18.未来へ呼ぶ声
「早くしなさいよ!」
朝食の支度を急ぐ私の背中に、鋭い声が浴びせられる。
リビングの食卓テーブルでは、継母が凄い形相で私を睨んでいた。
その向かいの席には、セーラー服を着た妹。私とは血の繋がりのない彼女は、継母とそっくりの顔で、こちらに冷めた視線を送っている。
「本当に手際の悪い子ね。さっさと持ってきなさいよ」
「そうだよ、遅刻しちゃうじゃん」
「ご、ごめんなさい、今すぐに」
焼き鮭と卵焼き、サラダ、それから野菜のお味噌汁に白いご飯。
継母の注文どおりに作った朝食が載ったお盆を、慌てて食卓に運んだ。
二人が食べ始めるのを確認して、私はシンクの横に立ち、自分用に作った白いおにぎりを手に取る。
二人と一緒にテーブルにつくことも、同じものを食べることも、私には許されていないから。
――実の母が亡くなったのは、私が小学生のとき。
父は子供のいる女性と再婚したけれど、私が高校二年生になった夏、理由も告げずに家を出ていってしまった。
残された家で、継母と連れ子の妹は、私を召使みたいに扱うようになったのだ。
家事はすべて私の担当。
アルバイト代も取り上げられてしまう。
用事を言いつけるときと罵るとき以外は、話しかけられもしない。
この家での私は、いるのにいない、透明人間みたいだ。
(私の居場所、無くなっちゃった)
具のないおにぎりを食みながら、ふと考える。
本当の母が生きていたら、父が蒸発しなかったら、どんな人生だっただろう?
(……やめよう。考えても虚しくなるだけだよね)
制服の上に着けたエプロンを外し、義妹に声をかける。
「お弁当、ここに置くから、学校に行くときは忘れず持ってね」
妹はテレビ画面のアイドルに夢中で、返事をしない。
「お継母さん、いってきます」
この呼びかけにも、返事はない。いつものことだ。
ため息をつきながら、玄関の扉を開けると。
そこは、見覚えのあるビルの中だった。
(ああ、始業時間だ)
私の服装も、ジャケットとスカートに変わっている。
ネックストラップの社員証でオフィスに入り、デスクに座った。
パソコンのディスプレイに、見る間に新規メールが増えていく。
目の前に積み上げられる書類、四方八方からかかる声。
「きみ、この報告書、完成させておいて」
「この計算、チーフにお願いしていいですか」
「センパイ、経費精算やっといてください。みりあ、体調悪いので帰りまーす」
はい、はい、わかりました。
返事をしながら、ふと気づく。
(誰も私の名前、呼ばないな)
家でも、職場でも。友達はいるけど、忙しくて会えないし。
それでも日々は、まわっていくんだけど。
……なんか、ひとりぼっちだ。
ふと、喉の奥に熱いものがこみあげそうになったとき。
『――チカ』
私の名前を呼ぶ声がした。
「……誰?」
男性の声だ。
聞き覚えがあるような気がする。
誰の声だっただろう?
導かれるように立ち上がり、オフィスの喧騒に背を向ける。
廊下に出たとたん、視界が薄暗くなり、足もとでパキッと乾いた音がした。
パンプスの底が、枯れ枝を踏んだのだ。そんなもの、オフィスビルの中に落ちているわけないのに。
枯木ばかりの暗い森に、私は立っていた。
冷たい風が吹いている。霧が白く流れている。
誰も、いない。
『…………チカ』
また、声が聞こえた。今度は、はっきりと。
懐かしいような、切なくなるような不思議な響き。
立ち枯れの森の寂しい景色の中を、ただ声のするほうへ私は歩いていく。
『チカ』
やっぱり、この声、知ってる。誰だったかな。
ひとつだけはっきりしているのは、彼の声で名前を呼ばれるたびに、胸の奥が温かくなるっていうこと。
は消えかかった火が、ふたたび燃えあがるときのように。
――私、この人に会いたい。
『チカ』
何度目かの呼びかけ。
声の主を、私は知ってる。
顔も、私を抱き上げた腕の強さも――彼の名前も。
「……イオ」
自分でも予期せぬことに、唇が動いた。
私の声が風に変わる。幾重にも視界を塞いでいた霧のベールが吹き払われていく。
薄れていく霧のむこうに、誰かが立っていた。
シルエットだけで顔は見えない。
でも、なぜか、とても懐かしくて愛おしい。
「帰ってきてくれ、チカ」
懇願するように、彼は私に向かって手を差し伸べている。
その手を取ると、いっそう強く風が吹いた。
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