十四話 地獄への入り口
ガルドが訓練を始めた同時刻
十分に身体を休めたロストは、ケイオスと訓練を始めるところだった。
人目につかない場所へ移動した二人は、そこで本格的な訓練を始めることになった。
「師匠、今日は何から始めるんですか?」
ロストが尋ねると、ケイオスは腕を組み、少し考えるように顎へ手を当てた。
「まずは、お前の持久力を測る」
「持久力……ですか?」
「原始的だが、これが一番分かりやすい」
そう言うと、ケイオスは背負っていた荷物から一着のベストを取り出した。
そして、それを無造作に地面へ落とす。
――ゴドンッ!!
地面が震えた。
ベストが落ちた衝撃で砂埃が舞い上がる。
「……え?」
ロストは目を丸くした。
「これ……何キロくらいあるんですか?」
「分からん」
「……分からない?」
「なるべく重いものを持ってきた」
あまりにも平然とした答えだった。
その瞬間、ロストの脳裏にエヴァンスの言葉が蘇る。
――――――――――――――――――
『ロスト。いいか』
『ケイオスは「最強だ」なんて言われているが、ただの筋肉バカだ』
『ついていけなくなった時は、さっさと諦めるんだ』
『あいつに常識なんて通用しないからな』
――――――――――――――――――
「……師匠」
「なんだ?」
「エヴァンスさんが言っていた意味が、分かった気がします」
「そうか」
ケイオスは満足そうに頷いて、ベストをロストに手渡した。
ずしり。
両手で持ち上げただけで、腕に重圧がのしかかる。
「……本当に重い」
「最初は走るだけでいい」
「どのくらいですか?」
「そうだな……」
ケイオスは再び考え込む。
そして、何でもないことのように言った。
「日が沈むまで」
「…………」
ロストの顔から、さっと血の気が引いた。
「師匠。今、朝ですよ?」
「そうだな」
「……つまり?」
「俺の弟子になるということは、修羅の道を歩むということだ。そう言ったはずだが?」
ロストは、かつてケイオスの弟子になると決めた時のことを思い出した。
あの時は、その言葉の意味を深く考えていなかった。
まさか、文字通り修羅の道を歩かされるとは思ってもいなかったのだ。
「安心しろ」
ケイオスは笑った。
「死ぬ前には止めてやる」
その言葉が冗談なのか、本気なのか。
ロストには判断できなかった。
仕方なく、ベストに両腕を通す。
次の瞬間――
――ズシンッ!!
「ぐっ……!」
身体が一気に沈み込んだ。
膝が崩れ、ロストはその場に手をつく。
「……重い……!」
想像していた重量とは、あまりにもかけ離れていた。
「立てるか?」
「……立てます」
「なら、走れ」
「……はい!」
ロストは歯を食いしばり、立ち上がった。
そして、ゆっくりと走り始める。
数十メートル。
それだけで呼吸が乱れた。
「はぁ……はぁ……!」
一歩踏み出すたび、身体に重りが食い込む。
まるで大地そのものに身体を引きずり込まれているようだった。
それでも、ロストは足を止めなかった。
百メートル。
千メートル。
そして、一万メートル。
時間が経つにつれ、呼吸は荒くなっていく。
額から汗が流れ、頬を伝い、地面へ落ちていった。
「まだだ」
背後からケイオスの声が飛んでくる。
「速度を落とすな!」
「はぁ……はぁ……!」
ロストは必死に足を動かした。
しかし、身体はすでに限界へ近づいていた。
足が震える。
肺が痛い。
胸の奥が焼けるように熱い。
――もう無理だ。
そう思った、その瞬間だった。
「ロスト」
ケイオスの声が聞こえた。
「苦しいか?」
「……はい……!」
声を出すだけでも苦しい。
それでもロストは答えた。
すると、ケイオスは静かに口を開いた。
「なら、そこからが訓練だ」
「……!」
ロストは思わず顔を上げた。
「人間は苦しくなった時、自分で限界を決める」
ケイオスの声は、いつになく静かだった。
「だが、本当の限界は、その少し先にある」
ロストは振り返った。
ケイオスは腕を組み、ただじっとこちらを見つめている。
「無理なら止まれ」
その言葉に、ロストは息を呑んだ。
「だが、自分で『まだやれる』と思うなら――」
ケイオスは拳を握り締める。
「走り続けろ」
ロストは前を向いた。
震える足を、もう一度前へ出す。
「……まだ……やれます!」
「なら、走れ!」
「はい!」
ロストは再び走り出した。
先ほどより速くなったわけではない。
ただ――
止まらなくなった。
何度も足がもつれた。
何度も転びそうになった。
それでも、そのたびに身体を起こした。
昼を過ぎても。
太陽が傾き始めても。
ロストは走り続けた。
やがて空が赤く染まり、夕日が地平線へ沈み始める。
「……はぁ……はぁ……」
最後の力を振り絞り、ロストは足を止めた。
そして――
ドサッ。
糸が切れたように、その場へ倒れ込んだ。
もう指一本動かせない。
ケイオスは、地面に倒れたロストを見下ろした。
「よくやった。今日は終わりだ」
「…………」
返事がない。
「ロスト?」
しばらくして、かすかな声が返ってきた。
「……師匠……」
「どうした?」
「……明日も……これ……やるんですか……?」
ケイオスは一切迷わず答えた。
「当然だ」
「…………」
ロストは絶望したように空を見上げた。
そして、遠く離れた場所にいるエヴァンスの顔を思い浮かべる。
――あいつに常識なんて通用しないからな。
「……本当だった……」
そんなロストの姿を見て、ケイオスは笑みが溢れた。
だが、その表情はすぐに真剣なものへ戻る。
地面に倒れたロストを見つめながら、今日一日の訓練を振り返っていた。
何度も限界を迎えた。
何度も足を止めそうになった。
それでも――
ロストは一度も、自分から走ることをやめなかった。
ケイオスは確信していた。
「こいつは……伸びるな」
誰にも聞こえない小さな声で、そう呟いた。




