58話「聖血と劣等種」
競技スポーツ
人間の極限を追求する活動
転じて、大衆向けの娯楽にもなっている
その主役は人であるため
神から力を与えられたとされる
能力者が参加することは許されない
これは差別ではない、区別だ
――13紀 2109年 灼陽の月 2日
鮮やかな緑の絨毯に、整然と引かれた白い線――自身がただ雑草を切り揃えただけの偽りの「スタジアム」ではなく、真にサッカーのために築き上げられたピッチ。
そのフィールドの上を、22人の少年たちが縦横無尽に駆け抜ける。その中には、アオイの姿もあった。
「アオイくーん!」
「アオ兄、頑張って!」
白線の外側からは、孤児院の弟妹や、近所に住む子供たちの歓声が届く。その湧き立つ子供たちの波の中には、姉であるハルカの姿もあった。
(なぜ……?)
アオイは淡々とした身のこなしで、対峙する守備をあっさりと抜き去ってボールを運ぶ。
しかし、その思考は眼前に立ちはだかる相手選手にも、緑のフィールドにも向いていなかった。
(……ハルカ姉がここに――フィールドの上に立てない?)
その理由を知らないわけではない。
『能力者』は原則として、すべての競技スポーツへの参加を固く禁じられている。……それが、自明のルールとして君臨していることは百も承知だ。
アオイは間合いを詰めてくる相手ディフェンダーの体を盾にし、キーパーからの視線を遮断する。そして、生じた僅かな混乱に乗じ、守り手たちの死角から鋭いシュートを放った。
――ピピーッ!
ゴールを告げるホイッスルの音が鳴り響く。フィールドの中央に立つ審判が持つスコアボードには、「16:0」という数字が淡々と並んでいた。
アオイは湧き立つ子供たち……そして、観客席を埋めるチームの関係者や報道陣のカメラに向かって軽く手を振り、「天才少年」としての笑顔を振りまく。
では、なぜそんな不条理な「差別」が平然と幅を利かせているのか。
「肉体」にスペックの「差」があるから――学校の教師もチームの監督も、さらには『能力者』である友人や「姉」に尋ねても、当然のように同じ答えが返ってくる。
(“差”があるのなんて、当然だろ……)
プロの世界は、“努力”するだけで生き残れるような甘い場所ではない。後天的な“努力”を極限まで重ねることは最低限のことであり、その先に存在する先天的な“差”に絶望し、あるいは活かして生き残る領域だ。
同じ『非能力者』の間にも当たり前に、当人たちにはどうしようもない生まれ持っての「才能」の“差”があるはず。
(なのになぜ、『能力者』というだけで排除されなければならない……?)
「人間」という存在には、「才能」という名の冷徹な格差がある。それを人々が受け入れているからこそ、スポーツという娯楽が成り立っているのではないのか。
ならばどうして、『能力者』という「才」だけを、これほどまでに徹底して競技の世界から追放している……
アオイは視界の端で、ハルカの姿を静かに捉える。
なぜ、自分よりも圧倒的な力を持つ姉が、ただの生まれだけを理由に「可能性」を潰されなければならないのか……
少年はフィールドの中央で味方からパスを受け取ると、そのままゴール目掛けて勢いよくボールを振り抜いた。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――13紀 2109年 冥結の月 28日
アオイが「大人」たちの世界に足を踏み入れてから、およそ4ヶ月。スクルタス孤児院には、そこかしこに「立ち入り禁止」のエリアが出来ていた。
理由は至極明白。建物の補修――そして、拡張工事のためである。アオイが外の世界から引っ張ってきた資金は、すべて孤児院の運営費に回されていた……それを管理しているのがあの院長であるということだけが、唯一にして最大の不安要素ではあるが。
アオイは、作業服を着た業者とともに広げられた設計図を見ながら、静かに言葉を交わしていた。
「おい、いくら何でも広すぎねぇか?」
背後から、呆れ混じりのハルカの声が割り込んでくる。
これまでのこの狭苦しい建物は、確かに十人に満たない子供たちだけでぎゅうぎゅう詰めに感じるほどだった。だが、アオイが新たに建てようとしている建物は、明らかに過剰なほどの広さを誇っていた。
「うん、僕たち“だけ”だと広すぎるね……」
アオイは、ゆっくりと姉へと視線を向けた。
「……でも、これから『家族』は増えるんだから」
その言葉にハルカは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに意味を理解して「まさか!」と目を丸く見開いた。
