十一話 予言者の導き
王都から離れた場所に、古びた塔が建っていた。
かつて何に使われていたのかさえ、今となっては知る者はいない。
長い年月を風雨に晒され続けた石造りの塔は、ところどころが崩れ、壁には無数の亀裂が走っている。蔦が壁面を這い、割れた窓からは冷たい風が吹き込んでいた。
周囲には、人の姿はない。
道らしい道さえなく、訪れる者もほとんどいない。
王都の喧騒から遠く離れたその場所には、ただ静寂だけが残されていた。
そんな塔の最上階。
薄暗い部屋の中央に、一人の女性が座っていた。
ウィッチ・ルック。
未来を垣間見る力を持つ、予言者であった。
部屋の中には、古びた書物や奇妙な形をした道具がいくつも置かれている。
壁際には何本もの蝋燭が並び、その小さな炎が風に揺れていた。
しかし、その明かりだけでは部屋全体を照らすことはできない。
薄暗い室内の中央。
そこに置かれた一つの水晶だけが、淡い光を放っていた。
ウィッチは、その水晶をじっと見つめている。
彼女には、戦う力がない。
魔物と戦うこともできなければ、剣を握って敵と渡り合うこともできない。
それでも、彼女には誰にも真似できない力があった。
その瞳には、他の誰にも見ることのできないものが映る。
現在から遠く離れた未来。
無数に枝分かれした可能性の中から、ほんの一瞬だけ姿を現す未来の断片。
それは、映像として現れることもあれば、言葉として聞こえることもある。
時には、意味の分からない光景だけが見えることもあった。
そして――未来は決して、彼女の望む形を見せてくれるわけではない。
見たいと願ったから見えるわけではない。
知りたいと願ったから答えが得られるわけでもない。
ほんの一瞬。
偶然のように未来が垣間見える。
それだけだった。
だからこそ、ウィッチはこれまで何度も、見えた未来の意味を考え続けてきた。
そして時に、その一瞬の光景が世界の命運を左右することすらあった。
「……見えた」
ウィッチの口から、小さな声が漏れる。
水晶の光が、ゆっくりと強くなっていく。
部屋にあった蝋燭の炎が、その光に押されるように揺らめいた。
水晶の中に、景色が浮かび上がる。
それは――赤い森だった。
無数の木々が立ち並び、地面には赤く染まった葉が降り積もっている。
風が吹くたびに木々がざわめき、赤い葉が宙へ舞い上がる。
その美しい光景の中に、不釣り合いなほど荒々しい気配が混じっていた。
そして、その森の中を――一人の少年が走っていた。
「……」
ウィッチの表情が僅かに強張る。
少年の姿は、遠くからでも分かるほど傷だらけだった。
服は破れ、身体のあちこちから血が流れている。
足取りも重い。
それでも、少年は止まらなかった。
何度も足を取られながら、それでも前へ進んでいる。
何かを守るために。
傷だらけの身体とは裏腹に、その瞳には強い光が宿っていた。
「……この子は……」
ウィッチが目を細める。
知らない少年だった。
少なくとも、今の彼女にはその少年が誰なのか分からない。
だが、なぜか目を離すことができなかった。
その瞬間。
少年の前方に、大きな影が現れた。
森の木々の間から、ゆっくりと巨大な獣が姿を現す。
二つの首。
異常なまでに発達した巨体。
そして、その身体から漏れ出す濃密な魔力。
二つの首を持つ巨大な熊。
通常の魔物とは明らかに違う。
その存在が姿を現しただけで、周囲の木々さえ震えているように見えた。
少年が足を止める。
逃げ道はない。
少年は剣を握り直した。
だが、その腕にはすでに力が残っていない。
次の瞬間。
巨大な熊の腕が振り下ろされた。
少年の身体が吹き飛ぶ。
地面を何度も転がり、赤い葉を大量に巻き上げながら木の根元へと叩きつけられる。
それでも少年は起き上がろうとする。
震える腕に力を込め、地面へ手をついた。
だが――身体が言うことを聞かない。
膝が崩れる。
握っていた剣が、地面へ落ちかける。
「もう、立ち上がることが……」
ウィッチの声が小さく震えた。
少年の身体は、すでに限界を迎えている。
それでも少年は、倒れたまま剣へ手を伸ばした。
