12.
ナリアッテさんが去った後、私は抗う術もなく、ローアム隊長とキースに促され、ついに『藍の間』へ向かうことになった。
隊長が扉を開け、私たちは廊下へ出る。
てっきり近い部屋だと思っていた。
案内されたのは、さらに建物の奥。
この宮殿の"心臓部"と思われるエリアだった。
1歩進むごとに、景色の解像度が不気味なほど上がっていく。
壁に施された彫刻や金細工は、もはや"実用"を超え、見る者を圧服させるための"威圧"の域に達していた。
足音を吸い込む絨毯も、自分の存在だけが妙に浮いているように感じさせた。
それと比例して、私の内面では"場違い感"が限界突破し、警報を鳴らし続けていた。
……この格好、どう考えても終わってるな。
肩に食い込むスーツの縫い目が、やけに存在を主張してくる。
普段は気にも留めない生地のざらつきが、豪奢な空間の中では「お前はここにふさわしくない」と囁いてくるようだった。
くたびれたスーツ。
擦り切れた安物バッグ。
四方八方を煌びやかな装飾に囲まれたこの空間でこれだ。
まるで高級ブランド店に、間違えて作業着で入ってしまった時のような、あの"所在のなさ"が全身を締め付ける。
2分ほど歩いただろうか。
前を行くローアム隊長が、重厚な扉の前で足を止めた。
ここが目的地。
キースが居住まいを正し、静かにノックする。
「レイ=タダノ=オカシズキー=ド=ジャポン様をお連れいたしました」
……様。
様だって?
今まで「あれ」だの「それ」だのと呼んできたキースの口から、丁寧な敬称。
違和感がすごい。
そして、あの恥ずかしい偽名をフルネームで呼ばれた屈辱に、今すぐ消えてしまいたくなる。
あぁ……
「お入りください」
扉の向こうから、アークオーエンさんの凛とした声が響いた。
キースが扉を開き、私を中へ促す。
1歩踏み入れると、背後で静かに扉が閉まった。
振り返ると、護衛2人の姿がない。
あれ?
入ってこないの?
底の知れないアークオーエンさんと2人きり。
微かな戸惑いが胸をよぎる。
「心配せずとも、彼らは外で控えていますよ」
いや、心配じゃなくて……
"リスク管理的に大丈夫?"って意味なんだけど。
まあいい。
「お待たせして申し訳ありません」
私は"現場"で培った完璧な角度で頭を下げた。
不審者扱いから一転、客扱い。
ならば礼節を尽くすのが筋だ。
「いえ、それほど待ってはいません。お気になさらず」
アークオーエンさんは相変わらず優雅だ。
私は頭を上げ、部屋を観察する。
『藍の間』
その名の通り、徹底して"青"に支配されていた。
ロイヤルブルーの絨毯。
コバルトブルーの絵画。
白磁に青の絵付けが施された陶磁器。
そして中央には、深海を切り取ったような青いソファ。
光の角度によって、深海の底にも、夜明け前の空にも見える。
まるで"これがこの世界の青"としか言いようのない色だった。
青が、部屋そのものを静かに呼吸させているようだった。
そして窓際。
逆光の中に、漆黒を纏った"縦長の物体"。
……黒?
「どうぞ、こちらへ」
アークオーエンさんに促され、私はソファに腰を下ろす。
同時に、窓際の"黒い物体"が動いた。
1人の人物が、私の正面に座る。
私は、その人物から目を離せなかった。
「では、紹介します。彼はエィキ=ソヤです」
その発音が、私の脳内で1つの名前に変換される。
背筋に氷柱が走り、肺が呼吸を忘れた。
心臓が"間違ったリズム"を刻む。
視線を合わせた瞬間、ビクリと肩を揺らしてしまう。
あの時の記憶が、反射のように脳裏へ蘇る。
「……宗谷 英規だ」
ひ、と喉の奥で悲鳴が潰れた。
宗谷英規の眉が、ほんのわずかに動いた。
それだけで、冷や汗がじわりとにじむ。
間違いない。
あの氷の彫刻のような顔。
宗谷英規。
SOYA Air.inc 執行役員責任者。
COO兼CIO。
業界の"怪物"。
1年ほど前、アメリカの経済誌『TIME』の特集で彼の写真が載った時、うちの会社のミーハーな社員たちは"奇跡のイケメン"だのと大騒ぎしていた。
だが今や、我が社で彼の名前を出す者は1人もいない。
我が社がSOYAの機嫌を致命的に修復不可能になるほど損ねたからだ。
土下座寸前の謝罪行脚。
なぜか部外者の私まで駆り出された。
……"弾除け要員"として。
SOYA本社。
静謐な役員室。
そこで待ち受けていた彼の眼差しは、まさに"絶対零度"だった。
数々の修羅場を潜り抜けてきた強面で知られる我が社の部長が、彼のたった2つの視線で顔を蒼白にし、子供のように震えていたのを今でも鮮明に覚えている。
「で、こちらが……」
あっ、クソっ、やめてくれ!
