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叛神煩戯  作者: みかんのみ
鑑定士編 初心

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9話「記憶を“預かる”トランクケース」

骨董屋


芸術的・歴史的価値のある商品を主として扱う店


真贋や時代背景、市場価値を見極めるには

長年の経験や専門知識が必要である


商品はよく見なければならない

悍ましいナニカが紛れ込もうとしているかもしれない

「……なるほど。そのトランクケースは、絶望する者からはその記憶を『預かり』、敵対する者や利用できる者からは記憶を『奪う』、と」


 リナは、マスターと老人――そして、どこからともなく現れた研究者を名乗る紫髪の男に、これまで視てきたことを共有した。


「であれば、先ほどの私の予想はより濃厚になりますねぇ。『天魔』とは、非常に論理的な存在なのです。それは、彼らの遺した秘宝も例外ではない。そんな彼らが機能を『預かる』と厳密に定義しているのなら、その動作の対――『返却する』という機能も存在するはずです。つまり、『忘苦天魔のトランクケース』の本質とは、記憶というものの双方向の『道筋<パス>』なのです」


 男は言葉を区切り、リナと怯える老人へと目を向けた。その瞳の奥には、知的好奇心という冷酷な光が灯っていた。


「秘宝の破壊は、その道筋そのものを壊す行為。破壊と同時に、中身の情報は行き場を失い、霧散する――それは、記憶の『消滅』と言えるでしょう」


 男は肩をすくめ、力なく自嘲するように口角を上げた。


「まあ、あくまでも個人的な仮説ですがね」


 男の説明に、ぎゅっと拳に力が入る。

 この男が何者なのかは分からない。だが、彼が口にした「論理」は、否定しきれない説得力が宿っていた。


「嫌じゃ、嫌じゃ……っ!」


 老人は子供のように頭を抱え、自分という存在がこの世から完全に消えてしまう恐怖に、ガタガタと椅子を鳴らして喚き散らした。

 対照的にマスターは自分の運命を託すように、ただ静かにリナを見つめていた。


「……随分と絶望的な理論ね。あなたに言わせれば、二人の記憶を取り戻す術は万に一つもないということ?」


「いえ、そうとばかりは言い切れません。秘宝の本質が『預かる』ことならば、そこには記憶を保管する機能――わかりやすく言えば『金庫』の存在が不可欠です」


 男はコートのポケットに手を突っ込み、天井を仰ぎ見るような仕草で言葉を続ける。


「ひょっとすれば、彼らのように『奪われた』者の記憶も、その金庫に等しく保管されている可能性があります。再び私の仮説で申し訳ありませんがね……恐らくその秘宝の持つ防衛機能とは、記憶を『奪う』ことではなく、『強制的に預けさせる』ことだと思います」


「強制的に、預けさせる……?」


「ええ。いくら秘宝とはいえ、リソースは有限です。わざわざ『預かる』と『奪う』の二つの機能を独立して搭載するのは、構造としてあまりに非効率的……それなら、己の存在を維持する場合に限り、他者の記憶への強制的なアクセス権限を付与する術式を組み込む方が、実に合理的で天魔らしい設計ではありませんか?」


 男はそこでニヤリと口角を上げた。

 その論理が正しければ、秘宝を「破壊」するのではなく、内部へと潜入し、預けられた記憶を「引き出す」ことで、二人を元に戻せるかもしれない。

 だがそれは同時に、あの禍々しい『忘苦天魔』の精神世界そのものへ、自ら足を踏み入れることを意味していた。


「リナさん。私は、あなたに危険を冒してまで記憶を取り戻してほしいとは思いません……正直に言えば、今の生活に満足しているのです」


 マスターの穏やかな声が響いた。彼は澄んだ瞳でリナをまっすぐに見つめ、諭すような柔らかな声音で語りかける。


「私が昔、何をしていたのか、どんな人間だったのかはわかりません。ですがこの静かな店で珈琲を淹れ、あなたと過ごしてきた日々はきっと――かつての私が忙しい日々の中で忘れてしまっていた、夢そのものだと思うのです。今の私は、失ったものよりも、得たものの方がずっと大切だと思えるのですよ」


