5話-④ 立場
雨粒が窓ガラスを滴り落ちていく。
外にいると感傷に浸るほど悲哀に満ちているのに、家の中から見る雨はどうしてこんな幻想的なのだろうか。
もしも雨に打たれながら陽気に踊る輩がいたら、それはきっと何かに浮かれているか、心が壊れたかのどちらかだ。
「ベルアさんは案外方向音痴なんですねぇ」
軽やかな声が現実に引き戻す。
ネユさんがそう言いながら、ふんわりとタオルを渡してくる。
結局、僕にはネユさんの家に帰る以外の選択肢はなかった。雨に打たれた後、とぼとぼと帰路についたのだ。
「はぁ」
僕はネユさんからタオルを受け取り、びしょ濡れの身体を拭く。
水を汲みに行った時も含めて、この森に迷ったのは2回目だ。今回は迷ったわけではないが、もう否定する気も起きなかった。
迷った、と言ってもネユさんには何の疑念も持たれなかった。変に勘繰られるよりはよっぽどいい。
「アジトに痕跡がなかったとなると、お兄さんを探す手掛かりは無くなってしまいましたね」
「そう、ですね」
身体から滴り落ちる水がなくなったことを確認して、廊下を進む。
リビングの席に座ると、ネユさんが紅茶を淹れてくれる。湯気がたっていて、温かい。
「そういえば今朝話し忘れたことがあるんですよ」
一息ついていると、ネユさんは対面の席に腰を下ろした。
まだ話していないことがあったのか。
そういえば今朝もスゥスに遮られて、そのままになっていたことを思い出した。
「何でしょう?」
僕は遠慮がちにネユさんを一瞥する。ネユさんは僕の釈然としない様子を汲むことなく、涼しい顔をして告げてきた。
「憲兵になりませんか?」
「……け、憲兵!?」
思わず顔を上げてネユさんの方を見ると、何でもないかのように微笑している。
「ど、どういうことですか?」
僕の声は少し震えていた。
「『ヴェデリア』討伐の功績が認められたわけです。本来は訓練を受けなければなりませんが、特例で良いという判断が下りました。もともと私の護衛はスゥス1人で手薄でしたのでうってつけかと思いまして」
「いや、そういうことじゃなくて……」
僕が聞きたいのはそういうことじゃない。強くなりそうな語気を呑み込んで、冷静に話そうと努める。
「ゲヌスは憲兵にはなれませんよね?」
「ええ、現状はそうですね」
「ゃあ、僕がゲヌスだということを隠して、魔導士として憲兵になる。そういうことですか?」
「はい。体裁上、表向きには憲兵の登録名簿が1人増えるだけです。ですが、ゲヌス初の憲兵というのも事実です」
「……」
「これはあくまで提案です。断ってもらっても構いません」
「どうして、そんな話を?」
頭がフリーズしたまま、かろうじて声を絞り出す。
「適任だと思ったからです。善良で他者のために行動ができます。それに活躍次第では両種族の架け橋になれるかもしれません。今は表立って言えませんが、それが公表できれば、種族間の関係はより良くなると思っていますよ」
「僕は善良なんかじゃ……」
頭の上から何かがグッとのしかかってくる。それは見えない重圧のようで、僕の身体を硬直させ、身動きを封じ込めていく。
「えっと、ひとつ聞いてもいいですか?」
「もちろん」
僕は冷たい空気を吸う。そして蚊の鳴くような声で呟く。
「僕はゲヌスでしょうか、魔導士でしょうか……」
まるで深淵に身を投げ込んだような感覚だった。後戻りできない、ふわりと宙に浮いた感覚。
「あえて言うならどちらでもありません。ベルアさんはベルアさんです。種族によって生き方や考え方に固執する必要は無いと思いますよ」
僕の心情とは裏腹に、ネユさんはやけにあっさりとそう言った。
「……少し、考えさせてください」
僕は紅茶を残したまま、踵を返して部屋を出た。
もう頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。兄さんの話も、ネユさんの話も、すぐに答えを出せるほど、僕の頭は優秀じゃない。
そのままベッドに倒れ込むように身を預けて、泥のように眠った。
雨上がりの森は緑の葉が艶やかで、光が差すと大気が煌めいた。