その姿を見つめながら、ウィッチは息を呑む。
そして――
未来が動いた。
少年の前に、一人の男が現れる。
いつからそこにいたのか。
どこから来たのか。
それすら分からない。
ただ、気がついたときには、その男は少年と巨大な熊の間に立っていた。
黒い外套。
腰には一本の剣。
男は、巨大な熊を前にしても慌てる様子を見せなかった。
まるで、目の前の怪物など取るに足らない存在であるかのように。
静かに腰へ手を伸ばす。
そして――剣を抜いた。
金属が擦れる音が、森の中に響く。
次の瞬間。
男の姿が消えた。
いや――
消えたように見えただけだった。
一閃。
あまりにも静かな剣撃だった。
巨大な熊が、その攻撃を認識するよりも早い。
一瞬の後。
巨大な身体に傷が走った。
そして――
大地を揺らすような音を立てて、熊の巨体が崩れ落ちる。
森が静まり返った。
風の音さえ遠くなったように感じられる。
水晶の映像が大きく揺らいだ。
ウィッチは目を見開いた。
「……ケイオス……」
その名を口にした瞬間。
未来の景色が再び変化する。
先ほどの少年が映っていた。
今度は、先ほどの剣士――ケイオス・ジャーの前に立っている。
少年は何かを必死に訴えていた。
その表情には、強い決意が浮かんでいる。
そして――
少年は深く頭を下げた。
未来の映像は、そこまでしか見せてくれなかった。
ウィッチは水晶へ顔を近づける。
もっと先を。
もう少しだけ。
少年が何を求めているのか。
ケイオスが何を答えるのか。
二人が出会うことで、何が起こるのか。
それを知ろうとする。
しかし――
映像は、そこで途切れかけていた。
その光景を見て、ウィッチの表情が僅かに変わる。
突然頭に響く声。
「星を紡ぐ……?」
ウィッチが呟いた。
だが、それ以上この未来から読み取ることはできなかった。
水晶の光が弱まっていく。
赤い森が消える。
少年の姿も。
ケイオスの姿も。
やがて、水晶は何事もなかったかのように元の透明な石へ戻った。
ウィッチは目を閉じた。
しばらく、そのまま動かなかった。
未来とは、一本の道ではない。
無数の可能性が絡み合い、ほんの僅かな選択によって姿を変える。
今見えた未来が、必ずそのまま訪れるとは限らない。
誰か一人の行動が変われば。
一つの出来事が起きなければ。
あるいは、ほんの些細な選択が違えば。
未来そのものが別の形へ変わる。
だからこそ、予言とは決して答えではない。
見えた未来は、可能性の一つに過ぎない。
それでも。
今回だけは、ウィッチの中に一つだけ、強く残っているものがあった。
「ケイオス・ジャー……」
ウィッチは、静かにその名を口にする。
ケイオスが真紅の森へ向かう。
それは、数え切れないほど存在する未来の中でも、ひときわ強く残った光景だった。
未来の枝葉がいくつに分かれても、その先に同じ光景が残っている。
そして、その先に――
遠い未来へ続く一本の道が見えていた。
「この少年とケイオスが……何を変えるのか……」
ウィッチは再び水晶へ視線を落とす。
もう映像は消えている。
それでも、先ほどの少年の姿が脳裏から離れない。
傷だらけになりながらも、少年は剣を握り続けていた。
倒れそうになっても。
身体が動かなくなっても。
それでも、立ち上がることを諦めない。
その姿には、ただの少年とは思えない何かがあった。
「まだ、私には分からない」
ウィッチは小さく呟いた。
分からない。
だからこそ――未来は決まっていない。
未来を変える余地が残されている。
彼女はゆっくりと立ち上がった。
長い間座っていた身体を伸ばし、窓の外へ目を向ける。
遠くに見える空は、すでに暗くなり始めていた。
王都の方角には、無数の明かりが見える。
そこでは今も、人々がいつも通りの日常を過ごしているのだろう。
誰も知らない。
これから起こる出来事を。
少年とケイオスが出会うことも。
その出会いが、やがて大きな流れを生み出すことも。
そして――
その少年が、いつか世界そのものを揺るがす存在になることも。
「傷だらけの少年が……星を紡ぐ」
