7-2-25 物語の核心
スサノオは意気消沈したまま、夕暮れの光に染まる市場をあてもなく歩いていた。荒ぶる神にしては珍しく肩を落とし、人々の賑わいも耳に入らない。気づけば、足は広場へと向かっていた。
通りを抜けた先の広場では、女神が音楽に合わせて踊っていた。柔らかな布が風をはらみ、彼女の身体は宙を舞うようにしなやかに動く。その踊りには、どこか奔放なところがあった。
アメノウズメだった。
彼女はスサノオに気づくと踊りを止め、軽い足取りで歩み寄ってきた。
「よ、スサノオ様。どうしたの、そんな顔して。それより踊らない? 気が晴れるよ?」
「……ウズメ。兄貴に何か、恨みでもあったのか?」
スサノオは疲れの滲む顔で、正面から彼女を見据えた。
ウズメはあっけらかんと笑い、舌をぺろりと出した。
「うん、バレちゃったみたいね。まあ、しょうがないか」
スサノオが眉を寄せても、ウズメの口調は軽いままだった。
「昔さ、ツキヨミ様に求愛したのよ。冗談半分で。でもさ、あの男、真顔で断るの。傷ついたってわけじゃないけど、ちょっとだけ……腹が立ったんだよね」
「……だから偽造の命令書を?」
「懲らしめてやろうと思ったの。大げさになったのは、まあ、皆が勝手に話を膨らませたからで……私はちょっと『遊んだ』だけ」
その言葉を聞いた途端、スサノオの表情が崩れた。
「くだらない……そんなことで……兄貴は……!」
その先は言葉にならなかった。唇が震え、視界が滲んでいく。やがてこらえきれず、スサノオは声を上げて泣いた。鬼神と恐れられるその神が、肩を震わせ、ただ兄のために泣いていた。
ウズメはばつが悪そうにうつむき、それ以上は何も言わなかった。
—-
山道を登り切った先に、それはあった。
苔むした岩場に、ただひとつの鏡が立っている。人の背丈ほどもある楕円形の板は、金属とも石ともつかぬ鈍い質感を帯びていた。枠も脚もなく、まるで大地から生えてきたかのように、そこに在った。
湿った岩肌からは水が湧き出し、細い流れとなって鏡の足元を静かに潤している。鳥の声は遠く、風音さえ岩の合間で途切れている。
その場所だけが、時間の流れから外れているようだった。
鏡面には何も映っていない。ただの水面のようにも見えたが、近づくにつれて、その奥底に底知れぬ何かが潜んでいる気配が強まった。
今にも吸い込まれそうな感覚に、杏子は思わず一歩退いた。
「これが……」
スサノオがうなずく。
「朔の鏡。ツキヨミ兄貴を封じた場所だ」
周囲には注連縄も鳥居もなかった。岩の裂け目から湧き出す水が鏡の足元を満たし、その一帯だけが静かに輝いていた。
鏡の裏には古い文字が刻まれていたが、その文字は苔に覆われ、意味を読み解くには時間がかかりそうだった。それでも、この鏡が何かを閉じ込めていることだけは、疑いようがなかった。
神々がここに集まったのは、先日、イシコリドメ、アメノコヤネ、アメノフトダマ、タマノオヤ、そしてアメノウズメの五柱が連名でアマテラスに陳情したためだった。
「ツキヨミ様の罪は誤解によるものであり、私たちにも責任があります」
そう訴えた五柱を前に、アマテラスは長らく封印していた朔の鏡の前に立ち、ため息をついた。
「ツキヨミ……わらわはお前の姉でありながら、お前のことを何ひとつ知らなかったのだな」
アマテラスは静かに鏡へ語りかけた。
「お前がしたことの真意を聞きもしないで、わらわはただ、怒りに任せて罰した。わらわの正義を押しつけて、それで高天原の平穏が保たれると信じていた……」
鏡の向こうには、おそらくツキヨミがいる。手を伸ばせば届くはずなのに、鏡一枚を隔てたその距離は、途方もなく遠かった。
「もしお前が、ただわらわの許しを待っていたのだとしたら……わらわが先に、手を伸ばすべきだった。姉として」
その声は、太陽のように輝かしいものではなかった。沈みゆく夕日のように、切なく、優しかった。
「ツキヨミ……わらわは、まだ間に合うのだろうか」
その問いは、誰かに答えを求めるというより、自分自身に捧げる祈りのようだった。
スサノオと杏子、そして八百万の神々が見守る中、アマテラスは朔の鏡の封印を静かに解いた。鏡の奥に白く淡い光が満ち、どこか別の空間へ通じる道が開かれたように見えた。
「ツキヨミ、聞こえるか? ……もう、誤解は解けた。出てくるがよい」
アマテラスはそう呼びかけ、鏡の縁に手をかけた。
その瞬間──誰かの手が彼女の背中を押した。
「えっ」
アマテラスの身体は、抵抗する間もなく鏡の中へ吸い込まれていった。
「姉上ぇ!!」
スサノオの絶叫が岩場に響いた。
だが、誰も彼女を押した者の姿を見ていなかった。鏡の中には、もう光すら残っていない。
周囲が一気に闇に包まれた。太陽神の消失に、天も地も一瞬にして沈黙したかのようだった。
「なんだよこれ……誰が押したんだ!? 誰だっ!!」
スサノオは叫び、暗闇の中で周囲を見回した。だが、誰も答えられなかった。
「それよりも、早くお助けしないと!」
「誰か! 再び封印を解ける神はおるか!」
「無理だ、アマテラス様以外には……」
神々の怒声や焦燥に満ちた問いかけが入り乱れ、岩場を震わせる。足音がせわしなく交錯し、何柱もの神々が鏡を取り囲んでいた。
杏子も愕然と鏡を見つめ、震える声でつぶやいた。
「これで終わりじゃ……なかったの?」
それまで黙っていた仮面が、いつものようにくぐもった笑い声を上げた。
「ふふ……忘れてた? これは八咫の鏡の『誕生秘話』。物語はようやく、核心に入ったのだよ」
その言葉に、杏子の背筋を冷たいものが走った。
朔の鏡は何も応えない。鏡面は黒く濡れたように沈み、そこには誰の姿も映らず、ただ果てしない闇だけが広がっていた。
「いやはや、これが後世に名高い『天岩戸伝説』の始まりとは。神々ですらご存じなかったようでございますな」
神々の喧騒を拒むかのように、鏡の前には沈黙が居座っていた。
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