13.
昔々、あるところに浦島という男がいた。
亀を助けた恩返しに竜宮城へ招かれる……
という美談は、現実というフィルターを通せば少々形を変える。
いじめられている亀を前に、寄ってたかって悪さをしていた子供たちへ1時間も理詰めの説教を垂れる男。
延々と続くその説法に辟易した亀が、見かねて「にーさん、いい場所へ連れて行くからその子らを解放してやってくれ」と、亀がある種の取引を持ち出したのが事の始まりだ。
結局、喋る亀など気味が悪いと放置して漁に出た浦島だったが、不運にも大時化に遭い、死にかけたところをその亀に救われる。
辿り着いた竜宮城という名の異界で、彼は城主の娘と結ばれ、夢のような時を過ごした。
だが、ふと故郷の両親を思い出し、帰還を願う。
しかし、辿り着いた地上に彼の知る景色はなかった。
自分の家があった場所には、代わりに1つの墓碑が建っていた。
「水江浦嶼子 三十五」
35歳で死んだとされる、自分自身の記録。
かつての穏やかな砂浜には、空を突き刺すような鋼鉄の塔が立ち並び、道には馬もいないのに唸り声を上げて走る鉄の箱が溢れている。
夜になれば太陽のように明るい光が街を覆い、人々の装いも言葉も、彼が知るものとは似ても似つかない。
嘆き、絶望した彼が、土産の玉手箱を墓碑に叩きつけた瞬間、時間は残酷な牙を剥き、彼は一瞬にして朽ち果て、骨となった。
この物語が示唆するのは、異界へ足を踏み入れ、"ズレ"を生じさせた者の末路だ。
そして今、私はまさにその"浦島"の心境で、青一色の部屋に座っていた。
◇
「……あー、アークオーエン様。実は、お話ししておきたい事実がございます」
正面に座る宗谷英規からの視線が、物理的な圧力となって私の皮膚を刺す。
痛い。
とにかく、痛い。
そんな眼差しで見ないでくれ。
ちゃんと、順を追って説明するから。
「何でしょう?」
アークオーエンさんが、慈愛に満ちた微笑みを向けてくる。
……ぐっ
私は軽く咳払いをして、背筋を伸ばした。
日本の組織で揉まれてきた人間としての、意地と礼節を優先すべき時だ。
眩しくても耐える。
「もうお判りかと思いますが、先ほどお伝えした『レイ=タダノ=オカシズキー=ド=ジャポン』という名は偽名です。私の本当の名は、多田琉生と申します。こちら風に言えば、ルイ=タダとなりますね。……突然の事態で状況が把握できず、自らの身の安全を確保するために、やむを得ず、本当にやむを得ず偽名を名乗りました。……深く、お詫び申し上げます」
私はソファに深く腰掛けたままではあるが、丁寧に、けれど迅速に頭を下げた。
嘘を吐いていたことへの謝罪。
そして、あの馬鹿げた偽名を、よりによって同郷の、それも因縁ありありな人物の前で晒し続けた自分への、戒めでもある。
「頭をお上げください、タダ様。先ほども申しました通り、貴方に関する疑いは既に晴れています。もし容疑者のままであれば偽名は大きな問題となったでしょうが、今、貴方は自らの意思で真実を明かしてくれた。それで十分だと、私は思っています」
アークオーエンさんがニコリと、またしても眩しすぎる微笑みを浮かべる。
その包容力ですら計算のうちかと思ってしまう、自分の汚れた心が恨めしい。
だが、その言葉に嘘はないようだった。
「そうおっしゃっていただけると、助かります」
私はようやく肺の中の重苦しい空気を吐き出し、少しだけ表情を緩めた。
だが、ここからが本番だ。
私は、今の自分の立ち位置を確認するために問いを投げた。
「えーと、早速で申し訳ありませんが、いくつかお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。まずは貴方の疑問を解消しましょう。私が補足する形で話を進めて参ります」
そこから始まった対話で、驚くべき事実が次々と明らかになった。
まとめると、事の端緒はこうだ。
宗谷英規と私は、何らかの法則によって同時にこの世界へ弾き飛ばされた。
だが、その後の扱いは、天と地、あるいは神とク……
コホン、不浄の物ほどの差があった。
宗谷英規は、こちらの世界には存在しない"高度な文明の産物"──スマートフォンや精密な腕時計、そして質の良いスーツ──を持っていたことから、速やかに国に保護された。
完全なる"VIP待遇"だ。
一方、私はといえば……
森の中で不審者として行き倒れていたところを、通りがかったローアム隊長らに発見され、あえなく御用。
……"御用"だ。
