60話「竜の腹攻略作戦」
「すいません……リナさんのことが心配で、つい口を滑らせちゃって……そしたら、『俺が役に立てるかも』って聞かなくて……」
天界軍が占拠する「回顧録」へと足を踏み入れた斎藤親子。息子のヒカルは額に浮かんだ冷や汗を拭いながら、申し訳なさそうに身を縮めてリナへと歩み寄った。
「……でも、リナさんの後ろ盾がまさか『天界軍』だったなんて……」
ヒカルには、私が潜入調査を行っていることや、ツクヨたちを連れて「竜の腹」へ向かおうとしていることまでは明かしていた。だが、天界軍との協力関係や、『異形天魔』のことは何ひとつ告げていない。
居並ぶ天界軍の将校たちや、その中央に佇む最高司令官の姿へ、ヒカルは信じられないものを見るように目を丸くして視線を向ける――
「――ただその前に、ひとつ条件がある」
しかし、息子の驚愕とは対照的に、父親であるハジメの様子は堂々たるものだった。彼は、自身が抱えてきた大きな金属缶の中身――10年前の『竜の腹』に関する記録へと伸びる将校たちの手を、ガチンと重い音を立てて蓋を閉めることで遮る。
「資料を提供する代わりに、俺も『竜の腹』に連れていってくれ!」
ハジメの力強い言葉が、店内を震わせる。
「息子から話は聞いた。あそこに、『ハルカ』って子がいるんだろ。警官として……いや、“元”警官として、俺は子供に正しい道を歩ませてやんなきゃいけねぇんだ!」
ハジメの熱のこもった声に気圧されたように、将校たちは口を閉ざした。
だが直後、静寂の中にリナの疑問が響く。
「“元”って……どういうことですか?」
その問いかけに、ハジメは自嘲めいた小さな鼻息をひとつ漏らすだけだった。
「えっと……父のリハビリが、ちょうど落ち着いた頃の話なんですけど……」
ハジメに代わるように、ヒカルがおずおずと口を開き始めた。
「……『ハリス特別能力者軍』に招集されまして……それで、警察を辞めて軍に入れと」
その名が落とされた瞬間、リナは膝から崩れ落ちそうなほど、がっくりと肩を落とした。
そうだった。あの男、能力者に変異させられてしまった人々を、自己顕示欲の塊みたいな組織にスカウトしてるんだった。
(まさか、自分が“解剖”しようとしたハジメさんにまで声をかけるなんて……)
常人であれば後ろめたさから避けるはずの存在にまで、ぬけぬけと手を伸ばすその神経。
この街にいる限り、どこまでもねっとりと絡みついてくる男の影に、リナは身震いせずにはいられなかった。
「いや、悪い話ばっかじゃねぇんだ、これが」
ヒカルやリナの顔に落ちた暗い影を吹き飛ばすように、ハジメが言葉を紡ぎ出す。
「軍の中で、“同じ境遇”の連中とたくさん会ってな。それで、俺たちなりに色々と取り組んできたんだよ」
ハジメは自らの逞しく鍛え上げられた太い腕を、ポンと叩いて見せた。
「『能力』さえ使わなければ、とりあえずは人並みくらいには動ける……いや、むしろ前より身体が軽いくらいだ」
そう語る彼の瞳には、現実を受け入れ、そして絶望に抗い続けてきた強さが宿っていた。
「確かに、ハリスがトップにいるのは気に食わねぇ。だが、そんなの警察にいたって同じだ。どこにだってそりが合わない奴なんている。それなら、自分が求められてる所に行くのが一番だ」
ハジメの言葉に、傍に立つヒカルは静かな笑みを浮かべた。
「……分かった。我々としても、あなたの同行は心強い。ハジメ殿、よろしく頼む」
サオリは真っ直ぐな眼差しでハジメを見つめると、迷うことなくその場で深く頭を下げた。
「えっ!? いやいや、頭まで下げることはねぇよ、よしてくれ!」
雲の遥か上の存在からの実直な礼に、ハジメは慌てて両手を振り、顔を赤くして後ずさりした。
◆ ◇
「では、僕は孤児院に戻ります。リナさん、皆さん……父をお願いします」
ヒカルはドアノブに手をかけたまま、店内へと振り返った。
「心配すんな! こっちは“能力者”だぞ」
ハジメは茶化すように、息子からの心配を笑い飛ばした。そんな父親の態度に、ヒカルは呆れたように肩をすくめながらも、笑みを浮かべて店を後にする。
「信じられん。ここまで詳細を……」
「まさか、抜け道まで記されているとは……」
ハジメの持ち込んだ資料の数々。その記録の精度に、将校たちからは感嘆の声が漏れる。
「まあ、仲間と一緒に、文字通り命がけで現場を這いずり回って書き留めたもんだからな」