怖いのは顔じゃない。
覚えられることでもなく、こ──
「レイ=タダノ=オカシズキー=ド=ジャポン様です」
のふざけきった偽名だ!
あぁ……
私の心情などアークオーエンさんが解るはずもなく、その"宝石みたいな"美声でにこやかに宗谷英規に紹介していた。
やめて……
胃がキリキリ痛む。
顔の火照りが耳までせり上がる。
なぜこんな名前を名乗ったのか……
脳が一瞬フリーズし、思考が砂のように指の間からこぼれ落ちていく。
逃げたい。
今すぐ、窓からでもっ。
思わず逃走経路を確認するほどには冷静さにかけていた。
あの時、あんな名前を名乗った理由は単純。
"貴族っぽい長さ"に合わせないと即排除されると思ったからだ。
本名を名乗る勇気はなかった。
その結果がこれだ。
少しでもこの世界に馴染むために必死に捻り出した"長さ"が、今、最大級の牙となって私を襲っている。
恐る恐る宗谷英規を見る。
あちゃー。
"なんだこの名前のやつは"という顔。
だが怯んでいる場合じゃない。
こんな無茶ぶり、人生で数回はあった。
なら今回も乗り切れる。
ノリで乗り切るんだ。
社会人フル装備で挑む。
営業スマイル。
名刺。
おじぎ。
これ大切。
「……はじめまして、宗谷さん。多田琉生と申します」
完璧な営業スマイルを顔の筋肉を総動員して貼り付け、名刺を差し出す。
差し出された私の名刺。
宗谷英規は、それをすぐには受け取らなかった。
「…………」
静寂。
異世界の豪華な空気の中で、日本の安っぽい上質紙だけが、私の指先で微かに震えている。
宗谷英規の鋭い視線が、名刺に印字された我が社のロゴと、私の顔を交互に射抜いた。
ひっ……!
心臓が跳ねる。
やっぱり、あの謝罪行脚の時の失態を思い出している?
それとも、この場で"偽名"を問い質す?
私が冷や汗を流し、逃げ出したい衝動を必死で抑え込んでいた──
その時。
宗谷英規の瞳の奥に宿っていた絶対零度の光が、ほんのわずかに、事務的な輝きへと変質した。
「ああ」
宗谷英規は怪訝な顔で名刺を受け取り、自分の名刺を差し出してきた。
豪華絢爛な異世界の部屋で、スーツ姿の2人が名刺交換する。
なんだかシュールだ。
アークオーエンさんは珍しい儀式を見るように身を乗り出していた。
"名刺交換"という文化は、この世界には存在しないのだろう。
「あ、どうもありがとうございます」
名刺を名刺入れの上に置き、私はアークオーエンさんへ向き直る。
宗谷英規の視線が痛い。
"多田琉生"と"オカシズキー"を照らし合わせているのが判る。
分かってる。
その視線の意味は、名前のことだ。
あるいは、あの謝罪の時の"端っこにいた空気みたいなやつ"だと気づいたのかもしれない。
いや、まさかな……
これ以上この茶番を続けるのはメンタル的に無理。
喉が乾いているのに、声は震えなかった。
覚悟を決めた瞬間だけ、人は妙に落ち着くものだ。
心臓の音が徐々に遠ざかっていった。
やがて空気が一瞬だけ止まったように感じる。
しかしそのなかにあっても、宗谷英規の視線が、逃げ道を塞ぐように重くのしかかってきた。
「……あー、アークオーエン様。実は、お話ししておきたい事実がございます。先ほど名乗った名は……」
私は、この居た堪れない状況を終わらせるため、本当のことを話す決意を固めた。




