8話「記憶を“奪われた”老人」
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たった一言で、生きる時も場所も異なる者と
容易に繋がれる
人は孤独に耐えられない
ゆえに仲間を求める
たとえ目に見えぬ相手であっても
――13紀 2114年 冥結の月 1日
回顧録の空気は、使い込まれた調度品と珈琲の香りが溶け合う穏やかなものであった。
天界のレトロブームに当てられた流行りもの好きの客たちは、次の刺激を求めて去り、いつもの平穏が戻ってきていた。
テーブル席に腰を下ろしていたリナは、ブラックコーヒーを湛えたカップを眺めながら、次の客を待つ。
店内の片隅に置かれた古いテレビからは、騒がしい特集の音声が流れている。
『……今、私は天界との唯一の“転移門”がある“シャリドール”に来ております。天界より私たちの街――スクルタスへ兵士たちが送られると発表されてから早3日。この門の向こうから、いつ、どのような者たちが降り立つのか、世界中が注目しています。私たちも引き続き、シャリドールより中継をお届けいたします!』
画面の中のキャスターは、浮かれた声を上げている。
天界からの派兵が何を意味するのか。自身も含め、この街の誰もその真意を理解できていない。
それにもかかわらず、SNSには既に『ようこそスクルタスへ』なる文言がバズり、一目その軍勢を拝もうとスクルタスへなだれ込む観光客も急増した。当然、それに便乗しようと店やら何やらが、一斉にキャンペーンや特売を始め、「天界からの派兵」そのものが、地上の次の流行となっていた。
『忘苦』の秘宝か、『異形』の生命か、ハリスの暗躍か。それともまだ自身が預かり知らぬ何かか。
何が天界という高位の存在を、この地上へと呼び寄せてしまったのだろうか――
――カラン。
乾いたドアベルの音が、静寂を切り裂く。
視線を上げると、逆光を背負って一人の老人が店内に足を踏み入れていた。
背中を丸め、使い古された外套を羽織った、幽霊のような顔つき。
その姿には、見覚えがあった。
(骨董屋の……!?)
無意識に右手が、テーブルの下の左手へと伸びる。
加藤ユウトの絶望を吸い出し、師匠の鑑定士としての記憶と誇りを奪い、天授の鎖を崩壊させた――あの禍々しいトランクケース。その持ち主。
しかしその顔からは、以前対峙した時の底知れない不気味な笑みは、跡形もなく消え失せていた。顔色は死人のように土色に沈み、その手は目に見えて激しく震えている。
老人はリナと目が合った瞬間に、崩れ落ちるように縋り付いた。
「鑑定士……っ」
掠れた声が、喉の奥から絞り出される。
「助けてくれ!『あれ』は……『あれ』は、一体何なんだ!?」
その悲痛な叫びを聞き、リナはカップをソーサーへと戻した。磁器が触れ合う硬質な音が、静かな店内に響く。
彼女は取り乱し震える老人を抱き起こそうともせず、ただ氷のような冷たい瞳でその姿を射抜いた。
「……何の冗談かしら」
感情を完全に削ぎ落とした声が漏れ出る。
「私の師匠から何もかも奪って、今もこの街の誰かの絶望を啜っている怪物の持ち主が、どの口で助けを求めているの!?」
ゆっくりと、左手の革手袋を外していく。
いつでも、その醜悪な『記憶』を暴き立てる準備ができているのだと、老人に突きつけるために。
「何があったのかは知らないけれど、自業自得よ! 早く帰ってちょうだい!」
突き放すような言葉に、老人は絶望に顔を歪ませて力なく首を振った。その顔に浮かんでいるのは、純然たる恐怖そのものだった。
彼は震える手で、ポケットからクシャクシャに丸められた一枚の紙を取り出し、机の上へと広げた。
それは何かの伝票の裏に、殴り書きされたものだった。
『俺は記憶を奪われている』
筆致は乱れ、焦燥と恐怖が滲み出ている。老人は自分の頭を掻きむしりながら、声を絞り出した。
「これは……間違いなくワシの字じゃ! この筆癖も、インクの掠れも、ワシ自身のものに間違いない。だが、書いた覚えが何一つとして無いんじゃ!」
血走った瞳が、救いを求めるようにリナの姿を捉える。
「この紙を偶然見つけてから、何度も何度も自分のことを思い出そうとした! 自分が何者で、どこから来たのか、何を売っていたのか。だが……何も、何一つとして思い出せんのじゃ! 自分の名前も何もかもが、霧の向こうへ消えてしまった……!」
取り乱した老人の爪は、今にも頭皮へと食い込みそうな勢いだった。
「それがどうしたの? そんな安っぽい紙切れと言葉だけで、私があなたのことを信用するとでも思った!?」
あの時の――トランクケースの魔力が天授の鎖を破壊した時の、老人の勝ち誇ったようなニヤつき。
そんな相手を信用し、同情することが、なぜできるだろうか。
「待て! これを見れば、きっとお前さんも納得する!」
老人はテーブルに突っ伏さんばかりの勢いで身を乗り出し、懐から一冊の本を叩きつけた。
