五話 真紅の森
課外活動当日。
生徒たちは、それぞれ装備を整え、腰には武器を携えている。
剣を持つ者。
杖を持つ者。
防具を身につける者。
中には、今回の活動を楽しみにしていたのか、緊張感よりも遠足に近い浮ついた雰囲気を見せている者もいた。
しかし、その一方で、初めて本格的な森林探索に参加する生徒たちは、周囲を見回しながら落ち着かない様子を見せていた。
一般的な訓練場とは違い、実際に魔物が生息する場所である。
教師たちも普段以上に周囲へ目を配り、生徒たちの装備や人数を確認していた。
その中でも一際よく通る声が、整列した生徒たちの間を走り抜ける。
「全員、班ごとに整列しろ!」
教師であるエヴァンス・ライガの声が響く。
その声を合図に、生徒たちはそれぞれ指定された場所へ移動していく。
ロストもまた、自分の班の列へと向かった。
今回の活動では、三人一組で森林内を探索し、指定された魔物を討伐することになっていた。
単なる座学ではない。
実際の森林に入り、魔物の痕跡を探し、発見した対象を討伐する。
もちろん、危険が発生した場合には教師が介入することになっている。
それでも生徒たち自身が判断し、行動することが求められていた。
班分けの結果、ロストはクリス、そしてルルー・マージュと同じ班になった。
ロストにとっては、二人とも普段から顔を合わせる相手だった。
ルルーは風の異能を持つ少女だった。
彼女の能力は、風の魔力を集中させることで、常人では追いつけない速度で移動するというものだった。
単純な速度だけなら、学園の生徒の中でもかなり優れた部類に入る。
そのため、探索や偵察では非常に高い適性を持っていた。
そんなルルーは、二人の姿を見つけると、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。
エメラルド色のショートヘアーが朝の風に揺れている。
髪には小さなかわいらしい髪留めがつけられており、緊張した空気の中でも彼女だけはどこか明るい雰囲気をまとっていた。
愉快そうな笑顔を浮かべながら、二人へ軽く手を振る。
「よろしくね、二人とも」
ルルーは軽く手を振った。
クリスは丁寧に頭を下げる。
「うん!よろしくお願いします!」
ロストは二人の装備を確認した。
クリスはいつものように水の魔力を扱いやすい装備を整えている。
ルルーも動きやすさを重視した軽装だった。
森の中を走り回ることを考えれば、余計な重量を身につけないのは合理的だ。
「よろしく。ルルーは森での活動に慣れているのか?」
ロストが尋ねると、ルルーは少し考えるように視線を上へ向けた。
彼女はこれまでにも何度か森へ入った経験があるらしい。
ただし、今回向かうのは通常の森林探索よりも深い場所だった。
森が深くなればなるほど、遭遇する魔物の種類も変わる。
それだけではない。
植物や地形そのものにも危険が潜んでいる。
「何度か入ったことはあるよ。でも、そんなに魔物が出るほど深いところまでは行ったことなくてね。まあ、あたしのスピードなら、危なくなっても魔物くらいなら逃げられるしさ」
ルルーは自信ありげに笑った。
その言葉に、ロストは少しだけ眉を寄せる。
速度に自信があること自体は悪くない。
むしろ、彼女の能力を考えれば当然のことだった。
しかし、森の中では単純な速度だけでは判断できない危険がある。
木々。段差。ぬかるんだ地面。視界を遮る植物。
そして、魔物の種類によっては、速度以外の能力を持っている可能性もある。
ロストは周囲を一度見回した。
「油断できない。気を引き締めていこう」
「えー? ロストに言われると、なんだか説得力があるような、ないような……」
「それはどういう意味だ?」
「そのままの意味!」
ルルーは笑った。
ロストは少しだけ困ったような表情を浮かべた。
その様子を見ていたクリスも、思わず小さく笑う。
三人の間に、わずかに緊張が解けるような空気が生まれた。
