61話「火種と爆弾」
『オーガスタス卿』――天界軍の最高司令官が、わざわざ“卿”という敬称をつけて呼ぶ存在。彼が到着するという正午まで、残り30分。
作戦会議を終えたリナたちは、マスターが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、束の間の平穏を享受していた。
――ニャーッ!?
その静寂を破るように、甲高い悲鳴が店内に響き渡る。
いつの間にか、「観測者」のもとへと導く案内人……いや、案内猫のクロは、回顧録にひょっこりと姿を顕していた。
だが可哀想なことに、その身体は瞬く間に抵抗すら叶わぬ剛力によって掴み上げられ、しなやかな太ももの上へと抑え込まれる。
小さな黒い影が視界に入るや否や、サオリの手が目にも止まらぬ速度で黒猫へと伸びたのだ。“獲物”を首尾よく捕獲した彼女は、そのまま何度も何度もその背中を撫で回し続ける。
当のクロはといえば、すがるようにリナへと金と翠の眸を向け、必死に救いを求めていた。しかし、その視線にリナは気づかないふりを決め込む。
「『オーガスタス卿』のことは……まあ、知らんだろう。地上で話題になることはないだろうからな」
クロの滑らかな背毛を愛で続けながら、サオリが口を開く。
「彼は、『聖騎士』の一人だ」
聖騎士――純白の鎧に身を包んだ、「最高神」直属の部隊。ベスタやサオリと対峙してもなお、決して退かない信仰と忠義の塊のような存在……
『性格がめんどくせぇ奴らばっかでな。規律だの騎士道だの、一言えば、十言い返してきやがる……何も言わなくても、十言ってくるけどな。付き合うには相当な忍耐が必要だぜ』
かつてシャリドールで、ベスタが吐き捨てていた言葉が蘇る。
「その……普段は、とても礼儀正しい方なんだ。ご自身の出自が特殊というのもあって、身分の差にもかなり寛容な方だ。ただ……」
サオリはわずかに視線を落とし、慎重に言葉を選ぶ。その逡巡する様子だけで、嫌な予感がグツグツと湧き上がってきた。
「……一度怒ると、手がつけられなくなる可能性がある」
「はい?」
思わずリナは聞き返していた。いや、知ることは当然の権利だ。何しろ、これから自分たちの命運を預けようという相手の話なのだから。
「……私とベスタが、まだガキだった頃の話だ。彼の領地に、ゴミを投げ捨てたことがあってな……いや、断っておくが、やったのはベスタだぞ! 私はただ見ていただけだ!」
どこか遠い目をして語り始めたかと思えば、慌てたようにサオリは保身の言葉を口にする。
「幸い、私たちがやったとはバレなかったんだが……そのゴミが原因でな、彼は怒り狂って、中層にある建物を50棟、跡形もなく焼き尽くしてしまったのだ」
“クソガキ”時代の英雄と最高司令官の常軌を逸した話に、その場の全員の思考が停止した。
「どうやら、犯人が名乗り出るまで灼き続けると言って聞かなかったらしくてな。最終的に見かねた『リーヴァ様』が、代わりに謝罪してくださったおかげで、彼の怒りは収まったのだが――」
(((――それ、100%“あんたら”が悪いよ!?)))