「マスター……」


 それは、かつて「最強の鑑定士」として戦い続けた男が、記憶を奪われたことでようやく辿り着いた安息の答えだった。

 リナは胸が締め付けられるような思いで、優しく微笑むかつての師の顔を見つめた。


「嫌じゃ! 絶対に嫌じゃあああ!」


 しかし、その静寂を切り裂くように狂乱した声が上がった。

 老人が机を激しく叩きつけ、周囲を拒絶するように首を激しく振る。


「お前はそれでいいかもしれんが、ワシは違う! 自分が何者かわからんまま死ぬなんて、絶対に嫌じゃ! 鑑定士、頼む! なんとしてでも、どんな手段を使ってでもワシの記憶を戻してくれ!」


 取り乱し、必死に縋り付いてくる老人の姿に、リナは静かに息を吐き出した。


「わかったわ……今回は、あなたの記憶だけを取り戻す」


 選んだ道は、相反する想いの間に引かれた危うい境界線だった。

 その宣言に、老人は救われたように顔を覆い、一方でマスターはどこか寂しげな、だがその決断を尊重するような温かな眼差しを向けた。

 リナはそのまま、カウンターの端に深く腰掛ける不気味な男へと視線を転じる。


「理論的には可能なのよね? 私の能力で内部へ干渉し、特定の人物の記憶だけを引き出すことは」


 その問いかけに、男は待っていましたと言わんばかりに、唇を歪めた。


「ええ。理屈さえ分かっていれば……おそらく想像しているよりもはるかに容易にね」


 男はひょろりと長い体躯をゆったりと揺らして席を立った。


「私もその秘宝には非常に興味があります。よろしければ、同行させていただきましょう……いえ、ご心配には及びません。こう見えても、記憶への干渉に対する防御策については、一定以上の知見があります。あなたの邪魔にはなりませんよ」


 男は震える老人の背中を、無機質な手つきで軽く叩いた。


「必要なのは記憶の容器――すなわち、記憶を『預けている』当事者である、このご老人のみのはずです。彼がトランクの側にいれば、保管領域の特定はさらに容易になるでしょう」


