51.必ず帰る
びしょ濡れのまま、荒々しい足取りでラスティン国王は退室していった。
部屋には私ひとりになる。
静まりかえった部屋で、か細い声が私の名を呼んだ。
『チカ』
見れば、怯えた様子のスイちゃんがドレッサーの陰から顔を覗かせている。
「……スイちゃん」
『チカー!』
宙を飛んで、スイちゃんが私の胸に飛び込んできた。
さっき私が襲われたとき、急に花瓶が割れ、ぶちまけられた中の水がラスティンだけを狙い撃ちした。
あの不自然な動きは、水の妖精スイちゃんが私を助けるために力を振り絞ってくれたのだ。
「スイちゃん……ありがとう、スイちゃん……!」
びえええ、と幼子のように大泣きしているスイちゃん。
抱きしめてあげたかったけど、恐怖で全身が硬直している。
今になって襲ってきた震えが止まらない。
ドアが開く音がした。
身構えたけど、遠慮がちに入ってきたのはロニーひとりだった。
「チカ……!」
スイちゃんと同じように泣きながら駆け寄ってくる。
「チカ、ごめん。僕、何もできなくて。本当にごめん」
「いいのよ、ロニー。大丈夫。大丈夫……」
それしか言えずに、少年の体を抱き寄せる。
本当は、ぜんぜん大丈夫じゃなかった。声がうわずり、涙が出てくる。
ロニーと私、スイちゃんの三人で体を寄せ合い、ベッドの上で無言のまま抱き合った。
(……イオ)
心の中で呼んでみた。
(会いたいよ、イオ)
俺はバケモノ、って。
イオは何度も、自分のことをそう言ったけど。
バケモノの定義って、なに?
人間とは違う姿の生き物のこと?
言葉や理屈が通じないこと?
良心を持ち合わせないこと?
他人の命や尊厳を平気で害すること?
竜人として生まれたイオの容姿は、人間とは違う。
でも、それだけ。
人間の姿をしていても、相手の言葉を聞こうともせず、力でねじ伏せようとするラスティンのほうが、よっぽどバケモノだ。
二人で暮らした日々のなかで、イオが私を支配することはなかった。
居候の私を、意思も感情もある一人の人間として扱ってくれたのだ。
あんなに口が悪いのに、大喧嘩をしたときでさえ私を傷つけようとはしなかった。
私がイオのことを好きだと知っても、自分のものにすることを躊躇った。
今なら、わかる。
イオが私を遠ざけたのは、彼の優しさだったんだ。
たぶん、ユズハさんも同じだ。
彼女が息子を冷たく突き放したのは、自分の命があるうちに王都から逃がそうと考えたから。
「恐れられる姿でいなさい」と言い残したのは、悪い人間が近づかないようにするため。イオの能力が、ふたたび戦争に利用されないように。誰も傷つけずにいられるように。
ユズハさんは、呪いに似せた祈りでイオを守った。
命のタイムリミットが迫る中で、他の方法を選べなかったんだ。
ぎゅっと目を閉じた。
胸が熱くなる。
イオの笑顔が、言葉が、次々と胸に甦ってきた。
『チカはチカだ。どれだけ生きてようが何処で生まれてようが関係ねえ、たったひとりの大切な女だ』
『幸せになれ、チカ』
『これ以上、求めることなんてできねえよ』
『俺は一人で死ぬ。そうしなきゃいけないんだ』
……あんなことが言える人が、バケモノなわけない。
それなのに、今もひとりぼっちで、あの森にいる。
このまま私が帰らなかったら、イオは、また捨てられたと思う。前より深い孤独の中に閉じこもってしまうだろう。
「……帰らなきゃ」
呟いた言葉に、ロニーが涙に濡れた顔を上げた。
私の手を強く握り、囁く。
「そうだね、チカ。帰ろう」
うん、と頷き、少年の手を握りかえす。
(もう一度、イオに会わなくちゃ)
宮殿を抜け出そう。
失敗すれば、どうなるかわからない。でも、ラスティンはなんかの好きにされるより遥かにましだ。
イオに伝えたい。
彼が愛された子どもだったことを。
そして今、私がイオを想いつづけていること。
けっして自分の意志で、彼のもとを去ったのではないということを。