ハジメはどこか誇らしげに鼻を鳴らした。だが、すぐにその表情は引き締められる。
「だが、これはあくまで10年前の姿だ。あそこは知っての通り、増築と崩落が繰り返される……常に変化し続ける生き物みたいな場所だ。大枠の構造は変わってねえだろうが、細い道が塞がってたり、逆に新しい穴が掘られてる可能性は高い」
その指摘に、将校たちは湧き立っていた空気を霧散させ、再び紙面へと視線を落とす。
リナもまた、缶の中から一枚の資料を手に取った。
竜の腹――スクルタス第六地区の暗部に横たわる巨大な影。その始まりは、かつて都市開発の象徴となるはずだった巨大ビルだった。
しかし、その建設は突然、中止される。その理由は定かではないが、放置されたコンクリートの巨躯に集まり出したのは、日陰の住人たちだった。
やがて、飽和した人口に耐えかねたかのように、ビルを中心とした粗悪な増築が際限なく重ねられ、ひとつの奇妙な街としての機能すら持ち始めるに至る。
「当時、あの中で幅を利かせてた組織は三つだ。恐らく、今もそのままだと思う」
資料に記された三つの不気味なシンボル。それは、「竜の腹」を分断し、君臨するギャングたちの紋様であった。
龍門会――極東の島国「葦別」から流れ着いたとされる集団。自らを「侍」と称する独自の剣豪たちで構成され、その鉄のような規律と圧倒的な個人武勇によって、盤石の領土を確立している。
レッドブラッズ――世界全土に根を張る、新興の巨大犯罪ネットワーク。組織としての若さゆえに、その行動は極めて過激で、裏社会のルールすら一切顧みない。抗争、武器の密売、禁忌の薬物の取引……利益になるならば何にでも手を染める、最も制御不能な集団。
ロス・エンジェル――「魔界」に長年君臨してきた古参の組織。その地上侵攻の足がかりとして、竜の腹を選び取った。構成員は魔界の住人である「魔族」や、その過酷な環境を生き抜いてきた猛者たちで占められている。
「俺たちは10年前、『レッドブラッズ』の足取りを追ってた。それで、大人数の突入部隊が作られて……完敗した」
どこか遠くを見つめるように窓の外へ視線を向けながら、ハジメは苦々しい声を絞り出した。
「……突入部隊は、ギャングたちの根城にすら到達できなかった」
重々しく落とされた言葉に、リナの背筋に緊張が走った。
竜の腹の内部には、中心部からの距離に応じて残酷なまでの階級社会が形成されている。
雨風を確実に凌げる頑強な天井、快適な空調、上下水道の完備……建設途中で放置されたにもかかわらず、中央のビルは極めて良好な環境を維持していた。
その安定した領土を巡り、“生態ピラミッド”の頂点に立つ三組織が、互いに抗争を繰り広げる。そして、その争いから距離を置くように、外縁に“弱者”は身を潜める。
「俺たちは、あの中でギャングたちの面すら見れなかった! 陰に潜んでいた強盗や、薬の中毒者の襲撃で撤退させられたんだ!」
ハジメの言葉を聞いたリナは、奥歯を強く噛みしめていた。そんな混沌とした“闇”の中へ、幼い子供たちを同行させようとしていた自分の甘さが、恥ずかしくて仕方なかった。
「『戦力』だけなら問題ない。オーガスタス卿がいれば、むしろ過剰なほどだ……だが、極力戦闘は避けてほしい。変にギャングたちを刺激したくはないからな」
サオリは腕を組み、険しい表情を浮かべた。
異国の剣豪、世界規模の犯罪組織、魔界の重鎮……「竜の腹」という領域内での彼らの均衡が崩れるだけで、世界にどんな影響が波及するのかが、まったく想定できない。
「問題は、ハルカちゃんがどこにいるのかだ。どこかの組織に身を寄せているのか、それとも……」
ハジメが資料を指先でなぞりながら、低く重い声を絞り出した。
「均衡の隙間に全く別の拠点を構えているのか。どちらにしても、厄介だな」
ハジメの言葉を引き継ぐように、サオリが呟いた。
もし、ハルカがいずれかのギャングの傘下に属していれば、少なからずその組織とは接触しなければならない。
あるいは、彼らの目すら届かない死角に潜んでいるとすれば、「竜の腹」を隅々まで探る必要がある。だが当然、滞在が長引けば長引くほど、三組織を刺激するリスクは跳ね上がっていく……
『……その一角に、あのクソガキが元締めをしてる賭博場があるんだよ』
脳裏に、シズカを探していた時に出会った闇医者の声が蘇った。