 男の言葉に、嘘はないのかもしれない。だが、その協力の裏にある「興味」の正体が何なのかが、まるで計り知れなかった。


「……いいわ。ただし、余計な真似をしたらその瞬間にあなたも鑑定して、めちゃくちゃにしてやるから」


「はは、これは手厳しい」


 だが彼の論理が、この中で最も説得力を持っていた。

 三人は席を立ち、店のドアへと向かう。男はそそくさと店を出ていき、老人は足元をふらつかせながら、その後に続いた。


「リナさん」


 彼女が取っ手に手をかけたその時、背後からマスターの穏やかな声が届いた。


「どうしたの、マスター?」


「『鑑定士』の仕事は、真実を暴くことだけではないと思うのです。その真実が、誰かの未来を壊してしまう時、どう寄り添うか……私はあなたを見ていて、そう感じたのです」


 マスターは優しく、けれど諭すような眼差しをリナに向けていた。


「わかったわ。ありがとう、マスター……夕飯までには帰ります」


 リナは一瞬だけ唇を噛み、それから短く答えた。

 記憶を取り戻すこと。それが本来の正しい世界の在り方だ。だがそれは、いま目の前にある幸福を壊してしまうことにもなりかねない。


『俺たちの仕事は、視るだけだ』


 かつての師の言葉。ずっと、それこそが『鑑定士』の在り方だと信じてきた。

 己の果たすべきことは何なのか。その問いの答えを見出せぬまま、リナはドアを閉めた。


 三人を迎えたのは、夕刻のスクルタスに広がる、どこか血の色を思わせるオレンジ色の空だった。


 ◆ ◇ ◇ ◇ ◇


「おっと、そちらの道は避けた方が良さそうですよ」


 スクルタス第十五地区。ちょうど森川書店へと続く大通りへ差し掛かった時だった。

 男は唐突に口を開いた。


「……少し濃度が高すぎますね。この先は『異形天魔』の眷属が姿を現す可能性が……」


 男の口から出た禍々しい響きの聞き慣れない単語に、リナの眉がピクリと跳ね上がった。


「『異形』? ……それに今、『天魔』って言ったの?」


 だがリナの追求に、男は一瞬だけ口を噤んだ後、すぐに捉えどころのない笑みを浮かべた。


「いえいえ……ただの独り言ですよ。専門用語のようなものです、忘れてください。とにかく、こちらの道は避けましょう。今のあなたに、余計な魔力の消耗は避けていただきたいですからね」


 男はそう軽々しく言うと、返答を待つことすらなくくるりと身を翻し、大通りを逸れて、遠回りの裏道へと足を進め始めた。


(眷属……? それに、まるでこの先に何か潜んでいるのを事前に知っているような言い草……)


 男の言葉と共に、脳裏に浮かんだのは、ハリスが“退治”して見せたあのヌメリを帯びて蠢く肉塊のような生物の姿だった。

 だが、今は立ち止まって問いただしている局面ではない。

 リナは疑問を押し殺し、震える老人の背を押して男の後に続いた。


 ◇ ◆ ◇ ◇ ◇


 骨董屋へと続く細い路地裏。その入り口に三人は辿り着いた。

 路地の奥からは、夥しい「ドロドロとした悲鳴のような魔力」が流れ、空間を満たしていた。


「ここから先は気をつけて。私の師匠は、この魔力に当てられて鑑定士としての記憶を奪われ……預けさせられたの。非能力者なら、ただ足を踏み入れるだけであの秘宝に干渉されるわよ」


 リナは男に対し、警告を発した。


 その言葉を受け、男は「なるほど」と深く頷くと、コートのポケットから素早く何かを取り出し始めた。


「確かに、無防備な非能力者が入ればひとたまりもなさそうだ。……では、こちらを失礼させていただきますよ」


 取り出されたのは、鈍い光沢を放つ銀色の箔――薄く打ち延ばされた金属のシートだった。男は迷いのない手つきでそれを丸く形作ると、自らの頭にすっぽりと被せた。


「この金属には、外部からの魔力を反射させる性質がありましてね。まあ、簡易的な『精神の防壁』といったところです。これがあれば、私のような非能力者でも問題なく進めますよ」


 奇妙な形状の“ヘルメット”の奥から、籠った声が不気味に響いた。


「……用意がいいのね。まるで、最初からここに来ることがわかっていたみたいに」


「研究者とは、常に最悪を想定する生き物ですから」


 淀む魔力で、もはや空間が歪みかかった路地の深淵へと、三人はゆっくりと歩を進めていった。


 ◇ ◇ ◆ ◇ ◇


 重い扉を開けると、以前と何一つ変わりなく、カウンターの中央に『ソレ』は鎮座していた。


「先ほども言ったように、『コレ』の性質はあくまで『預かる』ことです。ただ、強制的に引き抜いた記憶を、『返却』するつもりはないでしょう。となるとそれらの記憶は、強固な鍵の付いた金庫に放り込まれたようなものです」


 男はコートから無機質な端末を取り出すと、滑らかに画面を起動させた。青白い光が、男のヘルメットの隙間から覗く口元を照らし出す。


「まずあなたには、このご老体の記憶の保管場所を特定し、『封印<ロック>』に使われている魔力波長を調べていただきたい……恐らくそれは、『忘苦天魔』自身のものと一致するはずです。それが判明すれば――」


 男は手元の端末を、リナに見せつけるように掲げた。


「――私が即席でその波長を再現し、『マスターキー』を生成します。それを『コレ』に流し込めば、ご老体の記憶を強制的に返却するよう命ずることができる」


 男の淡々とした言葉を聞きながら、リナはトランクの隙間から溢れ出す瘴気のような魔力を見つめた。

 以前、『天授の鎖』を崩壊させた拒絶反応。その中に、今から意識を沈めろというのか。


「……言うのは簡単だけど。要するに記憶の濁流の中に、私の意識を潜り込ませろってことよね? 失敗すれば、私まで金庫の肥やしになるわよ」


「いえ、そこまで危険ではありません。脳内に『フィルター』をかけるイメージを持ってください」


 平然とした声で、男はリナの懸念を切り捨てた。


「ご老体の体にわずかに残っている『記憶の残滓』を、能力であらかじめ読み込んでおくんです。それと合致する情報を、トランクの中で探せばいい。あなたがわざわざ他人の膨大な記憶をすべて視る必要はないんですよ」