しかし、それも長くは続かなかった。
クリスはこれから入る森へ目を向けた。
彼女にとって、この場所は初めてだった。
「私、この森ははじめてなの。魔物とは戦ったことがあるけど油断せず回ってみよう!」
クリスの言葉には、僅かな緊張が混じっていた。
ロストはそんな彼女の様子を見て、静かに頷いた。
そして、森の入口へ視線を向ける。
そこには、赤い葉をつけた木々が広がっていた。
ここは真紅の森。
王都の北方に位置するこの森林は、異様な魔力の影響によって植物の色が変化した土地として知られている。
森の入口に立っただけでも、その異様さははっきりと感じられた。
通常の森林ならば緑に覆われているはずの木々が、赤く染まっている。
幹や枝、葉。
そして、地面を覆う草までもが、深い赤色を帯びていた。
太陽の光が葉の隙間から差し込むたび、森の中には赤い光が落ちる。
その光景は幻想的であり、遠くから眺めるだけなら美しい景色にも見えた。
しかし、近づけば近づくほどそこが普通の森ではないことが分かる。
木々の形そのものが、どこか不自然だった。
長い年月をかけて、この土地の魔力を吸収してきた結果なのだろう。
特殊な魔力を吸収した植物が独自の成長を遂げ、通常の森林には存在しない生物が暮らしている。
そのため、真紅の森は学園の課外活動場所として利用される一方、決して安全な場所ではなかった。
「きれいだけど……少し不気味だね」
クリスが呟いた。
彼女は森の奥を見つめた。
木々が密集しているせいで、少し先までしか視界が届かない。
その向こうに何が潜んでいるのか、外からでは判断できなかった。
「分かる。なんだか、森全体がこっちを見ているみたい」
ルルーも周囲を見渡した。
彼女の表情からも、先ほどまでの軽さが少しずつ消えていく。
ロストは二人の会話を聞きながら、足元へ目を落とした。
「足跡が多いな」
「足跡?」
「ああ。普通の獣のものもあるけど、形が違うものも混じっている」
ロストはしゃがみ込んだ。
赤い黒い土には、大小さまざまな足跡が残っていた。
森の入口付近でこれほど多くの痕跡が残っていることに、ロストは違和感を覚えた。
魔物が頻繁に通る場所なのか。
それとも、何か別の理由があるのか。
指先で土の状態を確認する。
新しいもの。
古いもの。
それらが混ざっていた。
中には、通常の魔物よりも明らかに大きなものもある。
大きさだけなら、かなり大型の魔物だ。
「これ……何の足跡?」
クリスが尋ねた。
「分からない。でも、気をつけた方がいい」
ロストは立ち上がった。
目で見て、耳で聞き、足元を観察する。
他の生徒たちが魔力に頼る場面でも、ロストは別の方法で情報を集めるしかなかった。
それは長年の鍛錬によって身についた、彼なりの戦い方だった。
「二人とも、できるだけ離れないでくれ」
「分かった」
「了解」
三人はそのまま警戒しながら、森の中へ進んでいった。
木々によって光が遮られ、地面には薄暗い影が落ちている。
風もほとんどない。
先ほどまで聞こえていた鳥の声も、徐々に遠ざかっていった。
三人は互いの位置を確認しながら進んでいく。
先頭を歩くのはロストだった。
その少し後ろにクリス。
そして、周囲を警戒しながらルルーが続く。
ロストは何度も立ち止まり、周囲を確認した。
進む速度は遅かった。
しかし、その分だけ慎重だった。
森の奥へ進むにつれ、魔物の痕跡も増えていく。
枝に残った爪痕。
地面に残された足跡。
食い荒らされた植物。
時には、何か大型の生物が通ったように草木が大きく倒れている場所もあった。
それでも、しばらくは順調だった。
小型の魔物を数体見つけると、三人は素早く戦闘へ移行した。
ルルーが風を纏い、魔物の周囲を高速で駆け回る。
その動きは速く、魔物は彼女を捉えることができない。
注意を引きつけられた隙に、クリスが水の魔力を展開する。
透明な水が盾のように広がり、魔物の攻撃を受け止めた。
そして、その隙を逃さずロストが踏み込む。
