7-2-20 夢の国へ1
意識が戻ると、杏子は重い瞼をゆっくりと持ち上げ、天井を見上げた。
見覚えのない天井板に、古びた木の梁。鼻先をかすめるのは、長いあいだ人の暮らしが染みついた木材と、わずかな埃の匂いだった。どこか懐かしい気もするのに、その感覚を確かな記憶へと結びつけることができない。
「いやいや、お嬢さん。ここはお前が見たことのある場所だろう?」
不意に、頭の中へ声が響いた。聞き覚えのある、芝居がかった調子だったが、杏子はまだ声の主を思い出せなかった。視線を巡らせ、古びた木造の調度に目を留めた瞬間、背筋を冷たいものが這い上がる。確かに知っている。ここを知っている。だが、その先にある記憶を思い出すことを、身体のどこかが拒んでいた。
きぃ、と軋んだ音を立ててドアが開いた。
「お、おい、大丈夫か? 気がついたんだな」
男が心配そうな顔で近づいてくる。その顔を見た瞬間、杏子の全身が凍りついた。
「……ジス!?」
男は安堵したように、さらに歩み寄ろうとした。だが、杏子は身じろぎひとつできなかった。いや、動けないのではない。目の前の男に近づかれたくない。声を聞くことさえ、顔を見ることさえ、耐え難かった。
男の名はジス。流れ者だった杏子を保護した、この土地の住民だった。だが、優しげな笑みを浮かべながら、その裏では杏子を「商品」として奴隷商人に売り渡した裏切り者だ。あのときと同じ笑顔が、今も目の前にあった。
「お前……最低……ッ!」
胸の奥から怒りが一気にこみ上げた。杏子は反射的にベッドから飛び起き、ジスの頬に拳を叩き込んだ。
「ぐっ……な、なにするんだ!?」
よろめいて倒れ込むジスを振り返りもせず、杏子は部屋を飛び出した。
古びた廊下を駆け抜けるうち、記憶が少しずつ輪郭を取り戻していく。かつて「アーゼラ」と呼ばれていたこと。禁術級の大魔法を発動させようとした際、何者かの妨害を受け、時空の狭間へと放り込まれたこと。そして、長い漂流の末にたどり着いたのが、この世界だったこと──。
「ふふん、ずいぶんと乱暴な目覚めだな」
再び声が響いた。今度は、杏子にも声の主がはっきりとわかった。
「お前……毒蛇の仮面……? 何なの、これは。夢でも見てるの?」
「半分正解。夢と呼ぶもよし、現実そっくりのシミュレーションと呼ぶもよし。まあ、好きに解釈してくれたまえ。お嬢さんは今、八咫の鏡が見てきた世界を追体験しているのさ」
杏子は足を止め、乱れた呼吸を整えた。
「じゃあ……ここが……高天原……?」
「ピンポーン! 人間の目には幻想と映ろうが、ここは確かに神々の国の黎明。さぁ、お楽しみの時間だ!」
杏子は再び歩き出し、建物の外へ出た。坂道に沿って石畳の通りが延び、幾何学模様を刻んだ魔導灯が宙に浮かんでいる。その傍らでは、空中に術式を書き記しながら水を操る者たちがいた。かつて目にした街並みが、記憶の中にあった姿そのままに広がっていた。懐かしさが胸をかすめたのも束の間、杏子の目に別の光景が飛び込んできた。
奴隷商人が、魔法を使えない子供たちを引き連れて歩いていた。鎖につながれた少女がふと顔を上げ、杏子と目が合う。その瞳は恐怖と諦めに沈んでいたが、奥底には、誰かが助けてくれるのではないかという微かな期待も残っていた。
「こんなのが……神の国、だなんて……っ」
「ふふ、善悪なんてのは、時代で変わるもんさ。君たち人間だって、似たようなことしてたろ?」
仮面の揶揄する声に、杏子は眉をひそめた。言い返したい気持ちはあったが、目の前の光景を前に、言葉はすぐには出てこなかった。奴隷の列を見つめるうち、杏子は一人の少女に目を留めた。
(……あの子)
どこかで見たような顔だった。かつて自分を助けてくれた少女の面影が、ふと脳裏をかすめる。
杏子は咄嗟に動いていた。
列の隙を見つけて素早く近づき、少女の拘束を外す。驚いて目を見開いた少女の手を引き、杏子は人目を避けて路地裏へと駆け込んだ。
「ついてきて!」
少女は戸惑いながらも頷き、杏子の後を追って走った。
「おいおい、無意味なことを……これは夢だって言っただろ?」
「それがどうしたのよ……あの時、私は……!」
追っ手の気配がないことを確かめ、少女をひとまず安全な場所へ連れていくと、杏子は足を止めた。息を整えながら顔を向けると、少女はじっと杏子を見つめていた。何かを問いかけるようなその眼差しに、杏子は思わず視線を返す。
「慈悲深いごっこ遊びは楽しいかい? だが、夢の中でも時間は流れる。八咫の鏡がこの世界に現れる決定的瞬間を見逃すのは、さすがにまずいんじゃないかな、お嬢さん?」
冷やかすような声に、杏子は顔を上げた。少女の手を引いてここまで走ってきたことも、自分が何のためにここにいるのかも、今さらのように意識に浮かび上がる。
(らしくもない……)
杏子は少女の手を振り払い、一人で歩き出した。
「……そういえば、奴隷商人から逃げた私は、どこかの神殿でお前を見つけたんだった」
「おお、よくぞ思い出した! 記念すべき出会いだな! まさに運命、いや、悪縁の始まりってやつかね?」
「あのときも、お前は気味の悪い声で囁いてきた……けど、この世界に絶望していた私には、それが福音に思えたのよ」
「いやぁ、自由の戦士気取りで奴隷を助けて、過去の回想でセンチメンタル。まったく、見てて飽きないねぇ、君は。でも、そろそろ遊びは終わりにしよう。もうすぐ主役が登場するからねぇ」
そのとき、通りの向こうから雅な衣をまとった一団が姿を現した。行列の中央では、金の冠を戴いた女性が荘厳な輿に乗り、周囲の者たちに守られながらこちらへ進んでくる。その姿を目にした途端、杏子は思わず息を呑んだ。
「……なに、あれ……?」
「アマテラスのお出ましだ! さあさあ、お嬢さん。うまくやれよ? せっかくのショータイムだ」
「うまくやれって言われても……」
行列が近づくにつれ、周囲の空気も張り詰めていく。杏子はその場に立ち尽くし、近づいてくる輿を見つめていた。
これは夢だ。八咫の鏡が見てきた過去を再現した、記憶の追体験にすぎない。それでも、そこにいるアマテラスの威容は、夢という言葉では片づけられないほど確かなものだった。
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