ネユさんの家に住み始めてから、僕は初めてネユさんよりも早く起床した。ネユさんが部屋に篭もりっぱなしだから起きているかもしれないけれど、いずれにせよ、朝食を作り始めるよりも前に起床したことは間違いない。
僕は気の向くままに外に出て、森を散策することにした。
ネユさんと顔を合わせたくない、というのも本音かもしれない。
答えが出ていないのに、何を話していいのか判らなかった。ネユさんはそんなことを気にするとは思えないけれど。
歩みを進めていると、目の前に僕と同じくらいの大きさの岩が現れた。苔に覆われていて、何百年も前からずっとこの場所にあったかのような佇まいをしている。
僕は岩の周辺を確かめてから、それを両手で持ち上げる。岩に付着していた苔がボロボロと崩れ落ちる。
「……重いな」
大体2トン近くあるだろうか。
僕は何の気無しに頭上で岩を上下に動かしてみた。トレーニングというほどでもないけれど、体を動かすと混乱している思考が落ち着く。
走ったりするのもいいけれど、今日は立ち止まって考えたい気分だ。
それに、最近の戦いで自分の力不足を痛感していた。特にパワー勝負では負け続きだった。ドラゴンや人体実験を受けたゲヌスが相手なのだから、仕方がないと言えばそれまでだが、鍛えないと置いていかれるばかりだ。
それにしても、憲兵か。
憧れるどころか、そんなものを目指す想像すらしたことがなかった。あまりにも遠い世界の話だ。
ネユさんが話してくれた未来を実現できるなら、素晴らしいことだと思う。それほど簡単なことではないはずだ。兄さんが言うように、両種族間の溝は底が見えないほどに深い。
僕が憲兵になったくらいで、それが改善されるとは思えない。どれほど時間がかかるか分からないし、実現しない可能性は大いにある。だからといって、大勢を犠牲にする兄さんのやり方には賛成できない……。
僕は岩を頭上で持ち上げながら、そんなことを延々と考えていた。
「なんだかが珍妙なことをしていますね」
突然声をかけられて、思わず岩を落としそうになる。
「え、スゥス?」
振り返ると、茂みの中からスゥスが顔を覗かせていた。相変わらず無表情で、手元ではナイフをくるくると回している。
「どうしてこんなところに?」
僕の問いに、スゥスは少し肩をすくめて答える。
「こっちのセリフです。危うく不審者として制圧するところでしたよ」
「たしかに……」
護衛対象の家の近くで、頭上に岩を掲げている人間なんて、不審者以外の何者でもない。
「憲兵の件はネユから聞きましたよ」
「あぁ、うん」
「悩んでいるんですか?」
スゥスが問いかける声は、いつもより少し柔らかい気がした。
「……そうだね。いきなり言われても、すぐには決めれないから」
僕は何となく視線を逸らす。スゥスと顔を合わせるのが、どうしても気まずかった。
するとスゥスは顔色を窺うかのようにじっと僕を見つめながら、ゆっくりと近づいてくる。
「あの、間違っていたらすいません。アジトの調査の時にお兄さんと会ったんですか?」
スゥスの突然の問いに、心臓が一瞬止まるかと思った。
「……えっ!?」
「もしくはお兄さんの行方が判るものを発見したとかしましたか?」
ここまで確信めいた言い方をされると、逃れようがない。僕は堪らず、顔を上げる。
「どうして、分かったの……?」
「ベルアさんが深刻に悩んでいるのが珍しいので」
「あぁ、そういうことね」
なんかサラリと侮辱された気がする。普段はあまり考えてないように見えるのだろうか。
「ベルアさんって結構表情に出やすいですよね」
「そ、そうかな?」
焦りながら答えると、スゥスは軽く頷く。
「ええ。ずっと様子がおかしかったので、想像できる範囲で聞いてみたまでです」
スゥスは何てことないように無表情のまま、そう言った。
少し間を置いて、僕は思い切って口を開いた。
「ねぇ、スゥス」
「なんでしょう?」
「スゥスはどうして憲兵になったの?」
僕の問いかけに、スゥスの表情が少し強張った。何かまずいことを聞いてしまっただろうか。