それが、彼女に与えられた予言のすべてだった。
意味は分からない。
結末も見えない。
ただ、その言葉だけが未来の奥底に残っている。
それから数日後。
ウィッチは、ケイオスのもとを訪れていた。
古びた塔とは違い、そこには人の気配があった。
ケイオスは静かな場所で一人、剣の手入れをしていた。
磨かれた刃へ布を滑らせながら、黙々と作業を続けている。
そこへ、ウィッチが姿を現した。
「ケイオス。真紅の森へ行ってほしいの」
唐突な言葉に、ケイオスの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
「……また唐突だな」
ケイオスは腕を組み、目の前のウィッチを見る。
「理由は?」
「予言よ」
「予言?」
「ええ。あなたの人生における、大きな分岐点になるみたい」
「俺の分岐点?」
ケイオスは眉をひそめた。
自分の人生における分岐点。
そんなものが、なぜ真紅の森にあるのか。
彼には見当もつかなかった。
「なんだ、それは」
ウィッチは答えず、しばらく沈黙した。
彼女自身、説明できるほど明確な未来を見たわけではない。
見えたのは、少年。
真紅の森。
そして――ケイオス。
それだけだった。
やがて、ウィッチは首を横に振る。
「詳しくは分からなかった」
「……お前の予言は、いつも肝心なところが曖昧だな」
ケイオスは小さく息を吐く。
しかし、その声音に苛立ちはなかった。
ウィッチの予言が曖昧なのは、今に始まったことではない。ただ、何度もこの予言に助けられてきた。
「未来は、私の都合に合わせて見えるものではないわ」
「分かっている」
ケイオスは剣を置いた。
それから、少しだけ考える。
「それで、俺が行かなければどうなる?」
その問いに、ウィッチはすぐには答えなかった。
視線を落とす。
予言を見た者として、彼女には分かっていた。
ケイオスが行かなければ、あの未来は変わる。
だが――
彼女が見た未来では、ケイオスは必ずそこへ向かっていた。
だからこそ、ウィッチは静かに答える。
「貴方は向かうわ」
しばらくの沈黙。
ケイオスはウィッチの顔を見つめる。
やがて、苦笑した。
「お前がそう言うときは、大抵ろくなことにならない」
「今回は、いつも以上に重要なの」
「そうか」
ケイオスは立ち上がった。
部屋の隅に置かれていた剣へ手を伸ばす。
鞘に収まった剣を確認し、その重みを確かめるように一度だけ握る。
そして、そのまま腰へ戻した。
「分かった。行く」
ウィッチは何も言わなかった。
ただ、ケイオスの姿を静かに見つめていた。
「……」
「ただし」
ケイオスが振り返る。
その表情から、先ほどまでの軽い笑みが消えていた。
「何が起きるか分からない以上、俺は俺の判断で動く」
「それで構わないわ」
ウィッチは静かに頷いた。
「あなたが何を選ぶのかも、未来の一部だから」
ケイオスはその言葉を聞くと、少しだけ笑った。
「相変わらず、難しいことを言うな」
そう言って、部屋を出ていく。
扉が閉じる。
その音が静かな部屋に響き、やがて消えていった。
ウィッチは閉じられた扉をしばらく見つめていた。
そして、ゆっくりと水晶へ歩み寄る。
透明な水晶には、もう何も映っていない。
それでも彼女には見えていた。
間もなく、歯車が動き始める。
一度動き始めた歯車は、もう簡単には止まらない。
ケイオスが真紅の森へ向かう。
そこで一人の少年と出会う。
その出会いが、少年の運命を変える。
そして――
いつか、その少年の存在が世界そのものを変えることになる。
ウィッチは水晶にそっと手を触れた。
冷たい。
どれだけ触れても、未来から答えが返ってくることはない。
だからこそ、彼女は祈るように目を閉じた。
「……どうか、間に合って」
誰に向けた言葉なのか。
それは、ウィッチ自身にも分からなかった。
ただ、水晶の奥に残った未来の残像だけが、彼女の瞳に焼き付いていた。
まだ見えない未来。
まだ決まっていない未来。
それでも――
あの少年とケイオスの出会いが、遠い未来へと続く何かの始まりになる。
ウィッチは、そう信じていた。




