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第十二話 師弟 

ロストが目を覚ましたとき、そこは学園の医務室だった。


鼻をつく消毒液の匂い。

静かな室内には、窓から差し込む柔らかな光が広がっている。

白い天井が、ぼんやりと視界に映っていた。

まだ意識が完全には戻っていないのか、頭の中には薄い霧がかかったような感覚がある。


ここはどこだ。

そう考えた直後、少しずつ記憶が蘇ってきた。

真紅の森。

巨大な二つの頭を持つ熊。

迫り来る巨体。

そして――自分が二人を逃がすために、その場に残ったこと。


「……ここは?」


掠れた声が漏れる。

自分の声が妙に遠く感じられた。

身体を起こそうとした瞬間だった。

全身に鈍い痛みが走る。


「っ……!」


思わず顔をしかめる。

腕も、背中も、脚も痛い。

特に魔物の攻撃を受けた箇所には、身体の奥まで響くような重い痛みが残っていた。

まだ身体が戦いの余韻を覚えている。


すると、すぐ隣から聞き慣れた声が返ってきた。


「医務室だよ」


ロストが顔を向ける。

そこには、椅子に座ったクリスがいた。

どうやらずっと近くにいたらしい。

クリスはロストが目を覚ましたことに気づくと、驚いたように目を見開いた。


「ロスト、目が覚めたんだね!」


その表情には、隠しきれない安堵が浮かんでいた。

クリスは胸に手を当て、大きく息を吐く。

張り詰めていたものが、一気に解けたようだった。


「よかった……。森から帰ってる途中で急に意識を失って、それからずっと目を覚まさなかったから、心配したんだよ」


「そんなに寝てたのか?」


ロストはまだ重い頭を動かしながら尋ねる。


「二日」


「……二日!?」


思わず声が大きくなる。

その瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。


「ぐっ……!」


ロストは反射的に身体を丸める。


「もう! 無理しないで!」


クリスが慌てて立ち上がり、ロストの肩を押さえる。


「先生が、しばらく安静にしていなさいって言ってたわよ」


「そうか……」


ロストは諦めたように身体を枕へ戻した。

天井を見上げる。

二日。

それだけの時間、自分は眠り続けていたらしい。

それほどまでに身体は限界だったのだろう。

そう考えると、改めてあの魔物の恐ろしさを実感する。

あの場では夢中だった。

ただ、二人を逃がすことしか考えていなかった。

だからこそ、自分がどれほど傷ついていたのか、今になってようやく理解できた。

そんなことを考えていると、ふと一人の姿が頭に浮かんだ。


「……ルルーは?」


「ルルーも無事だよ」


クリスはすぐに答えた。

その返事を聞いた瞬間、ロストの表情から緊張が抜ける。


「今はもう授業に出てる」


「……よかった」


短い言葉だった。

だが、その言葉には心の底からの安堵が込められていた。

ロストの肩から力が抜ける。

目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

二人とも無事だった。

それだけで十分だった。

自分が二日間も眠り続けていたことよりも、身体中が痛むことよりも、まずそのことを確認したかったのだ。


クリスは、そんなロストの横顔をじっと見つめていた。

何かを言おうとしている。

しかし、すぐには言葉が出てこない。

握った手を膝の上に置き、何度か視線を落とす。


そして――

やがて、意を決したように口を開いた。


「ねえ、ロスト」


「ん?」


ロストがクリスを見る。

クリスの表情は、先ほどまでとは違っていた。


「どうして、あんなことをしたの?」


ロストの表情が僅かに曇った。


「あんなことって?」


「分かってるでしょ」


責めるような声ではなかった。


だからこそ、ロストにはその言葉が重く感じられた。

クリスは視線を逸らさない。


「勝てないって分かってたんだよね?」


「ああ」


ロストは短く答えた。

あの魔物を見た瞬間から分かっていた。

自分の剣では、ほとんど傷をつけられない。

身体能力も、相手とは比べものにならない。

まともに戦えば勝ち目などない。


「3人じゃ逃げきれなかったかもしれない。それでも、どうして私たちと一緒に逃げなかったの?」


その問いに、ロストは答えなかった。

視線を天井へ戻す。

白い天井を見つめながら、あのときの光景を思い出す。


あの瞬間を思い出すと全身が凍りつくような恐怖を感じていた。


逃げなければならない。

そんなことは分かっていた。

頭では、何度もそう叫んでいた。


それでも――

身体は、その場から離れなかった。


「……怖かったんだ」


「え?」


クリスが小さく聞き返す。

ロストは目を閉じた。


「あの熊を見た瞬間、身体が強張った。剣を握る手も震えてた。俺の攻撃が通用しないことも分かっていた」


自分でも認めたくなかった。

あのとき、自分は怖かった。

圧倒的な力を前にして、恐怖を感じていた。


「自分が勝てないことくらい、最初から分かっていたんだ」


「……」


クリスは何も言わず、ロストの言葉を聞いていた。


「それでも……」


ロストはそこで言葉を止めた。

喉の奥に、何かが引っかかる。

しばらく沈黙したあと、ロストはゆっくりとクリスへ視線を向けた。


「二人が傷ついてしまったらと思うと……そっちのほうが怖かったんだ」


その言葉を聞いて、クリスは何も言えなくなった。

胸の奥が締めつけられるようだった。

ロストはいつもそうだった。

自分が傷つくことには、驚くほど無頓着だ。

どれだけ無茶をしても、どれだけ傷を負っても、自分のことより他人のことを優先する。

それが、クリスには少しだけ悲しかった。


「俺は強くない」


ロストは自嘲するように笑った。


「魔力もない。身体だって、まだまだだ。あんな魔物を相手にしたら、本来なら逃げるしかなかった」


拳を軽く握る。

包帯の巻かれた手が、僅かに震えた。


「それでも……」


ロストは言葉を続ける。


「誰かを守れるなら、自分が犠牲になってもいい。あのときは、本気でそう思ってた」


クリスは悲しそうに目を伏せた。

窓の外から、風に揺れる木々の音が聞こえてくる。

医務室の中には、しばらく二人の声がなかった。

やがてクリスは、ゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、先ほどまでの悲しさとは違うものが宿っていた。