剣が閃き、魔物の身体を切り裂いた。
一体。
また一体。
三人はそれぞれの能力を活かしながら、確実に魔物を倒していった。
戦闘が終わるたび、ロストはすぐに周囲を確認した。
敵が他にも潜んでいないか。
別の魔物が近づいていないか。
そして、三人が進める道が安全か。
彼にとって、戦闘そのものよりも、その後の判断の方が重要だった。
ロストは魔物の痕跡を確認し、危険な場所を避け、二人が移動しやすい道を選ぶ。
その動きを見ていたルルーは、少しずつ感心した様子を見せ始めていた。
「ロストって、意外と森に詳しいんだね」
「詳しいわけじゃない。足跡や草の倒れ方を見ているだけだ」
「それができるのがすごいんじゃない?」
「誰でも経験すれば分かる」
「はいはい、努力家さん」
ルルーはそんなまじめなロストの言葉につられて笑った。
その笑い声が、赤い森の中へ小さく響いた。
ロストもわずかに口元を緩める。
三人の間には、少しずつ自然な連携が生まれていた。
しかし――。
そのときだった。
森の奥から、地面を震わせるような音が響いた。
ドン。
一度。
大地そのものを叩いたような低い音。
ドン。
二度目の音が響いた瞬間、足元の土がわずかに震えた。
ドン。
三度目。
今度は明らかに近かった。
三人の表情が変わる。
ルルーの笑顔が消えた。
クリスは反射的に周囲を見回す。
ロストはすぐに足を止めた。
耳を澄ませる。
音の間隔。
大きさ。
そして、音がこちらへ近づいているのかどうか。
「……何の音?」
クリスが小さく尋ねた。
ロストは答えなかった。
答えられなかった。
それほどまでに、嫌な予感がしていた。
ロストは音の方向を見た。
森の奥。
赤い木々が密集する場所。
そこから何かが近づいている。
しかも、それはただ歩いているのではない。
木々を押しのけながら、こちらへ向かっている。
異変に気づいたのか、鳥の鳴き声が止まった。
先ほどまで存在していた小さな生き物の気配も消えている。
森そのものが息を潜めたようだった。
「ヴォアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
聞いたことのない咆哮だった。
空気が震える。
その音圧だけで、胸の奥が押しつぶされるような感覚があった。
クリスは思わず肩を震わせる。
ルルーも息を呑んだ。
ロストは剣の柄を強く握り締める。
この声の主が普通の魔物ではないことは、考えるまでもなかった。
「二人とも、構えろ!!!!」
ロストは声を上げ、剣を構えた。
次の瞬間。
森の奥で、巨大な木が大きく揺れた。
枝が折れる。
赤い葉が大量に舞い落ちる。
そして、その向こうから巨大な影が姿を現した。
最初に見えたのは、巨大な前脚だった。
一本の脚だけで、人間の身体ほどの太さがある。
続いて、黒い毛に覆われた巨大な胴体が現れる。
木々の隙間を押し広げながら、その巨体がゆっくりと姿を現していく。
熊だった。
ただし、普通の熊ではない。
全身を覆う黒い毛は異様なほど密集しており、その一本一本が鋭い針のように逆立っている。
前脚は異常なまでに発達していた。
地面へ足をつけるだけで、土が沈み込む。
立ち上がれば、近くの木々よりも高い。
通常の熊を大きく上回る体格。
しかし、三人の視線を最も奪ったのは、その頭部だった。
一つではない。
二つ。
巨大な身体の上に、二つの頭が並んでいる。
それぞれが別々の方向へ動き、異なる角度から周囲を見回している。
一方の頭がロストを捉えた。
もう一方がルルーとクリスを捉える。
まるで、三人全員を同時に観察しているかのようだった。
片方の口からは長い涎が垂れ、地面へ落ちる。
もう片方の鼻からは荒々しい呼吸が漏れていた。
「うそ……」
ルルーが呟いた。
その声には、先ほどまでの余裕が完全に消えていた。
クリスもまた、目の前の存在を見つめたまま動けない。
「まさか……イレギュラー……?」
