7-1-16 オオクニヌシの降臨
オオクニヌシは困っていた。
自分が神であることは確かだったが、最近ではその自覚さえ、少しずつ薄れている。
それも無理はない。彼はかつて地上を治めていた神だったが、アマテラスの孫に国を譲ってからというもの、すっかり気が抜けてしまった。かつては神々の会議にも顔を出していたものの、最近では誘われることも減り、たまに声を掛けられても「まあ、僕なんかが出てもな……」と適当に断っているうちに、気がつけば神々の中での立場は、限りなく低いものになっていた。
だからこそ、あの緊急会議で自分の名が呼ばれた時には、耳を疑った。
アマテラス奪還という歴史的な任務。それも、名だたる神々を差し置いて、自分がその役目を任されるというのだ。
「どうして僕なんだ……」
天を仰いでも、答えは返ってこない。
そもそも、自分には大した力もない。国を譲ってからは特に鍛錬をしているわけでもなく、人間たちが頭を下げてきても、「いやいや、もう引退した身だから」と適当に受け流してきた。
それでも、頼まれてしまったからには、やるしかない。
「まあ、人間の少女に命を伝えるだけなら、僕でもなんとかなるか……」
そう自分に言い聞かせるように呟くと、オオクニヌシは人間界へと降り立った。
—-
指定された家は、静かな住宅街にある古風な一軒家だった。
神が降臨する場所としては、あまりにも地味である。だが、オオクニヌシは特に気にすることもなく、玄関の前に立つと「失礼するよ」と声を掛け、扉を軽く叩いた。
すると、すぐに中から足音が駆け寄ってきた。
ガラリと戸が開かれる。
目の前に現れたのは、十代半ばと思しき少女だった。肩までの黒髪を後ろで結び、制服らしいブレザーを着ている。
少女はオオクニヌシの姿を見るなり、目を大きく見開いた。
「──神様……!?」
驚きのあまり、少女が一歩後ずさる。
「君、僕が神だと分かるのか?」
「わ、分かります! そんな……どうしよう、お母さん! お父さん! 神様が降臨なさいました!」
少女が叫ぶと、家の奥から慌ただしい足音が聞こえてきた。
やがて父親と母親らしき二人が姿を現すと、オオクニヌシの姿を見た瞬間、揃ってその場に土下座した。
「こんな家においでくださるとは……!」
「神様! どうかお許しを!」
「いや、別に怒っているわけじゃないぞ」
オオクニヌシが慌てて制止しようとする。
だが、時すでに遅しだった。
母親は台所へ駆け込み、父親は酒を取り出し、少女は座布団を並べて「どうぞお掛けください」と必死に勧めている。いつの間にか、神を迎えるというより、親戚の大切な客を迎えるような騒ぎになっていた。
(……これは、話を切り出すタイミングを完全に逃したな)
そう思ったものの、せっかくの厚意を無下にする理由もない。
オオクニヌシは差し出された杯を受け取った。
「では、遠慮なく」
口をつけると、思った以上にうまい。
柔らかな甘みとまろやかな口当たりが舌に広がり、思わず目を細める。
「これは良い酒だな」
「地元の酒蔵から取り寄せたものです!」
少女が誇らしげに答えた。
「ほう、それは素晴らしい」
オオクニヌシは杯を干した。
すぐに二杯目が注がれる。
今度は少しゆっくり飲もう──そう思っていたはずなのだが、気がつけば三杯目に手を伸ばしていた。
(まあ、これくらいはいいだろう……)
それが間違いだった。
杯を重ねるたびに気分が良くなり、いつしか緊張感はすっかり消え失せていた。アマテラスを助けるという重大な任務も、神々の会議で託された言葉も、今はどこか遠いところにある。
結局、用件を切り出せないまま酒宴は続き、しまいには布団まで用意されてしまった。
「お疲れでしょう。どうぞお休みください!」
「うむ……では、少しだけ……」
そう答えて横になった瞬間、オオクニヌシの意識は闇の中へ落ちていった。
—-
翌朝。
オオクニヌシは、自分が畳の上で寝こけていたことに気づいた。
障子越しに差し込む朝の日差しが、ぼんやりと部屋を照らしている。
「……しまった」
慌てて身を起こすと、布団の横に座っていた少女が心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫ですか? お酒、ちょっと飲み過ぎたみたいですね」
「……すまん」
オオクニヌシは額に手を当て、深いため息をついた。
昨夜の記憶が、少しずつ蘇ってくる。
自分は一体、何をしに人間界へ来たのだったか。
「それで、神様……いったい、どのような御用件で?」
少女が改まった声で尋ねる。
その瞬間、オオクニヌシの胃の奥が冷たくなった。
そうだった。
自分は遊びに来たわけではない。
「えっと……それは、だな……」
どう考えても、今さら昨夜と同じ調子で話を続けるわけにはいかない。だが、ここで命を伝えなければ、神々から任された役目を果たすこともできない。
オオクニヌシは一度、深く息を吸った。
「……実は、アマテラスを助けてほしい」
少女が瞬きをする。
「アマテラスオオミカミ様を……助ける?」
「ああ」
オオクニヌシは、今度こそ真面目な顔で頷いた。
「詳しく話そう。まあ、その前に一杯──」
そこまで言って、彼は言葉を止めた。
卓上に置かれた昨夜の酒器へ視線を向ける。
「……いや、もう飲まんほうがいいか」
そう呟いて、オオクニヌシは酒器をそっと遠ざけた。
その様子を見ていた少女と目が合うと、彼女は何とも言えない苦笑を浮かべた。
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