十七話 ある日の講義
「そのため、魔力を操る力は個人個人によって…」
エヴァンスの淡々とした声が、静かな教室の中に響いていた。
午後の講義も終盤に差しかかり、生徒たちの集中力は少しずつ途切れ始めている。
窓から差し込む陽の光は傾き始めていた。
それでもエヴァンスは、黒板に書かれた魔力制御に関する理論を一つずつ丁寧に説明している。
ロストもまた、机に向かいながらその話を聞いていた。
キーンコーンカーンコーン
校舎中に、授業の終了を告げる鐘が鳴り響いた。
張り詰めていた教室の空気が、一瞬にして緩む。
エヴァンスはそんな生徒たちを一瞥すると、手にしていた本を静かに閉じた。
「鐘だな。今日の講義ここまでだ」
その一言に、教室のあちこちから安堵の声が漏れる。
しかし、席を立とうとする生徒たちを制するように、エヴァンスは続けて口を開いた。
「最後に明日の一学年との合同訓練の話だ」
その言葉を聞いた瞬間、何人かの生徒が顔を上げた。
明日の予定。
それは以前から伝えられていたものだった。
エヴァンスが教壇の前に立ち直すと、教室の空気も再び少しずつ落ち着きを取り戻していく。
「以前から伝えていた通り。明日は一学年二学年合同の訓練がある。
お前たちも去年やっただろう。今年はお前たちが先輩側だ」
その言葉に、教室の中から小さなどよめきが起こった。
去年まで自分たちが先輩たちに連れられて訓練をしていた。
それが今年からは、自分たちが後輩を指導する側になる。
そう考えると、妙な優越感を覚える者も少なくなかった。
特に能力に自信のある生徒たちは、すでに誰と組むのか、どんな訓練になるのかと周囲と話し始めている。
そんな中、ふと一人の生徒がロストへ視線を向けた。
それをきっかけに、教室の空気が少しだけ変わった。
「ロストと組まされるかわいそうな後輩は誰なんだ?」
周囲から、堪えきれないような笑い声が上がった。
ロストは何も言わず、自分の机に座ったまま、その声を聞いていた。
こういうことには、もう慣れている。
反論したところで、状況が変わるわけでもない。
だからロストは、ただ黙っていた。
しかし、周囲の生徒たちはそれだけでは満足しなかった。
「真紅の森の魔物程度にボロボロにされるくらいなんだから後輩よりも弱いんじゃないか?」
笑い声がさらに大きくなる。
真紅の森。
先日の課外活動で訪れた場所の名前だった。
そこでロストが魔物との戦闘によって負傷したことは、すでに学年中に知れ渡っている。
相手はあのイレギュラーだ。だが、そのことを知る人はごく一部だった。
ロストが「無能力者」であるというだけで、それは彼らにとって格好の笑い話になる。
ロストは俯いたまま、机の端を見つめていた。
悔しくないわけではない。
今までも、そうしてきから。
それでも、隣の席に座っていたクリスには、ロストの僅かな変化が見えていた。
クリスの表情から、普段の柔らかな雰囲気が消えていく。
握られた拳に、徐々に力が込められていった。
ロストを馬鹿にする声が増えるたびに、その指先が強く机を押さえつける。
やがてクリスは、我慢の限界に達したように椅子から立ち上がろうとした。
その瞬間だった。
「うるせぇぇぇ!!!!」
教室全体を震わせるような怒声が響いた。
同時に、ガルドが机を強く叩いた。
鈍い音が教室中に響き渡る。
それまで騒いでいた生徒たちは、まるで時間が止まったかのように動きを止めた。
誰も口を開かない。
先ほどまで響いていた笑い声も、話し声も、すべて消え失せていた。
ガルド自身も、肩で大きく息をしている。
握りしめた拳には力が入り、額には薄く血管が浮かんでいた。
普段なら、真っ先にロストをからかう側にいる男だった。
だからこそ、突然の怒鳴り声に誰もが戸惑っていた。
ガルドは周囲の視線を気にするように一度だけ教室を見回すと、乱暴に椅子を引いた。
そして、そのまま立ち上がる。
