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七話 無力な反撃

「グオオオッ!」


森全体を震わせるような咆哮とともに、イレギュラー・ベアーズが前脚を振り下ろした。

巨体から繰り出される一撃は、まるで巨大な鉄槌だった。




ロストは反射的に横へ飛び退き、それをかわす。

紙一重だった。

直後、地面が轟音を立てて砕け散った。


土が大きく跳ね上がり、地面に積もっていた赤い木の葉が渦を巻くように舞い上がる。


「くっ……!」


巻き起こった風圧だけで身体がよろめいた。

ロストは踏ん張りながら、剣を握り直す。

しかし、手に力が入らない。

剣を握る手が小刻みに震えていた。

まともに受ければ、腕が折れる。


いや――腕ごと潰される。

そう考えた瞬間、背中を冷たいものが走った。


ロストは距離を取り、荒い呼吸を整えながら熊の動きを観察する。

二つの頭は、それぞれ別の方向を警戒している。

右の頭が正面を向いている間、左の頭は横へと視線を動かしていた。


互いに死角を補うように動いている。


「こいつ……視野が広い」


ロストは奥歯を噛み締めた。


死角がほとんどない。


通常の魔物なら、視線の外へ回り込むことで隙を作れるかもしれない。

だが、この相手にはそれが通用しにくい。

一つの頭を欺いても、もう一つの頭がこちらを捉える。


それでも――。

ロストは目を凝らした。

諦めるつもりはなかった。

どれだけ強大な相手でも、どこかに突破口があるはずだ。


これまで何度もそうしてきた。

自分より強い相手を前にしても、観察し、考え、工夫する。

それだけが、ロストに残された戦い方だった。


そのときだった。

熊の身体が大きく沈み込んだ。


「……!」


来る。

ロストが身構えた次の瞬間――。

熊が地面を蹴った。


「速い……!」


巨体からは想像もつかない速度だった。

一直線に迫ってくる熊を前に、ロストはとっさに近くの木へ向かって走る。

そして、木の陰へ飛び込んだ。


次の瞬間――。


ドゴォンッ!


凄まじい衝撃音が森に響いた。

熊の巨体が木に激突したのだ。

太い幹が大きく揺れ、上空から大量の葉が落ちてくる。

何本もの細い枝が折れ、地面へと散らばった。


「今だ!」


一瞬だけ、熊の視界からロストの姿が消えた。

ロストはその隙を逃さなかった。

木の陰から飛び出し、熊の側面を駆け抜ける。

そのまま後脚へと回り込んだ。


「これなら……!」


ここなら二つの頭からも見えにくい。

ロストは残された力をすべて腕へ込め、剣を振り下ろした。


――ガキィンッ!


しかし。


「なっ……!」


剣は分厚い毛皮に食い込むことなく、弾かれた。

腕に強烈な痺れが走る。

熊の毛皮は、まるで鎧のように硬かった。


「くそっ……!」


ロストが剣を引き戻すより早く、熊が身体をひねった。

二つの頭が同時にロストを捉える。


しまった。

次の瞬間、巨大な前脚が迫った。


ロストはとっさに身体を後ろへ投げ出す。

だが、完全には避けきれなかった。


ドンッ!