「ハルカは『賭博場』の元締めをしてる。なら、そこには必ず『客』がいるはずです」
静寂を打ち破ったリナの言葉に、一斉に視線が集まった。
「……なるほどな。外縁部で博打に興じる『客』に聞き込みをかけるわけだ。それで、最速で彼女を連れ出す……これなら、世界を敵に回さずに済むな」
ハジメが感心したように膝を打った。
「だが、『客』の中には、組織の息がかかった連中や危険人物が混じっている可能性もある。その選別には、『鑑定士』や『警察官』としての“目”が必要になるぞ」
サオリの鋭い眼光が、リナとハジメを射抜いた。その重みを受け止め、二人は無言で深く頷き返す。
「竜の腹」の攻略――それは如何にして、三つの巨大ギャングに存在を悟られることなく、たったひとりの少女を見つけ出すかという隠密作戦であった。
◇ ◆
「――ああ、そういえば……」
作戦会議に一区切りがつき、リナが久しぶりにマスターの淹れたコーヒーに口をつけようとした矢先。
ハジメはふと、思い出したかのようにぽつりと口を開いた。
「捜査にはきっと関係ないはずなんだがな……昔から、迷信みたいに『竜の腹』に配属された新入りに聞かせる話があったんだよ」
そこで一度言葉を区切ると、ハジメは記憶の糸を手繰り寄せるように静かに視線を落とした。
「あのビルの建設が始まったのは、今から50年くらい前……俺がまだガキだった頃だ。その後、工事が途中で放置されて、ギャングたちが定着し始めたのが30年前。だが……」
ハジメは金属缶の底へ指を滑らせ、一枚の写真を取り出す。黄色く変色したその紙片は、他のどの資料と比べても明らかに異質な古び方をしていた。
「話は、それよりもずっと昔……まだこの街が、『スクルタス』と呼ばれるより前にまで遡る」
どこかお伽話めいたその響きに、将校たちは興味を失くしたようにそれぞれの業務へと意識を戻していった。
「もともと、ここは二つの別々の“町”だったんだ。それが“近代化”の波に乗って、互いに拡大していってな。合流して、一つになるのが自然な流れだった……」
ハジメの口から語られる昔話には、今直面している事態に直接繋がるような言葉は何一つ登場しない。
だが、自分が生きる街の秘められた歴史に触れる感覚が、リナの意識を強く惹きつけて離さなかった。
「……結果的には、行政の介入で合併して『スクルタス』が形作られたわけだが……それまでの間、この二つの町が繋がることはなかった」
ハジメの指が、写真を静かに指し示す。
そこに写し出されていたのは、夜の景色。写真の両端には、それぞれ文明の灯火が輝いている。
しかし、その中央だけは、まるでインクを零したかのような不自然なほどの暗闇が、ぽっかりと口を開けていた。
「この暗闇に何があったのか……それを調べることができないんだ」
「どうして……?」
ハジメの話に、リナが疑問を投げかける。
「……スクルタスができる前の古地図が、ことごとく塗りつぶされているんだ」
あからさまな禁忌――人の目に触れさせてはならない何かが、何者かの意志によって隠されている。
咄嗟に脳裏をよぎったのは、「天界」の関与。だが、少し離れた場所で沈黙を守るサオリの表情にも、拭いきれない疑問の影が滲んでいた。
「それで誰かが、近所の年寄りに話を聞いて回ったことがあるらしい。まあ、正確性なんてありはしないがな」
ハジメはそう前置きし、言葉を継ぐ。
「その“空白地点”には昔、大きな『谷』があったらしい」
「谷……ですか?」
リナは思わず問い返した。今のスクルタスに、そのような特殊な地形の痕跡などどこにも見当たらない。
ハジメもまた、リナの言葉に頷くだけだった。
「まあ、話を聞いた奴は大抵、同じような反応だ。こんな平地に、谷なんてできるわけがないからな……」
そこでハジメは背筋を伸ばし、姿勢を正した。
「だが、もしその年寄りの記憶が確かなら……」
話のクライマックスを察したのか、将校たちが再び聞き耳を立て始める。
「……その『谷』があった場所は、ちょうど今の『竜の腹』だそうだ」
ハジメが話を終えると、重苦しい沈黙が「回顧録」をじっとりと包んだ。
スクルタスという街ができる前に、一体何があったのか。なぜ、ビルの建設は途中で中止されたのか。
現代の巨大スラムが誕生するよりもずっと前から、この地が異質な何かを孕んでいたことを、物言わぬ沈黙は告げていた。




