1.
「アレックス、なんか変じゃねえか?」
「——プランBだ」
短い応答。
ハンドサインがひとつ。
砂塵。
銃声。
誰かが地を蹴る。
「2時方向、敵影!」
護衛対象が動いた。
そのせいで──
射線が、通る。
——間に合え。
暗転。
「映画かっこよかったね。あの後の展開がもうドキドキ」
「ん?あぁ映画、映画か」
居酒屋の喧騒が戻る。
目の前のポテトが食べられることなく置かれている。
「ええ?もう酔ってる?」
「いや、酔ってないよ」
「それより、ねえ、異世界トリップって聞いて、何を連想する?」
昨日の夜。
小説家志望の友人が、酒の席で突然そんなことを言い出した。
私は、冷めきったフライドポテトをつまみながら思った。
……よりによって今の私に、その話題?
「小説のネタ探し?現実逃避とか?」
「自分的に"ありえないこと”を書きたくなってね。で、琉生ならどうよ?」
「どうよって……バリー・ホッターとか?ほら、間違ってBARRYの財布捨てたっていう、あの事件の……それとも◯ード・オブ・ザ・リングの綴りが『Lings』になってて、舞台が海の底とか?」
「ちょっと!真剣に聞いてるのに、なんで身内ネタ混ぜるかな」
「とりあえず飲もっか」
「女飲み、かんぱーい」
「何回乾杯するの、この酔っ払い」
そんなくだらない会話で終わるはずだった。
本当なら笑って流せたはずなのに、その日は妙に胸の奥がざわついていた。
心のフィルターが、日々の過労で薄くなっていたのかもしれない。
──まさか、その次の日の残業帰りに、自分が"ありえないこと"の当事者になるとも知らずに。
◇
「……枯れてるな」
独り言が、冷たい壁に反響して虚しく返ってきた。
目の前には鉄格子。
その向こう、扉の脇に誰が、何のために置いたのか1輪の赤い花が生けられている。
この場違いな生気を失った花首が、この場の不気味さを際立たせていた。
花弁は乾ききって皺を寄せ、かつて鮮やかだっただろう赤はもう、色褪せ、指先で触れれば、粉のように崩れ落ちそうだ。
……まるで今の私だな。
しがない警備会社の事務員。
昔はもっと無茶をしていた。
なのに、平穏に馴染みすぎた。
錆びた。
かつての面影は──
もうない。
「認識すれば、それは現実になる」
誰かがそんな、シュレーディンガーの猫みたいな理屈を言っていた気がする。
だとすれば、私は今、確実に年老いたことになる。
自分で"錆びた"と認識してしまったからだ。
「はぁ……」
目を瞑って溜息をついた瞬間、頬をかすめた風に違和感を覚えた。
8月の、アスファルトが焼けるような熱帯夜のはずだ。
なのに、肌に触れる風は驚くほど涼しく、清涼感に満ちていて──
不自然だった。
しかも都会の夜に混じるはずの排気ガスの匂いが、どこにもない。
夏の夜に似つかわしくない、冷たく澄んだ潮の匂いだった。
「……潮くさい?」
潮騒の音まで聞こえる。
ざぁ……と、遠くで波が砕けるような音がした。
海まで車で1時間以上かかる距離で、そんなはずはない。
現実逃避なんて、うまくいった試しがない。
……そうだ。
私は、雨の中を走っていたはずだ。
◇
混濁する頭を働かせ数時間前の記憶を、反芻する。
会社のデスク。
定時の18時なんて、遥か彼方に過ぎ去っていた。
「あ~、しまった。もうこんな時間か」
新しい取引先の警備配置資料を作り終えたときには、21時を回っていた。
前の席で充血した目をこすっている堂島という後輩に声をかけ、私は地下駐車場へ向かった。
愛車に乗り込み、地上へ出る。
外は猛烈な雨だった。
まるで世界が壊れたような豪雨。
ワイパーを最速にしても、視界は数メートル先さえ危うい。
フロントガラスは白い線で塗りつぶされる。
時折、視界が白く明滅する。
その光が私の前を走る真っ赤なアルファロメオを照らし出す。
この不吉な豪雨の中でも目を引く、異様に鮮やかで艶やかな赤。
……いい趣味してるな。
そんなことをぼんやり考えながら、夜の闇の中を走る。
