7-1-10 小桜とヤマトタケル
白鳥の翼が大気を裂き、小桜を天高く舞い上げる。急激な上昇に身体が強ばり、心臓の高鳴りを抑えられない。眼下には伊吹山の荒れた大地と、その山頂を徘徊する白い巨大猪の姿があった。
「ありがとうございます……あなたは、ヤマトタケルノミコト様ですか?」
小桜の問いに、白鳥は心の奥へ直接響くような声で静かに答えた。
「今の姿のままでは、名乗る資格もない。ただ、一つだけ言える。あの獣を討ち、私の無念を晴らしてほしい」
その声音には深い哀しみがあった。それでも、その奥には長い歳月を越えてなお消えない、強い決意が宿っている。
「頭上から狙えば、奴の動きを制限できる。私が落とす。お前の剣で仕留めよ」
眼下では、標的である山神が苛立ったように動き回っていた。巨体を揺らしながら岩を砕き、地面を踏み鳴らしている。その姿を見据え、小桜は千早宗近を構えた。
「行きます!」
白鳥が翼を畳み、一気に急降下する。風圧が小桜の身体を包み込み、山神の姿が急速に大きくなっていく。
やがて白鳥が嘴を開くと、小桜の身体が宙へ放たれた。
重力に引かれるまま、小桜は山神へ向かって落下する。
だが、その瞬間、横から突風が吹き抜けた。
「しまっ──!」
身体の軌道が大きく逸れる。
それでも小桜は空中で身をひねり、千早宗近を振り抜いた。刃が巨大猪の肩口を斬り裂く。しかし、分厚い皮膚に阻まれ、刃は深く食い込んだところで止まった。致命傷には届かない。
「ぐっ、人間風情が!」
山神が耳をつんざくような咆哮を上げる。
怒りに震えた巨体が弾かれるように動き、小桜へ牙を向けて突進してきた。
「くっ……!」
辛うじて身を翻してかわしたものの、すれ違いざまに生じた風圧で身体が大きく揺さぶられる。そこへ白鳥が舞い降り、小桜の腕を嘴でくわえると、そのまま再び空へ引き上げた。
「まだ終わりではない。今度こそ、仕留めよ」
「でも、あいつ……速すぎます」
山神は警戒しながら山頂を駆け回っていた。巨体に似合わぬ身軽さで動き続けるため、狙いを定めることさえ難しい。
「……グラビティウム、どうすれば?」
「我が風向き、投下角度、標的の移動速度を計算して落下地点を導き出してやろう」
魔導AIが即座に演算を始める。
やがて、最適な投下地点とタイミングが示された。小桜は再び千早宗近を構え、白鳥がその場で翼を大きくはためかせる。
「今度こそ……!」
白鳥が急降下する。
小桜もまた、一気に山神へ向かって落下した。
だが、巨大猪の反応は速かった。牙が閃き、千早宗近の刃を正面から弾き返す。
「きゃっ!」
強烈な衝撃が腕を痺れさせ、小桜の身体が地面へ叩きつけられた。
「またダメ……?」
再び白鳥に引き上げられ、三度目の上昇に入る。
小桜が荒い息を整えていると、白鳥が低く呟いた。
「……草薙の剣の記憶が、完全ではないせいかもしれない」
「記憶?」
「そうだ。私は、あの時、剣を持たずにこの山へ挑んだ。そして敗れた」
白鳥の声が、わずかに震えた。
「私は……驕っていた。剣を持たずとも、山の神を討てると信じていた。そして、敗れて逃げ帰った」
しばらく沈黙したあと、彼は静かに言った。
「剣よ……許してくれ」
その言葉が届いた瞬間だった。
小桜の手の中で、千早宗近が強い光を放った。
刃から溢れた光は、これまでとは明らかに違っていた。清らかな神気が刀身を包み、その輝きが小桜の手元から空へ伸びていく。
「……そうか。ようやく、許してもらえたのか」
白鳥は千早宗近の輝きを見つめ、微かに目を細めた。その声には安堵が滲んでいたが、長い歳月にわたる後悔の影もまだ残っている。
