7-2-21 夢の国へ2
杏子が呆然と立ち尽くしていると、遠くから地鳴りにも似た轟音が響いてきた。街の雑踏がにわかにざわめき、何事かと振り返った杏子の目に飛び込んできたのは、二頭の巨大な馬に引かれた金属製の二輪馬車──チャリオットだった。
「ちょ、ちょっと待って、何で止まらないの!?」
言い終える間もなく、チャリオットは猛スピードで群衆へと突っ込んできた。杏子は咄嗟に飛び退いたものの、勢い余って地面を転がり、どうにか衝突を免れた。馬車の周囲では悲鳴が上がり、人々は我先にと逃げ惑い、通りはたちまち混乱に包まれた。
「何だ、今のは!?」
「スサノオ様だ! またあの方だ!」
「アマテラス様のご一行に突っ込んだぞ!」
飛び交う声のなか、輿の中から一人の女性が飛び出した。眩い金の装束をまとい、白金の髪を風になびかせている。整った顔立ちには成熟した女性の落ち着きがあり、その眼差しには人々を導く者の威厳が宿っていた。
アマテラス――高天原の女神にして、その国を治める者だった。
彼女は負傷した人々のもとへ駆け寄ると、次々に治癒の魔法を施していった。掌から放たれた光が傷口を包み、裂けた皮膚を塞いでいく。先ほどまで響いていた悲鳴は、やがて痛みから解放された人々の安堵の声へと変わっていった。
その一方で、チャリオットの座席から男がのそりと立ち上がった。長い髪に無精髭、顔立ちにはどこか少年の面影が残っている。その目には、周囲の混乱を楽しむかのような危うい挑発の色が浮かんでいた。
「悪い悪い、みんな無事か? いやあ、馬がちょっと元気良すぎてさ」
まるで他人事のように笑う男に、アマテラスが険しい声を浴びせた。
「……またあなた? スサノオ、いい加減にしなさい。みんな本当に迷惑してるのよ」
「だってさあ、姉上がちょちょいって治すから、俺がどんだけ暴れても問題ないだろ?」
スサノオはつまらなそうに鼻を鳴らし、地面に唾を吐いた。
「じゃあ、こうしようぜ。あの湖、酒で満たしてくれたら、しばらく大人しくしてやるよ」
「そんなくだらないことが許されるわけないでしょ!」
アマテラスの怒声にも、スサノオは堪えた様子を見せなかった。むしろ、姉の反応を面白がるように口の端を吊り上げた。
「じゃあ、ツキヨミ兄の時みたいに俺のことも封印してみなよ!」
その言葉に、周囲のざわめきが一段と大きくなった。杏子のそばにいた年配の女たちも顔を見合わせ、声を潜めて囁き合っている。
「最近ツキヨミ様の姿を見ないと思っていたけど……」
「やっぱり封印されたのね……鏡の中に……」
耳に入った言葉に、杏子の背筋が凍った。
「鏡の中って……まさか……」
頭の中で、毒蛇の仮面がくつくつと笑った。
「可愛い顔してやることがエグいよねぇ、アマテラス様ってば」
「朔の鏡……あれってアマテラスが作ったの?」
杏子が問いかけると、仮面は何食わぬ声で答えた。
「そんなこと、吾輩が知るわけなかろう? ほれ、知りたければ……あの男にでも聞いてみな」
杏子は視線を戻した。アマテラスが負傷者の治療に専念するなか、スサノオは通りの真ん中に立ち尽くしていた。その目からは先ほどの挑発的な光が消え、どこか寂しげな色がのぞいていた。彼は治療を続ける姉の姿を、黙って見下ろしていた。
杏子はその様子をしばらく眺めてから彼に近づき、ぽつりと呟いた。
「……スサノオ。今よりずいぶん若いんだね」
間近で見ると、やさぐれた風貌に反して、顔立ちは驚くほど整った青年だった。長い睫毛とすっと通った鼻筋には、どこかアマテラスにも似た面差しがあり、姉弟らしい共通点を感じさせた。
(これがあの髭オヤジになるのか……神様だって、変わるもんだね)
思わず口元を緩め、杏子はもう少しだけ距離を詰めた。するとスサノオは杏子に目を向け、露骨に不機嫌な顔で睨みつけてきた。
「……何だテメェは」
声までひどく尖っていて、まるで不良少年そのものだった。
だが、スサノオはそれ以上杏子に関心を示さず、すぐに顔を背けた。ぶつぶつと独り言をこぼしながら、チャリオットを路上に放置して歩き去っていく。
「ったく……文句ばっかり……俺だけが悪いわけじゃねえのに……」
杏子はその背中を見送り、少し考えてから後を追い始めた。
(……この夢って、没入型アトラクションみたい)
ここで演じられているのは、過去の出来事を再現した芝居のようなものだ。演者たちはあらかじめ決められた行動をなぞり、観客が話しかけたところで、その反応まで変わるわけではない。先ほどのスサノオも、杏子の声には反応したものの、彼女個人に興味を持った様子はなかった。
その思考に、頭の中の声が割って入った。
「いやはや、お嬢さんの動きは台本にございませんが……! 即興もまた、舞台の華ってやつですなぁ!」
「つまり、過去を忠実に再現しているわけじゃないのね。お前が手を加えているの?」
「んふふふふ、さあ、どうかな? 吾輩はただ、ちょいと小道具を仕込んだだけ。だが、演者たちが思いのほか見事に動いてくれるものでねぇ、思わず座布団でも投げたくなります」
「どこまでが事実で、どこからがお前の茶番なのやら……」
杏子は呆れたように呟きながら、街の喧騒に紛れていくスサノオの背中を見つめた。仮面の言葉をそのまま信じるわけにはいかないが、少なくとも、目の前の光景が過去の記憶をそっくりそのまま再生したものではないことは確かなようだった。
「あ、ついでに言っておくけど、このチャリオットは吾輩の発案! どう? なかなか派手な『演出』だったでしょ?」
「……お前、ほんと性格悪い」
「称賛と皮肉は紙一重、そして我が毒は演劇のスパイスよ。さあ、幕はすでに上がっておる。続きが見たいのなら、そろそろ着席してくれたまえよ」
「ヤバッ、見失っちゃう」
杏子が慌てて視線を戻すと、スサノオの姿はちょうど角を曲がるところだった。彼女はすぐさま足を速め、その背中を追いかけた。
「さあさあさあ、名場面のご案内〜! ただ今より、問題児の神・スサノオによる大暴れショーの再演となりまーす!」
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