 男の提案は、まるで「検索」のような手法だった。

 他人の人生を追体験し、その情報量に脳が焼き切られるリスクを最小限に抑えた、必要な情報だけを視る方法。

 リナは一瞬迷いを見せたが、背後で震える老人の姿を視界に入れ、覚悟を決めて左手の革手袋をゆっくりと引き抜いた。

 露わになった白い手が、老人の震える肩にそっと触れる。


 ◇ ◇ ◇ ◆ ◇


 脳裏に流れ込んだのは、濁流のような情報ではなく、背筋が凍りつくような「空虚」だった。


(薄い。あまりにも希薄すぎる……)


 八十余年の歳月を生きてきた人間のものとは到底思えない、あまりに儚く頼りない記憶の断片。それはまるで破り取られた本の、糊付けの部分に辛うじて残った紙片を読んでいるかのようだった。


――ぼやけた輪郭で微笑む数名の人物と、一人の女性に抱えられる赤子の顔。


――薄暗い店内で、埃を被った骨董品に囲まれて過ごした日々。


――ある雷雨の日に持ち込まれた、禍々しい存在感を放つトランクケース。


――自分の輪郭が消えていく恐怖に耐えかね、震える手で紙に何かを書き殴ったあの瞬間。


 視えたのは、たったそれだけだった。それ以外のすべて――彼が愛したはずの家族の名前も、骨董屋としての誇りも、人生を彩ったはずの喜怒哀楽も、すでにトランクケースという底なしの怪物の口に放り込まれた後だった。


「……視えたわよ」


 その声は、怒りとも悲しみともつかない響きを帯びていた。

 リナは老人の肩から静かに手を離すと、鋭い視線をトランクケースへと向ける。


「いま視た記憶を頼りに、あの中から彼の記憶が保管されている場所を見つければいいのね」


 読み取った数少ない記憶――「女性の顔」と「骨董屋の景色」を意識のフィルターに刻み、トランクケースへと指を伸ばす――


『なんで俺が、こんな金返さなくちゃならないんだ!』


『どうして……どうして私のもとから去ってしまったの!?』


『しょうがなかったんだ……これは戦争なんだから。だから、俺を恨まないでくれ!』


 鼓膜を突き破るような絶叫と、過剰に鮮やかな情景が、意識を呑み込もうと襲いかかってくる。それはこの世界で「絶望」を抱え、甘い誘惑に負けてこの秘宝へと手を伸ばした、何千という人々の記憶の断片だった。


(……これが、全部『預けられた』記憶なの!?)


 絶望の追憶たちが、同時に脳裏に流れこもうとしてくる。


(邪魔しないで……! 私が見たいのは、“これ”じゃない!)


「鑑定士さん、呑まれないように。余計な感情はすべてノイズだと思って捨ててください。老人の記憶だけにフォーカスを……そろそろ、保管領域に触れるはずだ」


 隣で端末を操作する男の冷徹な指示が、かすかに脳に響き渡っていた。


 やがてリナの意識は、濁流のような記憶の海を潜り抜け、一つの「扉」の前へと辿り着いた。

 無数に絡み合う情景の断片の中で、そこだけが老人の体内に残っていた微かな残滓と同じ“色”を纏っている。

 だが、その記憶の塊を強固に縛り付けるように、幾何学的な紋様が複雑に絡みついていた。

 それは遠目に見れば、無数の太い枝を広げる一本の『樹』と、背景の雲のような『モヤ』であった。


「封印を見つけたわよ!」


「さすがは鑑定士、仕事が早い。こちらの端末でも確認できました。……いいですね、この波長、実に合理的で美しい。『忘苦天魔』本体のものとみて間違いありません。あとは私がこれを再現し、トランクに『持ち主が戻ってきた』と欺くだけです」