雷が、すぐ近くまで迫っていた。
静電気か何かか、産毛が逆立つ。
車内の空気が一瞬だけ重く沈み、呼吸すらためらうような圧が胸を押しつけてきた。
その瞬間、世界がひっくり返った。
雷光が、前の赤い車体を貫き、音が
──消える
世界から音が吸い取られたようだった。
無音。
白光。
静止。
時間がねじれる。
視界が白飛びし、世界がスローモーションになる。
光が水の中で揺れるように歪み、赤い車体の輪郭がゆっくりと溶けていく。
赤い車体が跳ね上がる。
水しぶきが宙に浮いたまま止まる。
雨粒が、空中で凍りついたように見えた。
──轟音。
その瞬間、世界の音が一斉に押し寄せた。
トラックの影が横から迫る。
巨大な車体が横滑りし、アスファルトを削る火花が散る。
視界が断片的に切り替わる。
白。
赤。
黒。
回転するヘッドライトの光。
荷台から宙を舞う鉄骨。
金属が空気を裂く甲高い悲鳴が、スローモーションの世界にだけ残響していた。
そして──
衝撃。
冷たい何かが頭に触れた感覚だけが、異様に鮮明だった。
(あ……マンションのローン……まだ完済してない……)
最後に浮かんだのは、あまりに現実的で、あまりにくだらない未練だった。
世界が水底に沈むように、
ゆっくりと暗闇が満ちていった。
◇
「……っ、痛い……」
意識が戻った瞬間、まず来たのは"痛み”だった。
思わず目を瞑る。
石畳の冷たさが背中に張り付き、頭の奥で鈍い衝撃が脈打つように響いている。
湿った石の匂いが鼻を刺し、どこかで水が滴る微かな音が、静寂の中にぽつりと落ちていた。
息を吸うたび、肺の奥まで冷気が染み込んでいく。
現実の痛みだけが、やけに鮮明だった。
……なのに。
世界は、不自然なほど静かだった。
雨音も、車の音も、何もない。
私はゆっくりと瞼を上げた。
視界が揺れる。
石の壁。
鉄格子。
湿った空気。
……事故のショックで見てる夢?
そう思いたかった。
だが、腹の底からこみ上げる暴力的な空腹と、石壁の冷たさが"現実”を突きつけてくる。
壁を伝って立ち上がり、
ふらつく足で小さな窓に手を伸ばす。
背伸びして、外を覗いた。
夜空が見えた。
静かに浮かぶ、月。
見慣れた輝き。
その隣に、少し小さな月がもう1つ。
……ん?
さらに、不気味に青みがかった月がもう1つ。
氷のように冷たい光を放っている。
はぁっ?
3つの月。
痛みで"現実”を確認した直後に、視界が"非現実”で塗り替えられる。
世界観が、音を立てて崩れていく。
喉の奥がひゅっと細くなる。
理解が追いつかず、思考だけが空回りする。
そして今、私は──
この冷たい牢屋に立っている。
これは、日本の夜空じゃない。
息苦しさに、気付けばシャツのボタンを2つほど外していた。
現実を否定したいのに、目の前の光景がそれを許してくれない。
逃げ場のない"異世界”という単語が、じわじわと胸に染み込んでくる。
視界が揺れ、膝がわずかに震えた。
「……最悪だ」
こういう時、私は決まって大事なものから順に確かめてしまう。
腕時計。
触れた瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。
なくしたくないと必死になってつかんだ腕の感触はそのままで……
なくさずに残った腕時計に、そっと指を這わせる。
そして眼鏡を押し上げた。
それらが無事であることだけが、今の私の救いだった。
多田琉生の人生は、この"3つの月”が支配する未知の世界で、望まぬ方向へと転がり始めた。
その時だった。
廊下の奥から、重い足音が響いた。
石壁に反射して、足音は何倍にも膨れ上がり、まるで複数の誰かが近づいてくるように錯覚させた。
……来る。
私は咄嗟に、身体が覚えている動きで──
壁の影へと身を潜めた。
小窓から差す月の光は、狭い牢の中を薄く照らすだけで、鉄格子の向こうまでは届かない。
相手の姿は見えず、聞こえるのは足音と気配だけ。
一歩。
また一歩。
足音がすぐ近くで──
止まった。