やがて、彼は静かに顔を上げた。
「我が未練、今ここに断たれた……。ならば、この剣を継ぐ者よ。そなたの手で、新たな伝説を刻むがいい」
地上では、山神が苛立たしげに蹄で地面を踏み鳴らしていた。
「貴様……どこまで神を愚弄すれば気が済む?」
怒声が山々に響き渡る。
次の瞬間、山頂を猛烈な突風が吹き抜けた。
「風を操るのか……!」
白鳥の巨体さえ風に煽られ、飛行が大きく乱れる。小桜の身体も空中で振り回され、山神はそれを見て鼻を鳴らした。
さらに強い風が吹き荒れ、小桜を渦の中へ巻き込もうとする。
「こんなもので、落とせると思わないで!」
小桜は金牛の鎧を顕現させた。
両脚を踏みしめるように構えると、金牛の力が全身を支え、強風の中でも身体の軸が揺らがなくなる。まるで足元に見えない大地があるかのように、小桜は空中で姿勢を保った。
「なんだと……?」
山神が目を見開く。
「今だ!」
グラビティウムが即座に風向きと山神の動きを再計算し、投下のタイミングを告げる。
白鳥が一気に高度を下げた。
そして、嘴を離す。
小桜は千早宗近を両手で握りしめ、重力に身を任せて急降下した。狙いは山神の背、その分厚い毛皮に覆われた巨体の中心だった。
今度は、迷いがなかった。
「──一閃!」
千早宗近が閃光を帯びる。
刃は空気を切り裂き、山神の背を正確に捉えた。分厚い毛皮を断ち、肉を裂き、その奥にある骨さえも一気に断ち切る。
「ギ、ギャアアアアッ!」
山神が凄まじい悲鳴を上げた。
その巨体が大きく震え、みるみるうちに縮んでいく。
「そんな……馬鹿な……!」
巨大な姿が見る間に元の大きさへ戻る。
山神は地面を転がるようにして身を起こすと、そのまま山の奥へ逃げていった。
「……終わった?」
小桜は荒い息を吐きながら、逃げていく白い影を見送った。
「まったく、逃げ足も一流だわ」
そのとき、白鳥が小桜の隣へゆっくりと降り立った。
静かに翼を畳む。
すると、その羽根の間から柔らかな光の粒がこぼれ始めた。光は霧のように白鳥の身体を包み込み、やがて一つの人影を形作っていく。
次の瞬間、そこに立っていたのは、まるで神話の世界から抜け出してきたような青年だった。
艶やかな黒髪が肩へ流れ、涼しげな瞳は月光を宿したように澄んでいる。男らしい力強さを備えながらも、その顔立ちにはどこか女性を思わせるしなやかさがあった。
「よくぞ、やり遂げた……」
青年は静かに微笑み、風に揺れる衣の裾をなびかせながら小桜を見つめた。
「ヤマトタケルノミコト様!」
小桜が声を上げる。
青年は答える代わりに、彼女の手にある千早宗近へ視線を向けた。
「この剣は、もはや草薙の剣ではない。新たなる名を持つべきだ」
そして、そっと刀身へ手を触れる。
「今から──獣薙の剣と名乗るがよい」
小桜は剣を握り直した。
「獣薙の剣……」
その名を、噛みしめるように繰り返す。
ヤマトタケルは満足げに頷いた。
「この剣と共に進め、新たなる英雄よ」
その言葉を最後に、彼の姿が徐々に薄れていく。
「お待ちください……!」
小桜が手を伸ばす。
だが、ヤマトタケルは微笑んだまま、風に溶ける霧のように消えていった。
静かな風が吹く。
伊吹山の頂に、小桜は新たなる神刀とともに立っていた。
ゆっくりと千早宗近──いや、獣薙の剣を鞘へ納める。
そして、深く息をついた。
「……ありがとうございます」
それはヤマトタケルへ向けた言葉であり、同時に、ここまでともに歩んできた剣へ向けた感謝でもあった。
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