 リナの緊張した報告に、弾んだ声が返ってきた。男は端末のキーを叩き、青白い光の中で複雑な演算コードを走らせていく。


「さて、金庫番を眠らせましょう」


 男が端末の先端をトランクの表面にかざすと、リナが視ている景色でも、樹の紋様が輝きを失い始めた。


「任務完了です、鑑定士さん。意識を戻していいですよ」


 どこか呑気で、それでいて満足げな声が聞こえた。

 リナはトランクからゆっくりと手を離し、静まり返った薄暗い骨董屋の空気へと意識を戻した。


「あとはご老体の記憶を返却せよと、『システム』に命ずるだけ……はい、これで完了です」


 男が端末のエンターキーを軽く叩くと、トランクケースがこれまでの禍々しさとは違う、柔らかく澄んだ光を放った。

 次の瞬間、ケースの隙間から色彩豊かな淡い光のせせらぎが溢れ出し、老人の頭部へと吸い込まれるように流れていく。


「あ……ああ……」


 老人の虚ろだった瞳に、少しずつ生気が戻り始める。空っぽだった「器」に、奪われていた数十年の月日が、家族の笑顔が、そして自分自身の名が、正しく収まっていく。


「ワシは……ワシは、『アラン』だ。アラン・ベーカー。そうだ、あの子は……ワシの孫じゃ……」


 記憶を取り戻した老人――アランは、崩れるようにその場にへたり込みながら、自分の手を何度も見つめていた。彼は零れ落ちる涙を拭うことも忘れ、自身の輪郭を確かめるように、何度も何度も自分の頬を愛おしそうに撫でまわしている。

 リナは荒い呼吸を整えながら、その光景を黙って見つめていた。


「しかし、圧巻と言わざるを得ませんね。200年前に遺されたたった一つの『欠片』が、時を超えてなお、これほど正確に、かつ効率的に役目を果たしている……さすがは『天魔』としか言い表せませんね」


 男は感嘆のため息を漏らしながら、興味深げな眼差しでトランクケースを見つめた。


「……随分と手慣れているのね」


 男の手際は、信じられないほどに鮮やかだった。だがそれゆえに、リナの心には冷たい違和感が澱のように残った。

 革手袋をきつくはめ直しながら、銀箔のヘルメットを被ったままの男へと視線を向ける。


「ただの『研究者』が、“コレ”の『マスターキー』をこんなに簡単に作れるわけないわよね。あなた一体、何者なの?」


「言ったでしょう、彼らは論理的であると。構造さえ明らかにできれば、あとは演算の問題ですよ」


 男は端末をコートにしまうと、トランクケースの滑らかな表面を指先でなぞった。


「“あの本”の著者は、『忘苦天魔』の目的を『生物からの苦悩の抹消』と記していましたが、私にはそうは思えませんね。もし真にその目的を果たしたいのなら、この秘宝は記憶の『保管』や『返却』などせず、『抹消』さえしてしまえばよかったはずです」


 男はゆっくりと視線を上げ、リナを見据える。


「にもかかわらず、この秘宝はわざわざ面倒であり、弱点にもなり得る性質を選んだ。それは一体、なぜだと思います?」


「……誰かのことを忘れるのも、誰かに忘れられるのも、辛いことだから」


 男の問いかけに、無意識に口が開いていた。


「ほう、実におもしろい見解です。確かにそれも一理ありますねぇ」


 リナの呟いた言葉に頷きつつ、男は思索を深めるように話を続けた。


「私なりに推察するあの天魔の目的……それは『再起』でしょう。あらゆる人の『行動』の前には、必ず『心』が存在します。例えどれだけ小さくとも、あるいは他者からは理解できないほどに歪んでいようとも、そこには確固たる因果関係がある」