これまでは雀の涙ほどの資金で細々と運営されてきたこの孤児院だが、今の自分たちには高級車を一台買っても余るほどの余裕がある。建物自体の拡張さえ終われば、新しく受け入れられる子供の人数は一気に増えるはずだ。
「……さすが、私の弟だ!」
ハルカは白い歯を覗かせて、力強く拳を突き出した。その誇らしげな姉の拳に応えるように、アオイは自身の拳をそっと合わせる。
孤児院の「兄」として交わした約束は、確かに果たされていた。
「私も……『料理』くらいは覚えなきゃな」
ハルカは意気揚々と張り切った声を上げた。だが、その言葉を聞いた瞬間、アオイは慌てたように首を横に振る。
「料理は何とかするから……ハルカ姉は今まで通りでいいよ!」
現状に、まったく問題がないわけではなかった。
特に顕著な課題として浮き彫りになっていたのが「料理」だ。これまでは、「家族」の食事はすべて自分が担ってきた。
しかし今、外での仕事が増えた自分は、夕食の時間に合わせて帰宅し、食卓に皿を並べることが難しくなりつつある。
院長がまともに仕事をするはずもなく、アオイの代わりに調理場へ立ったのはハルカであった。だが、その日の食卓に並んだのは、原型をとどめない真っ黒な何かと、硬いままの野菜ばかりだった。
大人も姉も“戦力”にならない現在、アオイが選んだ手立ては、近所のスーパーや弁当屋で出来合いのものを購入して済ませること。しかし、長期的に見て、それが望ましい状態であるとは思えなかった。
(“職員”も必要……)
だが、人員の雇用や管理といった分野は残念ながら院長の領域であった。子供である自分たちが、口を出していいものだとは思えない……
(まあ、現状でも回ってはいる……火急的な要件ではないか――)
『――天才少年! 電撃参戦決定!』
アオイの思考を打ち砕くように、ド派手な効果音がテレビのスピーカーから流れた。
『“能力者”vs. “非能力者”のエキシビションマッチ! スクルタス競技場で明日開催! 絶対に見逃すな!』
画面いっぱいに踊る過剰なテロップと演出。その中央には、切り取られたアオイの顔写真が大きく映し出されていた。
『能力者』と『非能力者』の対決。字面だけを追えば大層なものだが、その内情は酷いものである。
非能力者側のチームは、スクルタスで第一線に立つ現役のプロ選手たちが大半を占める。中には自分のようなプロ志望の者も混じってはいるが、いずれもサッカーという競技に深く触れてきた者たちだ。
だが、対する能力者側のチームは、ただの公募によって集められた一般人に過ぎない。それどころか関係者からの話によれば、サッカーに触れたことのある者は意図的に排除されているという。
『能力者』という“持つ者”に、“持たざる者”である『非能力者』が、積み上げた技術と経験によって打ち勝つ――観客が求めるカタルシスを演出することが、この“出来レース”の目的であると、契約の際に説明を受けた。
「頑張れよ、アオイ!」
何も知らない姉は、どこまでもまっすぐな瞳でこちらを見つめた。
金のため……そんな不純な理由で歪な試合を黙認した自分は、その純粋な声に何も返すことはできなかった。
――13紀 2109年 冥結の月 29日
スクルタス競技場は、観客席を埋め尽くす群衆の地鳴りのような喧騒と熱気に包まれていた。
ピッチの上では、集められた『能力者』たちが戸惑いを隠せない様子で練習を繰り広げている。しかし、彼らは何度もルールを確認するように不安げな視線を審判へと送り、慣れない足取りであらぬ方向へボールを転がしていく。
その様子を見下ろす観衆の中には、滑稽なプレイを繰り返す彼らを指さし、あからさまな嘲笑を浴びせる者までいた。
しかし、期待に満ちた歓声も、蔑むような笑い声も一瞬にして消え去る。スタジアム全体を照らしていた照明が一斉に落とされ、巨大な空間が暗闇に包まれたのだ。
直後、ピッチの中央で大小様々な鮮烈なスポットライトが一斉に交錯する。その眩い光に照らし出されながら、世界を舞台に活躍するスクルタスのプロ選手たちが堂々たる足取りで入場する。その圧倒的な佇まいと一挙手一投足に、スタジアム全体から今まで以上の大歓声が巻き起こった。
やがて、大人たちの最後尾に、ぽつりと小さな少年の姿が続く。
『最後は……この少年! “我々”非能力者の期待の新星! スポーツ界の革命児……天才――アオイ!』
背筋がむず痒くなるような過剰なコールが、大音量で響き渡る。アオイは全方位から降り注ぐ大歓声に目線を落としながらも、前を歩くプロたちの大きな背中を必死に追いかけた。
――ピィーッ!
