら蹴ります」
私は無意識に、目の前の教官を見た。
「やめろっ、そんな目で俺を見るな!」
ユイクル教官が急所をカバーする。
「蹴りませんよ……まだ」
「不穏すぎる……お前というやつは。その格好でよくそんな物騒なことが言えるな」
ユイクル教官が、ようやくガードしていた手を下ろして、呆れたように肩を落とした。
「冗談ですよ。……半分くらいは」
「笑えない。……だが、それだけ口が回るなら体の方もなまってはいないようだな」
教官の瞳の奥に、いつもの鋭い”騎士”の光が宿る。
彼は腰に差した訓練用の木剣を引き抜き、私に放り投げた。
私はそれを無意識に受け取る。
染み付いた習慣って本当に怖い。
「ホーク教官からは、任務中は帯剣できないから、素手で対応しろと言われましたが……」
「あぁ、確かにその通りだな。だが、どうせお前のことだ。敵の武器を奪うなりして戦うんだろ?」
……夢の中では奪うより、隠し持っていた短剣で応酬していたような気がする。
きっと現実にそれが起こっても、私は同じように動くだろう。
「さぁ、どうでしょう?もし代替手段があるとしたら?」
ふと、いたずら心が疼いた。
溜めを作らず、一気にユイクル教官の懐へと潜り込む。
「なっ……」
驚きに目を見開く教官の前で、私はドレスのスカートを大胆に捲りあげた。
「ルイ様!!」
ナリアッテの悲鳴のような制止があがる。
ガーターベルトに仕込んでいた愛用の短剣を抜き放ち、逆手に持ち替え、そのまま教官の首筋へ──
押し当てた。
それでも教官は、一歩も引かなかった。
「きゃぁ、素敵……ですわ!!あら?」
ナリアッテ、本音が漏れすぎだ。
「おまっ……んんっ、ちょっとそれは……どうなんだ。最終手段だろ……」
首筋に刃を当てられたまま、教官が低く息を吐く。
一瞬だけ眉が寄るが、すぐに押し殺された。
こんな距離で見ると、やけに整っているのが──
妙に、腹立たしい。
「……ええ、最終手段です。でも、今の私にはこれしかありませんから」
私はわざとらしく首を傾げて、ナイフを喉元に食い込ませた。
ドレスを捲り上げた格好のまま、至近距離で見つめる。
教官の視線が一瞬だけ逸れた。
だがすぐに戻され、何事もなかったかのように私を射抜く。
「おまっ……俺の言ったこと、全然解っていないだろう……っ」
ふいっと顔を背ける教官。
──チョッ、待って、動かないで!
動脈が切れる!!
「あ……」
私の静止よりも、刃先が彼の喉元をなぞる方が早かった。
ほんの数ミリ。
けれど、ナイフが教官のキメの細かい肌を割り、一筋の赤い線が走る。
そこから、じわりと血が滲み出した。
背筋が粟立つ。
「教官! 動かないでって言ったのに……!」
「……お前の方こそ、少しは自重しろ。本気で斬らせたいのか」
私は慌ててナイフを引き、捲り上げていたドレスの裾をバサリと下ろした。
教官は喉元を押さえながらも、まっすぐに私を見据えた。
いや、睨んでいるというよりは、何か必死に耐えているような、そんな顔だ。
「……解っていないのは、お前の方だと言っているんだ」
教官の声が、少しだけ掠れている。
さっき一瞬、彼の視線が私の顔から逸れて、ドレスを捲った”その下”へ向かったのを、私は見逃さなかった。
そして今、彼は決して私の脚の方を見ようとせず、明後日の方向を向いたまま耳まで赤くしている。
「……はしたないですわ、ルイ様。ですが、あの速度でユイクル様の懐に入るとは……お見事ですわね。ですがご自分をどうか粗雑に扱わないでくださいまし。もうルイ様だけのお体ではありませんから」
ナリアッテが、賞賛とか呆れだか判らない複雑な声を出しながら駆け寄ってくる。
彼女の手には、いつの間にか清潔なハンカチが握られていた。
「教官、ごめんなさい。……でも、教官が急に動くから」
「……お前が、あんな……あんな真似をするからだろうが……っ」
教官がようやく私に視線を戻した。
滲んだ血をナリアッテに拭われながら、彼は諦めたように天を仰ぐ。
「……いいか、ルイ。今の動き、敵なら確実に死んでいた。だがな……相手が敵じゃない場合、別の意味で『死ぬ』奴が出る。……それが誰か、考えろ」
頭を抱える教官と、フフフと不敵に笑うナリアッテ。
どうやら、とんでもない爆弾を投下したらしい。
──踏み込んではいけない一線を、踏みかけた気がした。
「精進します、って言いましたよね、私」
「……その『精進』の方向が間違ってると言っている!」
夕暮れの稽古場に、教官の悲鳴が響いた。