ドン、と重苦しい音を立てて机に置かれたのは、装丁がボロボロに剥げ、背表紙が歪んだ禍々しい古書。
その表紙のタイトルを目にした瞬間、背筋に冷たい粟立ちが走った。
『忘苦の遺した呪い』
「ずっと……店の棚の奥にあった本じゃ。昨日、これを偶然見つけて……これを読めれば、きっと『アレ』が何なのか分かるはずじゃ!」
老人は縋るように、本をリナの方へと必死に押しやる。
「頼む! お主の力でこれを読んでくれ。もうワシらでは、これを読むことができないのじゃ!」
その本は長い年月を過ごしてきたためか、ページ同士はくっつき、インクは読めないほどに薄くなっていた。
だが老人の言葉が真実ならば、この本には『忘苦天魔』の正体、そして加藤やマスター――そしてこの老人の記憶を取り戻すための手がかりが記されているかもしれなかった。
リナは、マスターへと視線を送った。
もし、この本自体が老人の罠で、自分の身に何かあれば、すぐにこの場から逃げて欲しい、と。
マスターは、その意図を瞬時に察したのか、柔らかく微笑んだ。
「……いいわ、あんたの口車に乗ってあげる」
リナは冷ややかに吐き捨てると、露わになった指先を本へと伸ばした。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
――13紀 1941年 暁明の月 3日 脱稿
『天界に属するための試験に落ち、さりとて己の好奇心を抑えられず、故に昨今の忘苦天魔について、知るところを書き記しておくこととする……』
『……名が示す通り、かの存在も“天魔”に連なる者である。今より30年前、“オブリウィオ”にて、3対の白翼の聖女により討たれたと伝え聞く。しかし、オブリウィオは既に壊滅的な状況となっており、間もなく消滅することとなった。』
『……その性質が、記憶領域への干渉であることは、研究者の間でも一致している。その中でも筆者は、独自の被害者たちへの聞き込みから、特に苦痛や絶望に関する記憶への干渉が大きいと感じた……これらのことから、忘苦天魔が求めていたのは、“生物からの苦悩の抹消”であると考察する……』
『……忘苦天魔が討たれた“後”、世界各地で、忘苦の力が付与〈エンチャント〉された秘宝〈アーティファクト〉が、いくつも発見される……天界では、天魔の力を宿した魔道具を秘宝と呼称し、他の物品と明確に区別している……』
脳裏に浮かんだのは、一人の男が沈黙の中でペンを走らせ、本を執筆していた光景であった。
そのほとんどの記述は、当時の研究者たちが抱いていた共通認識や、聞き込みをもとに組み立てられた客観的な推論だった。
加藤の記憶を『預かった』トランクケースの本来の機能。確かにそれは、この著者の予想する忘苦天魔の目的と合致していた。
リナは意識を本の終盤へと移す。
だが、この先に綴られている言葉は、今までとは打って変わり、何を元に導き出したのかを明かしていない、根拠の乏しい仮説であった。
『 ……忘苦の秘宝には共通して、“忘苦天魔の身体の一部”が核として組み込まれている。それは微細な骨片や肉片であったり、あるいは一滴の血である可能性もある……この核こそが、魔力の供給源であり、秘宝の機能そのものである……』
『もし、秘宝の外因的破壊が困難であるのなら、この核の排除が有効になると考えられる……しかし、これはあくまで机上の空論に過ぎない。忘苦の欠片と秘宝は密接に繋がっており、その境界を正しく見分けることは不可能だろう。私もこれを試す術を持たぬまま、筆を置くこととする』
「……境界、ね」
著者が不可能と断じた忘苦の身体と物の見分けを、しかし自分はできる可能性があった。
彼の考察通り、二つの存在が同化しているのではなく、密接な紐づけの関係であるのなら、それがどれほど強固な繋がりであろうと、自身の能力は明確に二つの対象として区別し認識できる。それぞれの記憶や歴史を視ることができれば、その差異――境界線を見抜くこともできるはずだった。
意識の向こう側で、本を書き終えた男は椅子に腰掛けたまま両手を持ち上げると、そのまま疲れ果てたように深い眠りに就いた。
――13紀 1941年 暁明の月 9日
「さすがに、詳しく書きすぎた……」
男の呟きが、重苦しい静寂の中に溶けていく。
次に視えた光景は、暗い箱の中へと一冊の本を沈める男の姿だった。
「天界に見つかったら消されるな……“この本”はなかったことにしなければ」
焦燥の表情と共に、男は頑丈な箱の蓋を閉じると、カチリと音を立てて外の錠を締めた。
それはこの本にとって、永い暗闇と無為の始まりであった。
◇ ◆ ◇ ◇ ◇
――13紀 2088年 歳木の月 28日
「――それで、この館を買ったんだが、この“箱”だけ開かなくてなぁ」
「おう、任せろ。こんな箱、テコを使えば一発よ」
――ギシッ、ギシッ……バン!
