2.
……ここは、どこなんだ
人生で、こんなに無力で、具体性のない疑問を抱く日が来るとは思わなかった。
このフレーズを口にするのは、誘拐された被害者か、あるいは救いようのない迷子か。
現実主義者を自称し、データの裏付けがないものは信じないと豪語してきた自分が、天に浮かぶ不気味な3つの月を前に、こんな情けない疑問を抱えている。
滑稽すぎて、乾いた笑いすら出ない。
喉の奥がカラカラに乾いていて、出そうとしてようやく出た声は砂を噛んだように掠れていた。
自分の呼吸音すら、どこか他人事に感じられた。
◇
鉄格子の向こう、廊下の奥から石壁に反響する、硬い靴音。
誰かが来るというのに、私の意識の半分は、まだ窓の外に浮かぶ3つの月に囚われていた。
3つだ。
どう数えても3つある。
胃がキュッとなった。
さらに、カツン、カツンと、一定のリズムで近づいてくる。
じわりじわりとこちらに来るその音だけで、なんだか嫌な予感がする……
現れたのは、1人の男。
男はこちらへ歩み寄り、鉄格子のすぐ手前で立ち止まった。
こちら側が影になっているにも関わらず、視線が私の顔の位置を正確に当ててくる。
隠れていても無駄だな。
そう判断して、1歩前へ出た。
「……ここは……どこ、ですか」
喉が乾ききっていて、ひりつくように痛い。
唾液を飲み込みやり過ごす。
男の視線とかち合う。
……嫌な目だ。
気づけば、背筋が伸びていた。
重心が落ち、足が半歩、いつでも動ける位置に——
……何を、しているんだ私は。
錆びついたはずの身体が、勝手に動いていた。
こんな動きもうしなくていいと思っていたのに……
男が何かを喋りかけてくる。
最初は耳慣れない、不快なノイズのようにしか聞こえなかった。
だが、脳がそれを”言語”だと認識した瞬間、奇妙な現象が起きた。
耳に届く音は、どの国の言語とも違う。
なのに、私の思考回路が勝手にそれを日本語へと置換していく。
その不自然で、暴力的なまでの翻訳感覚に、強いめまいを覚えた。
脳の奥を無理やりこじ開けられたような、冷たい痛みが走る。
理解したくないのに、理解させられる感覚だった。
「……お前は何者だ?」
言葉が、
通じる。
フィクションでよくある"言語理解”みたいな現象が、この枯れ果てた私にも適用されているらしい。
「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせても、猛烈な空腹と割れるような頭痛が思考を遮る。
おかしいだろう、どう考えても。
異世界?
言語理解?
3つの月?
そんな非日常の塊が、私の人生に紛れ込んでくるなんて……
頼むから小出しにしてくれ。
……あれ?
そういう問題でもないような……?
思わず首を傾げた。
「おい、聞いているのか」
男の催促に答えようとした瞬間、奥の扉からもう1人の人物が姿を現した。
「キース、待たせたな」
その声は低く、よく研がれた刃物のように無駄がなかった。
そして何よりも重低音がこの牢屋に反響して、腹に響いた。
頭にも響く。
……痛い。
「あ、隊長」
後から来た男は、キースよりもさらに重厚な存在感を纏っていた。
ただ立っているだけで、場の主導権が自然と彼のものになっていく。
「どうだ、何か話したか」
「それが何も。妙なことを口走っては、変な動作を繰り返しています。かなり怪しいですよ、こいつは。言葉は通じているようですが、精神をやられているのかもしれません」
っ……!
失礼な。
誰が精神をやられている、だ。
こっちは頭に鉄骨(?)を食らった直後なのに。
頭痛に耐えて呻いただけの人間を”狂人”扱いするなんて、この男、何なんだよ。
もしここが日本の警察署なら、即座に抗議するところだよ。
何か言ってやろうかと顔を上げた時、あの青い月に照らされて寒々と輝いた翡翠の宝玉と目があった。
その視線に射抜かれた瞬間、内臓を冷たい指で撫でられたような戦慄が走った。
あの重低音ボイス、こっわ。
言い返したい衝動を必死に抑え、私はうつむいた。
「……そうか。それより、気になる情報が入っている」
隊長は声のトーンを落とし、キースに耳打ちした。
「情報、ですか?」
「ああ。一旦、あちらに戻るぞ。こいつの尋問は後回しだ」
隊長は去り際、一瞬だけ鋭い視線を私に向けた。
私は咄嗟に視線を逸らし、眼鏡のブリッジを押し上げて息を潜める。
……不用心な人たち。
部外者の前で、情報の匂わせなんて。
……いや、やめよう。
今の私はただの、不衛生な牢屋に閉じ込められた漂流者だ。
余計な分析は、自分の首を絞めるだけ。
「了解しました。……ところで、あれはどうしますか?」
キースが私を「あれ」呼ばわりした。
胸が焼けるほど不快だが、反論する力も権利もない。
人間扱いされない感覚は、いつまでたっても慣れない。
「明日の朝……それまでに、然るべき処置をする」
2人の会話は遠ざかり、廊下の向こうへ消えていった。
金属が噛み合う音が牢内に響き、再び冷たい静寂が戻る。
その静寂を、私の腹の虫が盛大に破った。
「……ぷっ」
扉が閉まりきる直前、誰かが吹き出したような音がした。
……まだいたのか。どこまでも失礼な奴らめ。
「明日来る時に、死なない程度の食い物を持ってきてやれ」
最後に聞こえたその言葉に、私はわずかばかりの安堵を覚えた。
少なくとも、今すぐ処刑されることはなさそうだ。
飢え。
疲労。
頭痛。
そして、自分が"枯れた花”どころか、名前も持たない"泥”にまで成り下がったような屈辱感。
すべてを忘れるには、眠るしかない。
私は冷たい石壁に背を預け、ずるずると座り込んだ。
窓から差し込む、青白い3つの月の光が、私の影を3つに引き裂いている。
影だけが身体から分離して、勝手にどこかへ歩き出していきそうな錯覚に陥る。
腕時計はつけている。
けれど、この世界の時間と合っているのかは判らない。
牢屋には時計もなく、3つの月のせいで時間の感覚がじわじわと狂っていく。
結局、ここがどこなのか。
私は何のためにここにいるのか。
答えは闇の中に沈んだままだ。
「……はぁ、今日だけで何回溜息ついてんだろ。私のマンション、どうなっちゃうんだろうな……管理費、自動引き落としにしておいて良かった……いや、それ以前に、会社、無断欠勤することになるのか……」
暗闇の中で、私は自分の性別も、名前も、過去も、すべてが曖昧に溶けていくような奇妙な感覚に包まれながら、重い眠りの淵へと落ちていった。
まぶたが落ちる瞬間、世界が音もなく遠ざかっていく。
そして、眠りに落ちる直前、ふと思った。
──明日の朝、私はまだ生きているのだろうか。
3つの月が、まるで私の運命を観察しているように見えた。