「先生。この後は事前に聞いてる後輩と顔合わせなんだろ?俺はもう行くぜ」
エヴァンスの返事を待つこともなく、ガルドは教室の出口へ向かって歩き出した。
その足取りは妙に速かった。
まるで、これ以上教室にいたくないとでも言うように。
やがて、静まり返った教室の中で、小さな声が上がる。
「なんだよアイツ。少し前までは自分がロストを一番馬鹿にしてたくせによ」
その言葉に、周囲の生徒たちもガルドの突然の変化について話し始めた。
「最近、訓練室にこもりっきりらしいぜ。何があったか知らないけどさ」
ガルドについての話題が、次々と広がっていく。
少し前までロストをからかっていた男が、最近では訓練に明け暮れている。
その変化を不思議に思っている者は多いらしい。
ロストもまた、そんな会話を聞きながら、教室を出ていったガルドの姿を思い返していた。
確かに最近のガルドは少し変だった。
以前よりも訓練に熱中している。
講義が終われば訓練室へ向かい、時間が許す限り鍛錬を続けているという話も聞いていた。
しかし、その理由まではロストには分からなかった。
そんなロストの横で、先ほどまで怒りを露わにしていたクリスが、いつの間にか普段の表情を取り戻していた。
そして、何かを思いついたように口元を緩める。
いたずらを思いついた子供のような顔だった。
「ロスト、知ってる?ロストが倒れて帰ってきたあの日、ガルドが私にロストは無事なのか聞いてきたんだよ」
ロストは思わずクリスの方を向いた。
意外な話だった。
あのガルドが、自分の安否を気にしていた。
それはロストにとって、にわかには信じられないことだった。
「どうしてそんなこと聞くの?って聞いたら怒ってどこかいっちゃったけど」
クリスは、その時のことを思い出したのか、少し楽しそうに笑った。
どうやらガルドは、ロストが無事なのかを自分から尋ねてきたらしい。
そんなガルドの後ろ姿に大声で無事なことを教えてあげたと笑いながらクリスは教えてくれた。
「ロストに意地悪するから私がやり返してあげたわ」
クリスは出て行ったガルドの方向に向きべー、と舌を出した。
ロストはそんなクリスの様子を見て、あまり二人は仲良くないのかな?と的外れなことを考えていた。
そんなロストをよそに、教壇のエヴァンスが再び声を張り上げる。
「静かに!話はまだ終わっていない。まったくガルドの奴は…」
エヴァンスは呆れたようにため息をついて、手元の資料へ視線を落とし話を続ける。
「後輩については以前伝えたとおりだ。それぞれの能力に合わせた訓練内容になっている」
生徒たちは再び教壇へ意識を向けた。
ただ後輩と一緒に訓練をするだけではない。
能力の種類や習熟度に合わせ、それぞれ異なる訓練が組まれている。
そのため、生徒たちには事前に集合場所が指定されていた。
エヴァンスは手元から何枚もの紙を取り出す。
「各自それぞれの集合場所を記してある。名前を呼ばれたら取りに来い」
紙の束から一枚ずつ配られていく。
呼ばれた生徒たちが教壇まで歩き、紙を受け取って席へ戻っていく。
やがて、その声がロストのところへ近づいてきた。
「ロスト、取りに来い」
自分の名前が呼ばれたことに気づき、ロストは椅子から立ち上がった。
教壇へ向かう時、周囲の視線が一瞬だけ自分に集まった気がしたが、ロストは気にせずエヴァンスの前まで歩いた。
「お前はB訓練室だ」
ロストは差し出された紙を受け取り、確認する。
「……?先生、紙が二枚あります」
ロストが言うように、手元には2枚の紙があった。
「もう一枚はガルドの分だ。あいつ最後まで聞かずに出て行ったからな。お前が届けてやってくれ」
なるほど、とロストは納得した。
ガルドは集合場所を聞かないまま教室を出てしまった。
このままでは明日の訓練に参加できない。
エヴァンスもそれを分かっていたのだろう。
ロストは先ほど出ていったガルドの姿を思い浮かべる。
まだ校舎内にいるはずだ。
今なら追いつけるかもしれない。