不法侵入罪とスパイ容疑という、ありがたくない肩書きを背負わされ、あの薄暗い牢屋塔で一晩を過ごす羽目になったのだ。
この格差、泣けてくるのを通り越して、もはや乾いた笑いしか出ない。
ハハ
その間、宗谷英規は周辺で発見された荷物の確認作業に立ち会っていた。
その中に私の荷物が混じっていたことに気づき、さらに中に入っていた身分証明書に載っている人物──
つまり私が、この世界に来ている可能性をアークオーエンさんに指摘したのだという。
そこから捜索が行われたものの、私は見つからず。
そこで浮上したのが、隊長らが報告していた"奇妙な装いの不審な人物"だった。
該当はするが、まだ疑いが完全に晴れたわけではない。
そのため、面会は今朝まで持ち越され、捜索は一旦打ち切られたのだという。
そして今、この『藍の間』での対面に至ったわけだ。
「この国が、異界からの訪問者に対してこれほど寛容なのは、前例があるからです」
アークオーエンさんが言葉を切り、壁に掛けられた1枚の大きな絵画を指差した。
そこには、凛々しい顔立ちの人物が描かれていた。
よく見れば、彫りの深いこの世界の人間とは異なり、どこか親しみのある東洋的な顔立ち……
日本人にしか見えない人物だ。
「その方の名は、ソラ=ソヤ」
私は耳を疑った。
宗谷奏楽。
SOYAAirの創設者にして、伝説の経営者。
35歳の時、文字通り煙のように忽然と姿を消し、日本の経済界に衝撃を与えた人物。
……そして、目の前に座る宗谷英規の、祖父。
ははは、なるほど。
原因はお前か、お前の家系の遺伝子か。
暗い気持ちで正面の宗谷英規を眺めると、彼は困ったような苦笑いを浮かべていた。
一族揃って、世代を跨いで異界へ飛ぶなど、一体どんな確率だ。
天文学的な不運か、それとも呪いか。
私は溜息を堪え、最も重要な、けれど最も聞くのが怖いことを聞いた。
「……元の世界へ、帰る手段はあるのでしょうか?」
その問いに、アークオーエンさんは静かに、けれど明確に首を横に振った。
答えは、否。
宗谷奏楽自身も、この地で70歳を迎えるまで、生涯をここで過ごしたのだという。
彼の遺言には
「もし後世に異界からの訪問者が現れたら、せめて人道的な待遇をしてやってほしい」
という旨が記されていたらしい。
400年前の彼は、相当に酷い扱いを受けたのかもしれない。
「……400年?」
私はその言葉に引っかかった。
宗谷奏楽が日本で失踪したのは、せいぜい数十年前の話のはずだ。
なのに、この世界では400年の歳月が流れている?
この時間の乖離。
頭の中に、断片的な知識の残滓が浮かび上がる。
特殊相対性理論。
光速に近い移動、あるいは強力な重力場における時間の遅れ。
移動する側の時間と、静止している側の時間の差。
だが、400年というのはあまりに長すぎないか?
もし、今この瞬間に地球へ戻れたとしても、そこは私が知っている"現在"とは限らない。
これこそが、あの浦島太郎が味わった絶望──
"ウラシマ効果"というやつか。
ん?
あれ?
いや、それでもおかしくないか?
やめよ、これは私が知る昔話やらちょっとした知識を頼りにした推測でしかない。
実際に何年ぶんズレているのかなど、今の段階では知りようもないのだ。
私は、極めて現実的かつ楽観的に、今の状況を分析してみることにした。
仮に、奇跡的に地球へ帰れる方法が見つかったと仮定して、2つの状況を想定する。
【状況1:数百年後の未来へ帰還した場合】
地球温暖化が進み、日本列島は海面下へ。
戻った瞬間、かつての東京湾があった場所で溺死するか、あるいは激変した大気成分による中毒で即死。
ハハッ
【状況2:あの時、あの場所へ帰還した場合】
会社帰りの、何の変哲もない国道。
あの落雷と衝撃に晒された瞬間の路上。
戻った瞬間、身体は物理的な衝撃によって損壊し、事故死が確定する。
うわぁ……
どう考えても、地球に帰って"生き延びる"未来が見当たらない。
そう結論づけた私の心は、驚くほど冷ややかに、そして静かに凪いでいた。
てか、数日で戻れるならいいけど数年後とかに戻って生き延びたほうが地獄では!?
膨らんだローン未払い分の支払いと、電気の止まった冷蔵庫の中身の処分とGの住処とかした我が家の掃除……
やだぁ……
あぁ
ならば、この"浦島"に残された道は、この竜宮城で骨を埋める覚悟を決めることだけではないのか。
私の埒のあかない思考を遮るように、正面の宗谷英規が、ゆっくりと口を開いた。