 お菓子が食べたいと思うから、立ち上がり手を伸ばす。親に褒められたいと望むから、勉学に励む。生きるためにお金が欲しいから、働く。

 誰かの関心を惹きたいと願うから、いたずらをする。楽にお金を手に入れたいと企むから、強盗を行う。傷つけられたくないと恐れるから、自分から攻撃を仕掛ける。

 そこに共感や同情が抱けるか、論理的に正しいかは関係ない。人のあらゆる『行動』の根底には、必ず『心』という動機が存在する。


「ですが、踏み出した行動のすべてが良い結果を結ぶとは限らない。人は自らの選択が招いた果てに憂い、失望し、立ち止まってしまうのです。だからこそ、忘苦天魔やこの秘宝は、行動の記憶と、その先の絶望だけを『忘れ』させたのでしょう……例え途中の記憶を失くしたとしても、根底にある『心』が同じなら、何度でも同じ道を歩み直せますからね」


 仕事での失敗と父の死を乗り越えられずに、人生を停滞させていた加藤。けれど、それらの絶望の記憶を預け忘れたことで、彼は銀行員としての華々しい再スタートを切れた。

 師匠も、鑑定士としての強すぎる使命と忙しい日々に追われ、自らの夢を心の奥底へと押し込めていた。そして、それらから解放されたときに、平穏な喫茶店のマスターという心から望んでいた別の人生を歩み始めることができた。


――『忘苦天魔』という存在は本能や悪意ではなく、ただ純粋な善意によって、世界に「呪い」を遺していったのではないか……


「そして、いつか人生の酸いも甘いも受け入れられるほどに心が成熟したなら、再び記憶を取り戻す選択もできるようにしていたわけですねぇ。……先ほどあなたが仰ったように、記憶と共に忘れ去られてしまう者もいるわけですから」


 骨董屋の中に響いていたのは、記憶を取り戻し溢れ出る涙とともにむせび泣く老人の声と、男の淡々とした言葉だけだった。

 まだ、トランクケースからは悍ましい魔力が垂れ流されている。

 だが今のリナには、それがどこか孤独で、悲しいものにも見え始めていた。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◆


 琥珀色の穏やかな光が満ちる回顧録。そのカウンターの上には、香ばしい湯気を立てる山盛りのカルボナーラが置かれていた。

 フォークでパスタを一口分すくい、口へと運ぶ。濃厚なソースの味わいが広がるにつれ、心地よい疲労感がじんわりと身体に染み渡っていく。


「……美味しいわ、マスター」


 ぽつりと漏らした声に、カウンターの向こうのマスターが、ふっと目元を柔らげた。


「それは良かったです……ところでリナさん、顔つきが少し変わりましたね」


「そう? ……たぶん、少しだけ踏ん切りがついたんだと思うわ」


 リナはフォークを動かす手を止め、目の前で温かく佇む男の姿を静かに見つめた。

 マスターの記憶は、戻していない。

 自身の能力とあの男の論理があれば、『先代鑑定士』としての過去を引き出すことも容易だった。以前までの自分なら、迷うことなくそうしていた。

 だが、それを選ばなかった。


「また明日から、忙しくなりそうね」


 鑑定士の仕事は、隠された真実を暴き、世界の歪みを防ぐこと。そこに主観が介入する余地はない。

 だが、今のマスターが選んだような「日常」を守り抜くこともまた、一人の“人間”として果たさねばならないことなのだと、今のリナは確信していた。


 真実を暴き、正しい世界を守ること。

 偽りの上に成り立っている平穏な日常を守ること。

 そのどちらが正しいのか。まだ答えは見つかっていない。


 ただ過去の真実を映し出すだけの存在から、誰かの想いや未来に寄り添う存在へ――それが、リナが選んだ新しい『鑑定士』としての歩み方だった。

忘苦天魔のトランクケース


忘苦天魔の身体の一部が混じった秘宝の一つ

その本質は、絶望の『保管』と『返却』であった


喪失、後悔、罪悪感

人は苦悩により、明日へ進めなくなってしまう


ならば、それを『預かろう』

絶望を受け入れられるようになる、その時まで

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