58.邪竜
黒雲の間から姿を現した黒い竜。
間違いない。あれは……
「イオ……!」
呟く声が震える。胸の奥が熱くなる。
そして、すぐに気づいた。
イオの瞳が、見たことのないほど深い紫に燃えている。怒りの色だ。
「邪竜だ!!」
「な、なぜ王都に……死の森から出られないはずだろう?」
「逃げろ、逃げろ! 結界が破られた」
「兵士は集合せよ! 急げ!!」
口々に喚きながら逃げ走る人々。
イオの黒い巨躯が宮殿の上を大きく旋回した。
巻き起こった旋風で東家の屋根がバリバリと音をたてて剥がれ、そのまま暗灰色の空へと木の葉のように吹き上げられていった。
「イオ!」
叫んだ声は阿鼻叫喚の嵐に掻き消される。
上空のイオと目が合った気がした。
竜の咆哮が轟き、急降下した巨体が地上すれすれに迫る。
「え、え?」
またも風で転がされているうちに、視界が暗くなった。
鍵爪のついた大きな前脚が、私の体をすっぽりと包んだのだ。
「ひゃあっ!?」
思わず悲鳴を上げる私を持ち上げて、イオが空へと舞い上がる。
宮殿の屋根に着地すると、無人のバルコニーに降ろされた。
『チカ!』
私の頭の中に、懐かしい声が響いた。
竜の姿のまま、イオが語りかけてきたのだ。
『こんなところにいたのか。やっと見つけた……!』
嬉しさ、安堵、それに、よくわからない感情が一気にわきあがる。
固い鱗が並ぶ鼻先を、夢中で抱き寄せた。
「イオ……会いたかった!」
『俺もだ、チカ。遅くなって悪かった。もっと早く探してやればよかった。俺……チカに嫌われたんだと思ってたんだ』
イオの瞳が潤んでいる。その色が菫色に鎮まっていく。
人間の姿でなくても、彼が泣きそうになっているのが伝わってきた。
「嫌いになんてなるわけない。でも、どうして私がここにいるってわかったの?」
尋ねている最中に、うわああああ、と甲高い叫び声がした。
イオの鬣のあいだから誰かが滑り落ちてくる。
くしゃくしゃに乱れた赤い巻き毛に、見覚えがありすぎた。
「ロニー!?」
「あっ、チカ!? よかった、会えた……わあ、目が回るう……」
フラフラのロニーが私に抱きついてくる。
「ロニー、あなたがイオに知らせてくれたの?」
「そうだよ! スイちゃんも森に送り届けたからね!」
「あんなに怖がってたのに……」
「怖かったよ。でも、お守りがあったもん。はい! これ、チカに返すね」
そう言って、ロニーは自分が身につけていたペンダントを私の首にかけた。
イオの鱗のペンダント。
別れ際、私がロニーに渡したものだ。
「ありがとう、ロニー」
宮殿から逃げ出したあと、ロニーはスイちゃんをつれて森に向かい、イオに会って私の危機を知らせてくれたのだ。
それだけじゃない。竜に変身したイオの背中に乗って、彼を王都まで案内してくれた。
イオに対して恐怖心しかなかったはずのロニー。
どれだけの勇気を振り絞ってくれたのか、考えると涙が出そうだ。
「えへへ、チカが生きててよかったあ……これでイオ様と森に帰れるね!」
泣き笑いの表情でロニーが言う。
「うん、ロニーのおかげ……」
笑い返したところで、ぐらりと視界が揺れた。
倒れそうになったのを、小さな体でロニーが支えてくれる。
『チカ!』
イオが焦った声をあげた。
「ごめん、眩暈がしただけ。ねえイオ、一緒に……」
帰ろう。
そう続けようとした私の視界を、イオの片翼が遮った。
ほぼ同時に何かが風を切る音がして、細長い物体がばらばらと降りそそぐ。
ひっと声をあげてロニーが竦みあがった。
「矢だ!」
竜の硬い翼に阻まれ、折れた矢が足もとに散らばっている。
『この俺を殺す気なのか、人間ども。こんなちっぽけな武器で』
イオが唸った。
今まで聞いたことがない、獣のような声だ。
彼の視線は下を向いている。
翼の端から顔を出し、私もバルコニーの下を覗いてみた。
宮殿の中にいた人々も外へ飛び出し、 地上は大混乱に陥っている。
突然現れた巨大な竜に恐れおののき、逃げ走ったり叫んだりしている。
その中に、鉄色に見える人影が集団を作りつつあった。
鎧で身を固めた兵士たちが矢をつがえ、こちらに狙いを定めている。
彼らの後ろに立ち、声を張り上げている人がいた。
ラスティン国王だ。
「殺せ! 邪竜も聖女も殺してしまえ!」
イオの目の奥に赤い光が揺れた。
『あいつらがチカを酷い目に遭わせたんだな。……絶対に許さねえ』
「イオ、何する気!?」
『アスダールの人間を焼き尽くしてやる。国ごとだ』
飛び立つために頭を低くするイオに必死で訴える。
「やめて! 報復なんてしなくていい!」
『お前がよくても俺は嫌だ!』
イオが吠えた。
『人間と仲良くなんて、やっぱり無理なんだよ。あいつら、俺が憎いんだ。今までもずっとそうだった。俺がバケモノだから。チカまで痛めつけやがって』
「全員が悪い人じゃない。わかってくれる人もいるはずよ、試してみよう? 私が話す、イオは邪竜なんかじゃないって!」
『はあ? お前やっぱり馬鹿だろ、お人好しもここまでくると命取りだぞ』
「そうだけど、馬鹿かもしれないけど、私を助けてくれた人だっているの」
話している間に、また矢の雨が降ってきた。
翼で矢を防ぎながら答える声に苛立ちが混じる。
『俺はチカを守りたい。お前を傷つけたやつらを許せねえ。叩き潰してやる、もう二度と手出しされないように』
「だめ!」
巨大な鍵爪のついた脚にしがみついて叫んだ。
「お願い、戦わないで。これ以上傷つかないで。イオはバケモノなんかじゃない。だから誰も傷つけないで。本当のあなたを知ってもらえたら……」
途中で言葉を飲みこんだ。
私を見下ろすイオの目に、怒りと悲しみがないまぜの感情が渦巻いているように見えたからだ。
『本当の俺なんて、お前だけが知っててくれればいい。他には誰もいらねえよ』
静かにイオは言った。
翼の先で私の体を押し、強引にバルコニーの奥へと追いやると、自分は宮殿の屋根に飛び移る。
『おいチビ、チカを抑えとけ』
「えっ? 僕ですか?」
いきなり言いつけられたロニーが目を白黒させる。
『他に誰がいるんだよ。全部終わるまで二人でここにいろ。片をつけてくる』
イオが威嚇するように吠え、空へと舞い上がる。
大きな黒い翼が空を覆い、地上の人々が恐怖の悲鳴を上げた。
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