ホッとしたような顔で話を結ぶ“バカ”に、皆が心の中でまったく同じツッコミを叫んでいた。
しかし同時に、洒落にならない恐るべき事実が浮き彫りになってしまった。たったひとつのゴミ屑を理由に、自らが仕えている“神々”の邸宅すら灰燼に帰す『爆弾』。
それがこれから、自分たちを不浄な人間の欲望から守る「盾」の正体らしい……
◆ ◇
サオリが震える携帯端末を片手に、店の外へと姿を消した――ほんのわずかな隙。
同僚たちがテーブルに積み上がった資料の整理に追われる中、謹慎中の部下たちを預かる将校が、意を決したようにリナとハジメの元へと歩み寄った。
彼は執拗なまでに周囲へ鋭い視線を巡らせ、極限まで声を潜めて、喉から絞り出すような小声で切り出す。
「……すまんな。だが、『真実』を知る者として、どうしても伝えなければいけないことがあってな」
その引きつった顔からは、拭いきれない恐怖と緊張が滲み出ていた。
「サオリ様や軍には、“あいつら”は『任務中の喫煙』で謹慎処分を受けていると報告してるんだが……本当は違う。あいつらがやったのは、そんな可愛げのあるもんじゃない」
唐突な将校の吐露に、リナとハジメの背筋を不穏な冷気が駆け抜ける。
「……『略奪』、それに『婦女暴行』だ。それも一度や二度じゃない……軍が組織の面子を守るために、報告書を書き換えて処理してるんだ――」
「――はあっ!?」
衝撃的な告白に、リナの口からは驚愕と嫌悪が混じった短いため息が漏れ出た。
「おい、どういうことだ!? 天界軍はそんな凶悪な奴らを野放しにしてるのか!?」
ハジメもまた、警察官としての本能が警鐘を鳴らしたのか、険しい表情で将校へと詰め寄る。
「……声を落としてくれ」
将校は狼狽しながら周囲を気にする素振りで小さく首を振った。その額には、じっとりと脂汗が滲み出ている。
「つまり……あいつらのことを、一分一秒たりとも信じるなってことだ。……特にリナさん、あんたは絶対にオーガスタス卿から離れないほうがいい!」
震える声が言葉を紡ぎ続ける。
「あいつらは……自分より圧倒的な『格上』が傍にいる間だけは、辛うじて人の形を保っていられる……力だけが、唯一の『鎖』なんだ。だから、常に卿の視界にあいつらを留めておくんだ!」
どうやら、最高司令官様は知らず知らずのうちに、「竜の腹」の住人たちと“同質”のケダモノを自分たちの護衛につけてしまったらしい……
(……でも、それって、私たちだけのリスクじゃ済まないわよね)
そんな彼らを繋ぎ止める「鎖」は、ゴミひとつで怒り狂うほど高潔な聖騎士。もし万が一にでも、“問題児”どもの振る舞いが、その琴線に触れてしまえば……
「火薬」と「爆弾」――自分たちはその二つの危険物を命綱として抱えながら、「竜の腹」に潜り込まねばいけないようだった。
「まさか、こんなことになるとは……最初から、ちゃんと報告しておけば――あっ、戻ってくる!」
遅すぎる悔恨を口にした将校だったが、気配を察したように慌てて同僚たちのもとへ戻る。
――カラン
ドアベルの澄んだ音とともに、サオリが店内へと戻ってきた。
「……どうしたリナ殿。まるで、この世のものとは思えない話でも聞いたかのような顔をしているが……何かあったのか?」
不審げなリナの視線を受け、サオリはどこか呑気に問いを投げかけた。
視界の端には、凄まじい速度で手を横に振り、全身で懇願している将校の姿が映る。「真実」が最高司令官の耳に届けば、彼の首は間違いなく物理的に飛ぶだろう。
「……いえ。ただ、『天界軍』の懐の深さに“感銘”していただけです」
張り付けたような笑顔を浮かべたまま、リナは氷のように冷たい声を口から放った。
◇ ◆
――ギギ……カラン
正午まで、残すところ15分。入り口の扉が、不気味な軋み音を立てて開いた。差し込む逆光の中、ゆるりと四つの影が落ちる。他の兵士たちと同じ白銀の甲冑に身を包みながらも、どこか下劣さがこびりついた顔。
人道を踏みにじる悪行によって謹慎処分を下された者たち――四人の懲罰兵が、回顧録へと足を踏み入れた。