「分かりました」
ロストはエヴァンスに軽く頭を下げると、すぐに教室の出口へ向かった。
教室を出ると、廊下には夕方の静かな空気が流れていた。
明日の集合場所を渡す。
それだけのことだった。
だが、ロストにはもう一つ気になっていることがあった。
先ほどのガルドの態度だ。
なぜ、あれほど怒ったのか。
なぜ、自分を馬鹿にしていた生徒たちに声を上げたのか。
そして、なぜ自分の安否を気にしたのか。
答えは分からない。
それでもロストは、ガルドを追いかけることにした。
────────────
廊下の先。
階段を下りたところで、ロストはようやく見覚えのある背中を見つけた。
歩幅の大きな男が、校舎の廊下を早足で進んでいる。
ガルドだった。
ロストはすぐに速度を上げる。
先ほどのこともあり、ガルドはかなり機嫌が悪そうだった。
それでも、このまま見失うわけにはいかない。
ロストはさらに距離を縮め、声を張った。
「まてよ!ガルド!」
その声を聞いて、ガルドの足が止まった。
ゆっくりと振り返る。
その表情には、明らかに「なぜお前がここにいる」と書かれていた。
「ロスト…?お前が俺に何の用だよ」
ガルドは機嫌が悪そうに問いかけた。
ロストは手にしていた紙を持ち上げる。
「最後まで話を聞かないで出て行った奴がいたからな。おつかいを頼まれた」
そういって集合場所の紙を差し出したロスト。
ガルドは紙を受け取ると、そこに書かれた内容へ目を落とした。
「お前はD訓練室だとよ」
短い言葉とともに、ロストは紙を渡し終えた。
これで用事は終わりだ。
しかし、ガルドは紙を受け取ったまま、ロストの方を見ようとしなかった。
「礼は言わねえぞ」
相変わらずの態度だった。
ロストは思わず苦笑する。
こんな時でも、素直に礼を言わない。
以前から変わらないガルドらしさだった。
しかし、先ほどの出来事が頭から離れない。
せっかく二人きりになったのだ。
聞いてみるなら、今しかない。
ロストはガルドの顔を見つめた。
「それは構わない。ただ、聞きたいことがある」
ガルドの眉がわずかに動いた。
ロストがこんなふうにガルドに質問をすることは珍しい。
「なぜ、あそこでお前が声を上げた?」
その言葉を聞いた瞬間、ガルドの表情がわずかに硬くなった。
先ほど教室で起きたことを思い出したのだろう。
ガルドはロストから視線を逸らしていた。
「知らねえよ。そんなの。ただイラついたから怒鳴っただけだ」
明らかに何かを隠している。
だが、ロストはそのことに気づいていながらも、追及するような言い方はしなかった。
むしろ、もう一つ気になっていたことを尋ねる。
「クリスに俺の安否を確認したのは?」
その瞬間。
ガルドの顔がみるみるうちに赤くなっていった。
怒っているのか。
恥ずかしいのか。
それとも、その両方なのか。
ロストには判断がつかなかった。
ガルドは拳を握りしめる。
そして、ついに堪えきれなくなったように顔を上げた。
「あの女、言いやがったな…!」
ロストに知られたことが、よほど気に入らなかったらしい。
その表情からは、先ほどまで教室で見せていた怒りとは別の感情が入り混じっていた。
「弱いお前が課外活動ごときで死んでないか確認しただけだよ!!!」
ガルドの声が廊下に響き渡った。
その顔は完全に真っ赤になっている。
そして、そのまま逃げるように走り出した。
廊下に響く足音が、瞬く間に遠ざかっていく。
ロストはその場に立ち尽くし、ガルドが消えていった方向を眺めていた。
結局、最後までガルドの本心は分からなかった。
ただ一つだけ分かったことがある。
ガルドは、以前とは少し違う。
口は悪い。
素直でもない。
それでも、何かが変わり始めている。
「おかしな奴だ。何か変なものでも食ったのか?」
誰もいなくなった廊下で、ロストは小さく呟いた。
ガルドとロスト。
互いのことを理解するには、まだ少し時間が必要だった。