目の前にいる存在が、通常の魔物ではないことは明らかだった。
イレギュラー・ベアーズ。
イレギュラーとは異形の魔物の一種であり、特殊な魔力の作用で本来はあり得ない力を持って生まれた魔物のことだ。
自然界に存在する魔物の中には、長い年月をかけて特殊な魔力の影響を受け、通常とは異なる進化を遂げる個体が存在する。
その中でもイレギュラーと呼ばれる個体は、通常の個体とは比較にならないほど強力な力を持っている。
身体能力。
生命力。
感覚能力。
個体によっては、通常では考えられない特殊能力まで持つ。
目の前のイレギュラー・ベアーズも、その一体だった。
二つの頭部によって周囲を同時に捉えることができる。
死角が少ない。
そして、巨大な身体を支える四本の脚には、常識外れの筋力が備わっている。
一歩踏み出すだけで地面が震えるほどだった。
その巨体から放たれる威圧感は、これまで戦ってきた小型魔物とは比較にならない。
本来なら、学院の課外活動で遭遇するような相手ではない。
ましてや、学生だけで戦うなど無謀にもほどがあった。
「どうして、こんなところに……!」
ルルーは後ずさった。
彼女の足が一歩、また一歩と下がる。
普段なら、自分の速度に絶対の自信を持っているルルーだった。
しかし、今だけは違った。
目の前の魔物を見た瞬間、本能的に理解してしまったのだ。
自分の速度だけでは、この魔物から逃げ切れる保証がない。
クリスも同じだった。
両手を胸元で握りしめ、震えながら魔物を見つめている。
ロストだけは、二人とは違った。
恐怖を感じていないわけではない。
むしろ、誰よりも冷静に恐怖を感じていた。
だからこそ、目を逸らさなかった。
怯えて目を逸らせば、次の行動が遅れる。
ロストは熊の動きを観察し続けていた。
前脚の筋肉。頭部の動き。足の運び。呼吸。視線。
そして、自分たちとの距離。
一つ一つを確認していく。
勝つためではない。
生き残るためだった。
ロストは周囲を見渡す。
後方には、ここまで通ってきた道がある。
しかし、木々が密集している。
そして、あの巨体ならば木々など障害物にならない可能性が高い。
逃げ道は、後方に一本。
それ以外の道は、森の奥へ続いている。
未知の場所へ逃げ込むのは危険すぎる。
「……まずいな」
ロストは呟いた。
その声は小さかったが、二人には十分に聞こえた。
「ロスト、どうするの?」
クリスの声が震えている。
ロストの頭の中で、いくつもの可能性を考える。
戦う。
無理だ。
逃げる。
三人では追いつかれる可能性が高い。
助けを呼ぶ。
教師たちのいる場所までは遠い。
それなら――。
「倒すのは無理だ」
その言葉に、二人は息をのんだ。
いつもなら、どれほど不利な状況でもロストは立ち向かおうとする。
しかし、今回だけは違った。
ロストは現実を正確に見ていた。
「ルルーの速度でも、俺たち二人を連れて逃げ切れるかは分からない。クリスの防御も、あの攻撃を何度も受け止めるのは難しいはずだ」
「じゃあ、どうすれば……」
クリスの声が小さくなる。
ロストは迷わなかった。
「それでも逃げる。俺たちじゃ相手にならない」
勝てない。
その事実を、ロスト自身が一番理解していた。
「ルルー。クリスを連れて逃げてくれ」
「はあ!?」
ルルーが目を見開いた。
その声に、驚きと怒りが混じる。
「何を言ってるの? あたしたち三人で逃げるんだよ!」
ロストは熊から目を離さなかった。
二つの頭が、こちらを見ている。
いつ襲ってきてもおかしくない。
だからこそ、時間を無駄にはできなかった。
「三人一緒では追いつかれる。ルルー、クリス一人なら速く逃げられるだろ?」
「それは…。でもそれじゃあロストを置いていくってことでしょ!」
「そうだ」
ロストは短く答えた。
迷いのない返答だった。
その一言が、かえってルルーを動揺させた。
「俺が時間を稼ぐ。2人が逃げ切るまで」
手のひらに汗が滲んでいた。
「馬鹿じゃないの!?」