威勢のいい声とともに、箱が悲鳴を上げる。その直後、閉ざされていた蓋が力任せに跳ね上がると、箱の内部は強烈な光に照らされた。
「どんなお宝が……って、なんだ? 本一冊だけか?」
本を取り出すと、男はあからさまに失望の色を滲ませた。
「相当古い本だなぁ。なんか、歴史的価値とかあるかも……『アラン』さんのとこ、持っていくか」
男たちは無造作に本をカバンへ放り込むと、そのままどこかへと運び去っていった。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「うーん……」
片手に握りしめたルーペ越しに、初老の男は難しい顔をして本を見つめていた。
「どうなんだよ、アランさん。一体、いくらで買い取ってくれるんだよ?」
カウンターの向こうで待ちくたびれた男の催促が飛ぶ。
アランと呼ばれた老人が、かれこれ30分以上も、この一冊の本と格闘し続けていたからだ。
「そうは言われてものぉ……こんな表紙、見たこともないからのぉ」
溜息混じりの声が漏れる。
長い年月を経て湿気を吸ったのか、まともに開くことすら困難なほど中の紙同士が固着していた。辛うじて開くことのできた数ページも、文字のインクが擦れ、まともに読むことなど不可能な状態だった。
「このタイトル……『忘苦の遺した呪い』? これも一体、何を意味してるのか、さっぱりじゃしのう」
アランはこの本の価値を測りかねていた。長年骨董を扱ってきた彼だったが、これまでにこのような書物を見たことも聞いたこともなかった。おまけに、中身は読めず、題名はあまりにも不穏で禍々しい。
だが、この本がしっかりと歴史の重みを持っているのも事実であった――
「――アンタ! いつまで仕事してんのさ。今日は“あの娘”の出産予定日なんだよ! 早く支度しな!」
店の奥から大砲の如き、妻の声が響く。
今日は、自分たちの愛娘に子が生まれる特別な日であった。本来であれば店など早々に閉め、すぐにでも娘のもとへ駆けつけるはずだったのだ。
「……わかった。お主らの提示額で買い取る。それでいいな?」
査定技術の未熟さか、あるいは妻の火山の如き怒りへの恐れか。どちらが原因かは定かではないが、アランは折れた。
金を受け取った男たちは、想定外の臨時収入に満足げなニヤリとした笑みを浮かべる。
「はぁ、さっさと準備するか……」
アランは手に入れたばかりの本を、店の最も深い棚の奥へと追いやった。
骨董屋の主人としてよりも、父として、そして祖父としての務めを優先したことを、忘れ去るように……
◇ ◇ ◇ ◆ ◇
――13紀 2???年 ??の月 ??日
酷く、激しい雷雨の日だった。
こんな日に、わざわざ店を訪ねる酔狂な客などいない。そう高を括っていたアランだったが、店の重い扉はゆっくりと開いた。
入ってきたのは、長身でありながら、極めて痩せたシルエットの男だった。
傘すらささずに歩いてきたようで、全身を覆う真っ黒なスーツと、貌を隠すような鍔の長いハット帽は雨に濡れそぼっていた。
男は言葉もなく、入店と同時に一つの『トランクケース』を、ゆっくりとカウンターへ差し出す。
「おいくらが希望で?」
ひと通り見た限り、機能性は十分。手入れもよく行き届いている。
メーカーや型番こそわからなかったが、すぐに買い手がついてもおかしくないであろう上物だった。
「……金はいい。店頭に展示さえしてくれれば――」
男はそれだけ告げると、すぐに店の出口に手をかけた。
「お待ちを、お客様――」
――ドォォン!
