16.森への侵入者
穏やかな幸せほど、脆いものはない。
いつまでも続くように思えた日常は、ときとして一瞬で崩れてしまう。
私にとっての「その日」は、突然やってきた。
午後の陽ざしのなか、いつものように私とイオは、森の中を歩いていた。
「あんまり俺から離れるなよ」
「はあい」
一緒に暮らすうちに、わかってきたことがある。
イオは、とても過保護だ。
慣れない異世界での生活で、私が危険な目に遭わないか、いつも心配しているみたい。
今日は普段あまり選ばないコースだから、余計に声をかけてくる。
「あ。あのお花、かわいい」
少し離れた緑の間に、珍しい花が咲いているのが見えた。
今まで見たことのない種類だ。
菫みたいな形で、深く綺麗な紫色の花びらが風に揺れている。
「おい、どこへ行く?」
道を逸れて歩きだした私に、イオが声をかける。
「ちょっと待ってて。向こうに咲いてるお花、持って帰りたいの」
「またかよ。そんな場所まで採りに行かなくたって、花なんかどれも同じだろ」
「同じじゃないよ。あのお花、イオの目と同じ色だよ? 紫がすごく綺麗」
「……あっそ。じゃあ好きにしな」
呆れたように笑うイオ。
『見テー! メズラシイ蝶々イルヨー』
『来テー』
『ハーヤークー!』
道の脇の樹上で、妖精ちゃんたちが呼んだ。
「お前ら、チカに似てきたな」
苦笑しながら、イオが背中に翼を出現させて妖精ちゃんたちのもとへと向かう。
『エー、イオダケー?』
『チカモ ツレテキテー』
「残念だったな、チカは忙しいんだよ。チカに見せたいなら俺がとってやる」
『ア! 蝶々、ニゲチャッター』
『アッチ行ッター』
『イオー、アッチダヨー!』
「俺に捕まえろってか……」
にぎやかな声を背中に聞いて、私はひとり、花の咲くほうへと小走りに急いだ。
花の群れの先は、ゆるい斜面になっていた。
そこそこ角度があることで、かえって日当たりがよくなっている。
緑の絨毯の上には、背の低い木々が密生していた。
葉が風にそよぐ音。空では鳥が歌っている。
爽やかで甘い香りが周囲に漂う。
近づいて見れば、青く繁った葉のあいだに柚によく似た形の黄金の果実が実っているのだった。
イオのお城に生えている樹と、よく似ている。
(こんな場所があったのね)
はじめてここに来たときは何もない森だったのに。
変われば変わるものだ。
森の変化は、そのまま私がイオに抱く印象の変遷と同じ。
最初は怖くて荒々しい竜だった彼。
今は穏やかで、あいかわらず口は悪いけど優しくて、一緒にいると毎日ちがう発見がある。本当に、この森みたい。
そんなことを考えながら、深呼吸をしたとき。
少し先の木陰で、小さな影が動いた。
狐でもいるのかな、と思った瞬間。
ビシッ、と小さな音をたてて、額に固いものが当たった。
「痛たっ!」
思わず声を漏らした私の足もとに、コロンと音をたてて小さな石が転がる。
痛む部分に手をやると、指先が赤く染まった。
この石が額にぶつかって、血が出たのだ。
「誰かいるの?」
呼びかけると、木の後ろの陰が動いた。
幹の向こうから、小さな顔が覗く。
(……子ども!?)
木陰にいたのは、ひとりの少年だった。
十ニ、三歳に見える。髪は赤毛、栗色の瞳。怯えた表情で、こちらを凝視している。
「お……お姉さん、普通の人? 魔物……じゃないの?」
少年が小声で尋ねた。
右手には、まだ別の石を持っている。
「そうよ、普通の人。……あなたも、よね?」
ゆっくり話しかけると、少年は青い顔で頷いた。
固く握っていた右手がほどけ、石が地面に落ちる。
「ゆ、ゆるして……まさか人がいるなんて。魔物が出たと思ったんだよ。邪竜様の森に人間はいないって、いるのは魔物だけだって、村のみんなが言うから……」
声が震えている。
恐怖と、おそらくは人を傷つけてしまった罪悪感からか、少年はの目には涙が浮かんでいた。
(泣いてる……悪い子じゃないんだわ)
あどけなさの残る顔立ちに、粗末な服装。
細い腕で抱えた麻袋の上部からは、いっぱいに詰めた黄金色の果実が見える。
森の外の「村」からやってきたのだろうか。
イオの森への侵入者として現れた少年。
彼は、私が生贄、じゃなかった、「邪竜の花嫁」として捨てられて以来、はじめて出会う「普通の人間」だった。