ルルーが声を荒らげた。
「相手はイレギュラーだよ!? 剣一本で魔力もないあんたに何ができるっていうの!」
その言葉は正しかった。
ロスト自身も、それを理解している。
自分には魔力がない。
強力な異能もない。
目の前の魔物と渡り合うような力など、持っていない。
それでも――。
「分かってる」
「分かってない! そんなの、死ぬだけじゃない!」
「それでも、二人が逃げる時間だけは作ってみせる」
ロストは剣を握り直した。
あまりにも硬く握り僅かに痛みがあった。
それが、逆にありがたかった。
恐怖で震える身体を、現実へ繋ぎ止めてくれる。
目の前の魔物は、自分の何倍もの力を持っている。
まともに攻撃を受ければ、身体など簡単に吹き飛ばされるだろう。
一撃で終わる可能性だってある。
「お願いだ、ルルー」
「……っ!」
「クリスを頼む」
クリスはロストの腕をつかんだ。
細い指が、ロストの腕へ強く食い込む。
「嫌だよ……! ロストを置いてなんていけない…」
ロストはクリスの顔を見る。
彼女の目には、すでに涙が浮かんでいた。
「クリス」
「私だって、少しは戦える! 水の魔力で防御を張れば……!」
クリスは必死に言葉を重ねる。
自分だけ逃げることが正しいとは思えなかった。
ロストを置いていくことなど、できるはずがない。
無言で、首を振るロスト。
クリスは言葉が続かなかった。
自分でも本当は分かっていた。
防ぐことはできても、倒す力はない。
ルルーもイレギュラー相手にできることは少ないだろう。
そして、ロストには魔力そのものがない。
三人が残っても、勝ち目はない。
それでも、ロストはクリスを責めるようなことは言わなかった。
むしろ、静かに微笑んだ。
「大丈夫。なんとかするさ。そのために毎日鍛えてきたんだ。知ってるだろ?」
その笑顔を見た瞬間、クリスの胸が締めつけられた。
いつも見ていた。
誰よりも早く訓練場へ来て。
誰よりも遅くまで鍛錬して。
何度倒れても立ち上がるロストの姿を。
魔力を持たない自分を変えるために、ただひたすら努力していた。
その姿を、クリスはずっと見ていた。
だからこそ、その言葉が余計につらかった。
「そんな言い方、ずるいよ……」
クリスの瞳に涙が浮かぶ。
ロストは何も言わなかった。
言葉を返せば、決意が揺らぐ気がした。
その間にも、イレギュラー・ベアーズは警戒しながらゆっくりと近づいてくる。
まるで獲物を品定めしているかのようだった。
ロストは一歩前に出た。
それだけで、熊の視線が自分へ集まる。
「ルルー。時間がない。頼む…!」
ルルーは唇を強く噛んで目を閉じる。
「……っ」
「クリス、私の肩に手を回して」
ルルーは目を開けて呟いた。
「ルルー……」
「ごめん、クリス。今はロストを信じるしかない」
彼女自身、怖かった。仲間を置いて自分たちだけ逃げる決断をしたことに。
それでも、クリスにこの決断ができるはずがない。だからあたしが。
ロストもそれがわかっていてルルーに頼んだのだった。
「絶対に、助けを呼んで戻ってくるから」
ロストは振り返らずに答えた。
「行け!!!!」
次の瞬間、ルルーの足元に風が渦巻いた。
赤い葉が舞い上がる。
彼女の髪が風圧で大きく揺れる。
風の魔力が脚部へ集中していく。
一瞬。
その場に残像だけを残し、ルルーは駆け出した。
身体が弾かれたように加速する。
木々の間を縫うように、森の入口へ向かって駆け抜けていく。
もう二人のことを考える必要はない。
今、自分が考えるのは目の前の敵だけだった。
二人の音も次第に遠ざかる。
その直後、獲物に逃げられたと思ったのか、イレギュラー・ベアーズが咆哮した。
「グオオオオオッ!」
凄まじい咆哮が森全体を震わせる。
木々の葉が一斉に揺れ、地面へ赤い葉が大量に落ちていく。
勝てないことは百も承知。
まともに戦えば、数秒も持たないかもしれない。
それでも、時間を稼ぐ。
二人が逃げ切るまで。
ただ、それだけを考えていた。