「……召集に応じ参りました。任務の概要は伺っております」
だが、彼らとて愚かではない。御神楽サオリという「絶対的な力」がこの場に君臨している以上、“化けの皮”を被らずにはいられない。
代表者の引き締まった声音に合わせ、残る三人は不自然なほど生真面目な敬礼を捧げてみせる。
「ご苦労。早速で悪いが、オーガスタス卿の到着までに作戦の詳細と、目標の内部構造を余すことなく叩き込んでくれ」
「「「ハッ!」」」
腹の底から絞り出したような、兵士たちの威勢のいい返事が店内に響き渡った。
最高司令官の中では、目の前の四人はあくまで「少し素行の悪い兵士」に過ぎない。そのズレが、致命的なのだが……
指示を飛ばし終えると、サオリは振り返り、背後の資料へと視線を落とす――
――「最強」の視線が、懲罰兵たちから外れた
直後、彼らの瞳から忠誠の光が消える。そして、その眼光に濁った欲望の色を混じらせながら、店内を舐めるように物色し始めた。
「あの陶器とか高そうだな……一個くらい貰ってもバレないよな」
サオリや将校たちの耳には届かないように、潜めた声で囁き交わす略奪者たち。彼らの目は、棚に並ぶ上質なコーヒーカップに狙いを定める。
「おい! “あれ”見ろよ、“あれ”!」
仲間の話を遮るように、一人が興奮を隠しきれない指先で前方を示した。その先に存在するのは、サオリの背中……いや、正確には、彼女の臀部。
四人は一様に鼻の下を伸ばし、軍服越しでも伝わる最高司令官のしなやかな身体のラインに舐めまわすような視線を注ぐ。
「こいつら……サオリ様がいてこの様かよ」
ハジメが拳を強く握りしめ、低く唸りを上げた。
少し離れた場所では、彼らを率いてきた将校が、直視できないといった様子で顔を伏せている。
「これが詳細な資料だ」
紙束を手にしたサオリが、再び四人へと視線を戻した。
「ハッ! ありがとうございます!」
下劣な本性を一体どこに隠したのか、懲罰兵たちはハキハキとした声を返して資料を受け取った。
そして、いかにも真面目な歩調を装いながら、店の角にあるテーブル席へと向かって歩み出す――
――リナのすぐ横を通り過ぎる瞬間、四人はわざとらしく深く空気を吸い込んだ
「いい匂いだ……戦場に女がいると、やる気が出るってもんですよ。なあ、兄弟?」
耳元にまとわりつくような不快な囁きを残し、彼らは席へとついた。
テーブルの上に地図を広げながら、兵士たちは指先でルートをなぞる。
「……このルート、乞食どもが多そうだ」
「ああ、あいつら……『何も持ってない』ってツラしながら、意外といいもん隠し持ってやがるからな。ちょうどいいぜ」
「……女の薬漬けもいるはずだぜ。抗う力もねぇ連中がよ。ウヒョー、楽しくなってきたな!」
「ここなら、混乱に乗じて『はぐれた』ことにできそうだぜ」
これから赴く「狩場」に思いを馳せ、彼らは黄ばんだ歯を剥き出しにして笑う。
「本当に、オーガスタスって奴一人で大丈夫なのかよ……」
ハジメは下劣な会話を交わす四人へ鋭い視線を向けながら、吐き捨てるように呟いた。
「大丈夫でしょうけど……大丈夫じゃないかも……」
リナは、曖昧な答えしか返せなかった。
竜の腹の住民や、腐敗しきった兵士たちを抑え込むという「戦力」の点においては、何の懸念もない。精鋭たちが警備する“神々”の領域で堂々と破壊を巻き起こしながらも、なおも「聖騎士」の座に君臨し続ける存在……弱いわけがない。
だが、真の問題はその圧倒的な「戦力」が、いつ、どこへ向けて解き放たれるかまったく予想できない点だ。
自分たちを守護する鉄壁の「盾」か、あるいは街もろとも全てを焦土に変える「爆弾」か……オーガスタス卿の到着まで、もはや10分も残されてはいなかった。
聖騎士
純白の鎧に身を包んだ最高神直属の部隊
忠誠、礼儀、功績が認められた者が入隊を許される
主な業務は神々の警護だが
本来の役割は戦場にある
かつては領地を授かる者もいたが
平和な現代に、そのような名誉はない