「私、ロストのことを尊敬してる」


「……」


「いつも努力していて、誰かのために行動できるところ。本当にすごいと思う」


クリスはそう言いながら、ベッドの横に置かれていたロストの手へ、自分の手を重ねた。


そして、そっと握る。


「でも……もう自分だけで全部背負わないでほしい」


ロストは黙ってクリスを見る。


「私だって、守られるだけの人間にはなりたくない」


その声には、悔しさが滲んでいた。


「あのとき、ロストが一人で戦ってくれたから私たちは助かった。でも……ロストだけが傷つくのは」


クリスは言葉を詰まらせた。

唇を噛み、しばらく俯く。

そして、もう一度ロストを見る。


「そんなの、もう嫌だよ」


その言葉には、強い意志があった。

ロストはしばらく何も言わなかった。

握られた手から伝わる温もりを感じながら、クリスの言葉を静かに受け止める。


「だから、私も強くなる」


クリスは真っ直ぐにロストを見る。


「あんな思いをするのは、もう嫌だから」


その瞳には、以前にはなかった強い意志が宿っていた。

ロストは少し驚いたように目を見開く。


そして――

やがて、小さく笑った。


「そうだな」


ゆっくりと頷く。


「お互い、まだまだみたいだ」


「……うん」


クリスの表情が少しだけ和らぐ。


「だったら、一緒に強くなればいい」


その言葉に、クリスは一瞬だけ目を丸くした。

そして、静かに笑った。


「うん。一緒にね」


二人の間に、柔らかな空気が流れる。


しかし、次の瞬間。

ロストが少しだけ真面目な顔になった。


「だけどクリス。あまり無茶はしないでくれよ」


「それはロストが言うことじゃないよ!」


「……確かに」


互いに顔を見合わせる。

その言葉がおかしくて、二人は思わず同時に笑った。

医務室に、穏やかな笑い声が響く。

先ほどまで張り詰めていた空気が、少しずつほどけていった。

あの森での出来事は、二人にとって忘れられないものになるだろう。


恐怖も。

悔しさも。

自分たちの力不足を思い知らされたことも。


それでも――

一人で戦う必要はない。


誰かに守られるだけでいる必要もない。

それぞれが強くなり、互いに支え合えばいい。

二人は、そんな当たり前のことに初めて気づいたのだった。


————————————


その日の午後。


医務室の窓から差し込む光が、少しずつ傾いていた。

静かな室内には、時計の針が進む音だけが響いている。


ロストはベッドの上で横になりながら、何度も身体を動かそうとしては痛みに顔をしかめていた。


「……暇だな」


そんなことを呟いた、そのときだった。

医務室の扉が開いた。


「よう」


聞き覚えのある声。

ロストが顔を向ける。


「……師匠?」


そこに立っていたのは、ケイオスだった。

相変わらずの落ち着いた表情。

大きな身体からは、何もしていなくても圧倒的な存在感が漂っている。

ロストは反射的に身体を起こそうとした。


「身体はどうだ?」


「まだ少し痛みますが、動けます」


「そうか」


ケイオスは短く答える。

そしてベッドの横まで歩くと、ロストの身体を一瞥した。

傷の状態を確認するように視線を走らせる。

その目は厳しい。

だが、そこには弟子の状態を確かめる師としての冷静さがあった。

やがてケイオスは窓の外へ視線を向けた。


「お前には、相手の動きを見切る力がある」


「……」


ロストは黙って聞いていた。


「あの戦いでも、何度も攻撃をかわしていたんだろう?」


ロストの脳裏に、あの戦いの光景が蘇る。

振り下ろされる爪。

迫る巨体。

僅かな動きの変化を読み取り、身体を捻ってかわした。

何度も繰り返した。


だが――


「だが、今のお前の身体では、その力を活かしきれない」


ケイオスの言葉が、静かな医務室に落ちる。


「どれだけ相手の動きが見えていても、それに合わせて身体を動かせなければ意味がない」


ロストは自分の身体を見つめる。

確かに、その通りだった。

見えていた。

避けるべき場所も分かっていた。

それでも、身体が追いつかなかった。

一瞬の遅れ。