「ぐあっ!」


巨大な前脚が肩をかすめた。

それだけだった。


それだけだったはずなのに、ロストの身体はまるで木の葉のように横へ吹き飛ばされた。

地面を何度も転がり、ようやく止まる。


「がっ……!」


肺から空気が一気に吐き出された。

肩から熱いものが流れている。

視線を向けると、服が裂け、その下から血が滲んでいた。


「はっ……はっ……!」


呼吸が乱れる。

身体を起こそうとすると、肩に鋭い痛みが走った。


「ぐっ……!」


思わず顔をしかめる。

指先まで痺れている。

視界が揺れていた。

それでも、ロストは熊から目を離さなかった。


熊はゆっくりとこちらへ歩いてくる。

一歩。また一歩。


その足音が地面を伝わり、身体の奥へ響いてくる。

逃げなければ。

頭では分かっていた。


しかし――。


「……まだだ」


ロストは震える腕で地面を押した。

身体を起こす。

そして、ふらつきながら立ち上がった。


「まだ……終わってない」


逃げるわけにはいかない。

二人はまだ、逃げ切っていない。

ここで自分が倒されれば、熊は再び二人を追いかけるかもしれない。


そうなれば、二人を守ることができない。


まだ、ここで倒れるわけにはいかなかった。


ロストは周囲を見渡す。

熊の視線が地面に落ちた石を捉えた。


「……こっちだ!」


ロストは石を拾い上げると、熊の顔へ向かって力いっぱい投げつけた。

石は片方の頭へ命中し、乾いた音を立てて弾かれる。


「グルル……」


熊の二つの頭が同時にロストへ向いた。

次第にその目が怒りに染まっていく。


「グオオオオオッ!」


「よし……!」


わずかでも、注意を引けた。

それだけでいい。

ロストは再び構えた。


熊が低く身を沈める。

次の攻撃が来る。


ロストは呼吸を整え、足元へ意識を集中させた。

熊が突進する。

その巨体が迫ってくる。


ロストはギリギリまで引きつけ――。


「……今!」


直前で横へ跳んだ。

熊が目の前を通り過ぎていく。

ロストはすれ違いざまに剣を振った。


だが、やはり深くは届かない。

それでも構わなかった。


熊の攻撃を避ける。

すれ違いざまに攻撃する。

そして、再び距離を取る。


その動きを何度も繰り返した。

一度でも判断を誤れば終わりだ。

次に攻撃を受ければ、立ち上がれない。


分かっている。

だからこそ、ロストは一瞬たりとも気を抜かなかった。


「はぁっ……!」


身体が悲鳴を上げる。

腕が重い。

それでも動く。


熊の攻撃を避け、剣で切りつけ、時には大声を上げて注意を引く。


攻撃は、ほとんど通じていない。

傷を負わせることすら難しい。


ましてや、相手を倒すことなど到底できない。


それでも――。


熊が木をなぎ倒す。

土煙が舞う。

折れた枝が頭上から降り注ぐ。


そのすべてを紙一重でかわしながら、ロストは必死に時間を稼いでいた。


「……もう少し」


荒い息が漏れる。


喉が焼けるように熱い。


視界の端が暗くなってきている。


それでもロストは足を止めなかった。


「……もう少しだけ……」


二人が逃げ切るまで。


それだけを考え、必死に立ち向かい続けた。


—————————


一体、どのくらいの時間が経ったのだろう。


ロストには、もう時間の感覚すらなかった。


何度攻撃を避けたのか。

何度剣を振ったのか。

何度、死ぬかもしれないと思ったのか。


そのすべてが分からなくなっていた。

ただ、身体だけが限界に近づいていることだけは分かる。

腕は重く、脚は鉛のようだった。


呼吸をするたびに胸が痛む。

それでも、ロストは剣を握り続けていた。


そして――。


一瞬。

ほんの一瞬だけ、判断が遅れた。


熊の一撃が迫る。

避けようと身体を動かした。

だが、間に合わない。


ドゴッ!


「がっ……!」


巨大な前脚がロストの脇腹を捉えた。

凄まじい衝撃が身体を貫く。

ロストの身体が宙を舞った。

視界がぐるりと回る。

木々が流れていく。


そして――。


ドサッ!


地面へ叩きつけられた。


「……っ」


痛みで息ができない。

身体の内側がぐちゃぐちゃになったような感覚だった。


指先に力を込めようとする。

だが、動かない。


視界が暗くなっていく。


「……まだ……」


起き上がらなければ。

そう思っているのに、身体が言うことを聞かなかった。

やがて、地面を踏みしめる重い足音が近づいてくる。


「……」


ロストはゆっくりと顔を上げた。

二つの頭が、倒れた少年を見下ろしている。

巨大な影が、ロストの視界を覆い尽くしていた。

逃げなければ。


分かっている。


けれど、身体はもう動かなかった。

少し先に飛ばされた剣が見える。

手を伸ばす。


あと少し。


指先を伸ばす。


しかし――届かない。


「……くそ……」


悔しさに歯を食いしばる。

これまで積み重ねてきた努力さえ、目の前の怪物には通じない。

それでも。


「……まだ、だ……」


声は震えていた。


「まだ……戦える……」


立ち上がろうとする。

腕に力を込める。

しかし、身体は意思に反してわずかに震えるだけだった。


「……くっ……」


何度試しても、身体は起き上がらない。

熊がゆっくりと前脚を持ち上げる。


巨大な影が、さらに大きくなる。

ロストは顔を上げた。

避けられない。

受け止められない。


もう、動く力が残っていなかった。

その瞬間、ロストの脳裏に二人の姿が浮かんだ。


「……二人は、逃げきれただろうか」


誰に向けた言葉なのか。

自分でも分からなかった。

ただ、それだけが気になっていた。


「もう少しだけ……時間を……」


その言葉が森の中へ消える。

熊の前脚が、ゆっくりと振り下ろされる。


逃げることもできない。

迫りくる死を、見つめることができずに目を閉じる。


――その瞬間。


ドォンッ!


森の中に、激しい衝撃音が響いた。


ロストの目の前で、熊の前脚が弾かれた。

振り下ろされたはずの一撃が、何かに阻まれたのだ。

熊の巨体がわずかに後退する。


ロストの瞳が大きく見開かれた。

何が起きたのか理解できない。


ただ一つ。

自分を覆っていた死の気配が、一瞬で消えていた。


そして目の前には見知らぬ男。


「――遅い」


冷たい声が、静まり返った森に響いた。

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