7-1-9 伊吹山の荒ぶる神2
山頂にたどり着いた小桜は、思わず息を呑んだ。そこには、まるで彼女がここまで来ることを待ち構えていたかのように、一頭の巨大な白い大猪が佇んでいた。
その毛並みは雪のように白く、陽の光を受けて鈍く輝いている。だが、そこに神聖さは感じられなかった。冷たく傲慢な気配をまとい、大猪は悠然と小桜を見下ろすと、鼻を鳴らした。
「フン、ずいぶんと調子のいい奴だな」
低く響く声には、苛立ちが滲んでいる。
「まさか、ここまで登ってくるとは思わなかったぞ。せっかく登山道を崩し、忌々しいロープウェイも廃線に追いやったというのに……」
小桜は神刀・千早宗近を握りしめ、一歩前へ出た。
「……まさか、あなたが神?」
大猪はククッと喉を鳴らし、蔑むように笑った。
「“まさか”じゃない。ワシはこの伊吹山そのもの。山の神だ」
その言葉に、小桜は眉をひそめる。
「じゃあ、あの落石も雹も、全部あなたが?」
大猪は答える代わりに、得意げに鼻を鳴らした。
「神を侮るなよ。ワシはこの山の支配者であり、ここに訪れる者を選ぶ権利がある。貴様のような無礼者に登られるなど、不愉快極まりない!」
怒気をはらんだ声が響いた瞬間、大猪の身体がみるみる膨れ上がった。
巨体がさらに巨大化し、まるで山そのものが動き出したかのような威圧感が山頂を覆う。筋肉の塊のような四肢が地面を踏みしめるたび、岩が砕け、足元が震えた。
その巨体は、もはや小桜の想像を超えていた。大型トラックの二十倍、五百トン級のダンプほどはあるだろうか。その圧倒的な質量が、ただそこに存在しているだけで恐怖を生み出している。
山神は鋭い牙をむき出しにし、挑発するように笑った。
「さあ、人間よ。どうやってワシを倒すつもりだ?」
小桜は刀を構え、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「まさか私と相撲でも取ろうっていうの? ちょっと自信あるわよ?」
その言葉に、山神の目がぎらりと光った。
「ほざけッ!」
瞬間、山神の巨体が閃光のごとく動いた。
轟音とともに地面を蹴り、一瞬で小桜との距離を詰める。その速度は、信じられないほど速かった。これほど巨大な身体が、まるで弾丸のように空間を切り裂いて迫ってくる。
小桜は直感的に悟った。まともに受ければ、金牛の鎧をまとっていても衝撃でしばらく動けなくなる。
防御は捨てるしかない。
小桜は全力で回避に徹した。
「ルナティック・ラッシュ!」
生命エネルギーが身体を駆け巡り、残像を伴って横へ跳ぶ。直後、山神の突進が地面を抉り、岩が砕け散った。その衝撃だけで身体が吹き飛ばされそうになる。
「ちょっ、速すぎる!」
回避するたびに、背後で轟音が鳴り響く。山神の突進は止まることなく、次々と軌道を変えながら小桜を追い詰めていく。
その速さ、破壊力、持久力。どれを取っても規格外だった。
山神は鼻を鳴らし、軽く地面を蹴った。その小さな動きだけで、地面が震える。
「さっきまでの威勢はどうした? 剣を振りかざして、神に挑もうとしていたのは誰だったかな?」
その声は、あからさまな嘲笑に満ちていた。
小桜は拳を握りしめる。だが、言い返す言葉が見つからない。
「逃げるだけなら、山を登る前に引き返せばよかったものを!」
山神が嗤った瞬間、突進による強烈な圧力が小桜の全身を襲った。歯を食いしばり、必死に踏みとどまる。それでも、反論する余裕など残されていなかった。
何度も避け続けるうちに、小桜の呼吸が大きく乱れ始める。
「しまっ……」
最後の回避が遅れた。
山神の巨大な影が視界を覆い尽くし、その巨体が小桜へ迫る。
(……間に合わない!)
絶体絶命を悟った、その瞬間だった。
突如、白い影が天から舞い降りた。
「えっ──?」
視界が一瞬、純白に染まる。
突風のような羽ばたきが空気を震わせた。巨大な翼が風を掴み、白い鳥は小桜をくわえると、そのまま軽々と天へ持ち上げていく。
乱れた髪が顔にまとわりつくが、それを気にする余裕もない。重力から解き放たれたような感覚が全身を包み、山頂も山神も、みるみるうちに遠ざかっていく。
驚きに目を見開きながら、小桜は自分を助けた存在を見上げた。
それは、大きな白鳥だった。
ただの白鳥とは思えない気配をまとい、日の光を受けた白い翼は、この世のものとは思えないほど神秘的な美しさを宿している。
「……まさか、あなたは……」
小桜は息を呑み、問いかけた。
「ヤマトタケルノミコト……様?」
白鳥は答えない。
ただ大きく翼を羽ばたかせるたび、風が小桜の耳元を鋭く通り過ぎていく。まるでこの世界から引き離され、別の場所へ連れ去られていくような感覚に、小桜は高鳴る鼓動を抑えられなかった。
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