僅かな踏み込みの不足。

それが、致命傷につながる。


「……身体を鍛えれば」


ロストが尋ねる。


「身体を鍛えれば、俺の目を活かして、もっと戦えるようになりますか?」


ケイオスは一切迷わなかった。


「ああ」


短い返事。


「なる」


その一言を聞いた瞬間、ロストの目が僅かに輝いた。

自分にはまだ伸びしろがある。

そう思えた。


しかし、ケイオスはそこで釘を刺す。


「だが、魔力がないという事実は変わらない」


「……はい」


「だからこそ、普通の人間よりも力をつける必要がある」


ケイオスはロストを見据える。


「魔力を持つ者たちは、魔力によって身体能力を底上げできる。だが、お前にはそれがない」


その言葉は、ロストにとって決して新しいものではなかった。

学院に入ってから、何度も聞いてきた言葉だ。

無能力者。

魔力を持たない者。

周囲からすれば、それは大きな弱点だった。


けれど――


「ならば、ないものを嘆くより、別の方法で補うしかない」


ケイオスの言葉が、ロストの胸に深く響いた。

ないなら、鍛える。

できないなら、できる方法を探す。

それは、これまでロストが積み重ねてきたものと同じだった。


「身体能力、反応速度、持久力、瞬発力。そして戦闘技術」


ケイオスは指を折るように並べていく。


「お前には、鍛えるべきものが山ほどある」


ロストは思わず苦笑した。


「……かなり厳しそうですね」


「厳しいに決まっている」


ケイオスの口元が僅かに上がった。

その表情を見て、ロストは何となく嫌な予感を覚える。


「怪我が治ったら、すぐに始める。覚悟しておけ」


「はい!」


ロストは力強く返事をした。


「ありがとうございます!」


深く頭を下げる。

ケイオスはそんなロストを見て、僅かに息を吐いた。

どうやら、もう少し休ませる必要がありそうだった。


「まずは身体を治せ。今のお前が一番苦手なのは、休むことだからな」


「……」


ロストの動きが止まる。

図星だった。

ケイオスはそれ以上何も言わず、踵を返した。


「しっかり休め」


「はい、師匠」


扉が開く。

ケイオスの姿が廊下へ消え、やがて扉が静かに閉じられた。


再び、医務室に静けさが戻る。

ロストはしばらく閉じた扉を見つめていた。

そして、ゆっくりと自分の手へ視線を落とす。

傷だらけの手。

剣を握り続けてきた手。

硬くなった皮膚。

何度も剣を振り、何度も倒れ、それでも立ち上がってきた。


今まで、何度も何度も努力を重ねてきた。

それでも、足りなかった。

あの熊を前にして、自分の力不足を思い知らされた。

ただ努力するだけでは、届かない場所がある。

その現実は、悔しかった。


けれど――

ロストはゆっくりと拳を握った。

これまでとは違う。

自分よりも強い者に学ぶことができる。

自分の弱点を知ることができる。

そして、その弱点を一つずつ克服していくことができる。


一つずつ。

焦る必要はない。

今日できないことも、明日できないとは限らない。

毎日積み重ねればいい。

ロストは拳を見つめながら、静かに息を吐いた。


「……強くなるんだ」


小さな声だった。

だが、その言葉には確かな決意が込められていた。

ただ強くなりたいわけではない。

誰かに認められたいわけでもない。

自分が無能力者だからと、意地になっているわけでもない。

あのとき、目の前にいた二人を守れなかったら。

そう考えるだけで、胸の奥が締めつけられる。


だから――

今度は違う。

今度は、もっと早く動けるように。

もっと強く剣を振れるように。

もっと長く戦えるように。


そして――


「今度こそ……守れるように」


静かな医務室に、ロストの決意だけが残った。


窓の外では、夕方の風が木々を揺らしている。

その音を聞きながら、ロストは再び目を閉じた。

今は休む。


そして、傷が治ったら――

また、剣を握る。


その日を思い描きながら、ロストは静かに眠りへ落ちていった。

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