一瞬の雷鳴が、世界を白く照らした。
その時に帽子の隙間から見えた男の貌は、まるで肉を削ぎ落とされた「骸骨」のように痩せこけ、血の気がまるでなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆
「おい、鑑定士……何かわかったのか? ワシの記憶は、戻るのか……?」
現実へと意識を戻したリナに、老人が縋りつくように声を上げた。
「一つだけ、可能性があるわ……あなたの骨董屋にある『アレ』と、もう一度正面から向き合って、破壊することよ」
あの日、去り際に老人は、加藤の記憶はいつでも『返却』できると語った。だがその時、師匠についての言及は一切なかった。
それはなぜか――恐らく、返すつもりがないからだ。
あの秘宝の本来の機能は、加藤のように絶望した者から、その苦悩だけを『預かる』こと。そこには『返却』を前提とした、救済の論理が存在する。
だが、師匠やこの老人の場合は話が違う。彼らが『奪われた』記憶は、苦悩に関するものではない。師匠は鑑定士という仕事、そして老人は人生そのもの。それらは、本来のトランクケースの機能から逸脱している。
この二つの差は、トランクケースという存在の存亡がかかっているかどうか。忘苦天魔の立場からすれば、わざわざ敵対者や宿主に記憶を返す必要性がなかった。
「返すつもりがないなら、無理やり解放させるまで……」
因縁の相手との再戦を見据え、リナは覚悟を固めるように拳に力を込める。
しかしその瞳の奥には、拭いきれぬ陰りが落ちていた――
「――その秘宝を壊せば、本当に記憶は取り戻せるのですか?」
背後から投げかけられたのは、いつもの穏やかで柔和な声だった。
「マスター……?」
核心を突く突然の問いかけに、思わず口から驚嘆の声が漏れる。
だが彼はどこか遠くを見るような瞳のまま、ゆっくりと言葉を重ねた。
「なんとなくわかっていましたよ。記憶のない私、この店の地下に眠る奇妙な魔道具たち。そして、なぜか私の面倒を甲斐甲斐しく見てくれる優しい鑑定士さん……私はその秘宝に記憶を奪われた、あなたの師なのでしょう?」
思わず息を呑んだ。何も覚えていないはずの彼は、日常に潜む断片的な違和感から、自らの正体を正確に推測していたのだ。
「……気づいていたんですね」
「ええ。……それで気になるのは、秘宝の破壊と記憶の『返却』が同義なのかということです。確かに壊してしまえば、これから被害に遭う方はいなくなるでしょう。ですが……」
マスターはそこで言葉を切り、自分の胸に手を当てた。
「これまでに記憶を預けたり奪われた人……私や加藤さん、そしてそこのご老人はどうなるのでしょうか。『器』である秘宝を壊したとき、中身は正しく持ち主へと返るのか。それとも、行き場を失って消えてしまうのか」
それは、リナが思考の奥底に追いやろうとしていた不安そのものだった。
もし、秘宝の破壊が「中身」の永久的な消滅を意味するのだとしたら……
「それは……やってみなければ、わからないわ」
絞り出した声は掠れていた。それはあまりにも無謀な賭けだった。
だがここで何もしなければ、確実に師匠や老人の記憶は返らず、絶望を貪る呪いは街を蝕み続ける――
「――私の予想では、記憶は消失すると考えられます」
場違いなほど軽薄で、それでいてひどく不吉な響きを孕んだ男の声が入り込んできた。
リナが弾かれたように振り向くと、いつの間にかカウンターの端の席に、一人の男が深く腰掛けていた。いつ入ってきたのか――ドアベルの音すら聞こえなかった。
猫背で顔色の悪いその男は、研究者然とした白衣の上から、仕立ての良い長いフォーマルコートを羽織っていた。毒々しいほどに深い紫の髪が、店内の琥珀色の照明に不気味に照らされている。
「すいません、急に話に割り込んでしまって……ですが昔、『天魔』について個人的に調べていたことがありましてね」
男は謝罪の言葉とは裏腹に、悪びれる様子もなく手近なメニュー表を指先で弄んでいた。
忘苦の遺した呪い
忘苦天魔について記された書物
その討伐や遺された秘宝について書かれている
忘苦の呪いは、世界を蝕み続けるだろう
いつか、苦悩なき世界が訪れると信じて