スゥスはしばらく口を閉ざしていたが、やがて静かに話し始めた。
「……ロッシュを捕らえた際に、奴がほざいていました。魔導士の子は稀に魔力を持たないゲヌスが生まれることがある、と」
「あぁ、そんなこと言ってたような……」
苦し紛れの断末魔のような感じだったから、気にかけることなくその場では考えてなかったけれど。
「私の姉はゲヌスとして生まれました」
スゥスの瞳には微かに揺れるものがあった。無表情ではあるが、それは普段の彼女からは想像もつかないものだった。
「姉は魔導士の子として生まれたながら、魔力を一切持っていませんでした」
スゥスの言葉の一つ一つが重苦しく感じられる。
「姉はその存在を隠匿するように育てられました。広い屋敷なのに、薄暗い屋根裏部屋で閉じ込められていました。私は姉と遊ぶために、親の目を盗んでよく屋根裏部屋に足を運んでいました。幼い私には姉がどういう立場かなんて想像はできませんでした。今思えば、姉は悟られないように辛い顔を一度も見せずに私を笑顔にしてくれていました。それが本当に救いでした」
スゥスはまるで文章に余白を設けるように、少しだけ間を置いた。
「だけど私が成長して魔導士としての素質が発覚した後、姉は親に殺されました」
「……っ!?」
スゥスの言葉の意味を理解するのに、数秒を要した。
「そ、そんなことが……あるのか!?」
「子どもにとっては差別なんて関係ありません。大好きだった姉を……実の親が、ゲヌスという理由だけで手にかけたんです」
僕は言葉を失って、スゥスを見つめることしかできなかった。
恐ろしい話だが、頭の中に情景が浮かんでしまう。奴隷のように扱われるゲヌスが、魔導士の子として生まれたらどうなるのか――。
普通のゲヌスよりも酷い扱いを受けることだろう。たとえ我が子であっても殺してしまうほどに、ゲヌスは忌み嫌われるのだ。
魔導士なら、それくらいのことはする。
「そういうわけで私は魔導士もこの国も嫌いなんですよ。憲兵を名乗っていますが、立場を利用するためであって、特に国への忠誠を誓った身でもありません」
スゥスが少し口角を上げて、皮肉めいた笑みを浮かべる。その表情に、彼女が抱える冷徹な覚悟が滲み出ていた。
それなら尚更、どうして憲兵なんかになったのだろう。兄さんと同じように復讐に囚われて、過激な行動を起こしてもおかしくない。
それに彼女の実力があれば、国家の重要人物を暗殺することすら容易だろう。
僕が不思議そうな顔をしているのを見て察したのか、スゥスはすぐに話し出す。
「その時、ちょうど顔見知りだったネユに言われました。たとえ国王や宰相を殺しても新たな魔導士がその座に着くだけ。残るのは自分の悪名。それなら未来を変えてしまったほうが楽だ、と
淡々と語るその言葉には、ある種の清々しさすら漂っていた。
「これが私が魔導士になった理由です。納得しました?」
「……うん」
僕は遠慮がちに頷いた。
聞いてよかったことなのだろうか。あまり気軽に聞くべきではなかったかもしれない。
「ベルアさんもそれなりに付き合ってきたからわかると思いますが、あの人は人の気持ちも考えずにズケズケと言いたいことだけ言うんですよ。それに馬鹿なのでベルアさんとお兄さんが会っていることも気づいてないと思います」
スゥスはタガが外れたかのように饒舌になる。この場にいないのに、ひどい言われようだ。否定できないけど。
「とにかく憲兵になったからと言って、国に尽くす必要もないし、ゲヌスを抑圧する必要もありません。もしベルアさんが実現したい未来があるなら、立場を利用してうまく立ち回ればいいのです、とネユは言いたかったのだと思いますよ。お兄さんのことも、気が向いた時に話せばいいんです」
スゥスはそう言い切ると、どこか満足したような表情で小さく息をついた。
だけどそれを聞いて、なぜだか全身が痺れるような身震いがした。何か突き抜けた感覚というか、目の前が晴れたような気がした。
「ありがとう、スゥス」
胸の奥で何かが固まった気がして、僕はぽつりとそう呟いた。