試合の開始を告げるホイッスルの音が鳴り響くと、能力者がボールを前へと進め始めた。しかし、その拙いボール運びは、容赦なく遮られる。
プロ選手はあっけなくボールを掠め取ると、たった一人で不格好な防御陣を切り抜ける――
――ピピーッ!
試合開始から一分と経たぬうちに、非能力者チームに先制点が入った。鋭いシュートを決めた選手は、味方を鼓舞し、観客の歓喜を煽り立てるように大げさなゴールパフォーマンスを繰り広げる。
その後、試合は再開するが、プロたちは次々と実力を証明するかのように、軽々とボールを能力者たちから奪っていく。点数は易々と重なっていき、ついにはわざと相手へボールを献上し、再びその足元から奪うという余興めいたパフォーマンスまで披露された。
綱渡りのようなギリギリのスリルを見せるたび、観客席からは好奇と嘲笑の入り混じった歓声が湧き上がる。
その歪な光景を、アオイはただ自チームのゴール前で見つめていた。
――ピーッ!
やがて、前半の終わりを告げる笛が鳴り響く。
プロたちは圧倒的な実力差に、途中からハンデを装って延々とパス回しで時間を消費していた。泥臭くボールを追いかけ、足を伸ばす能力者たちを嘲笑うという娯楽に注力した結果、スコアボードに刻まれた点数は「5:0」と、控えめな差にとどまった。
休憩エリアで、非能力者たちは水筒を片手に、汗ひとつかいていない気の抜けた顔で、後半をどう“演出”するかという相談に花を咲かせる。その軽薄な会話を傍目に、アオイは対岸の相手チームへと視線を滑らせた。
能力者たちは地べたに円を描くように腰を下ろし、汗に濡れた顔を拭いながら、真剣な眼差しで激しく口を動かす。彼らはまだ、仕組まれた屈辱の中で勝利を諦めてはいなかった。
(この試合……勝つべきなのは“彼ら”だ)
アオイはボールを拾い上げると、ひとりピッチへと足を踏み入れた。そしてセンターサークルでボールを足元に置くと、ゴールを目指しドリブルを始める。
その軌跡は、決して直線ではない。仮想の敵を置き、舞うがごとくフィールドの上を巡る。少年のあまりに華麗な足捌きに、誰もが思わず息を呑み、観客席の喧騒は嘘のように引いていた。だが、それは熱の冷めではない。むしろ、静寂の中で熱気はどんどんと高まっていく。
やがて、ゴール前へとボールを運んだアオイは、足の甲でまっすぐにボールを蹴った。放たれた球はただまっすぐに飛び、ネットを揺らす――
――ピピーッ!
ハーフタイム中であるにもかかわらず、わざわざゴールを知らせるホイッスルが鳴った。直後、観客席から一斉に解放されたように爆発的な歓声が湧く。
だが、アオイはその狂熱には一瞥もくれず、ただ能力者たちへと視線を向ける。
彼らもまた、その圧倒的な足さばきを見つめていた。ピッチに立つ『非能力者』の少年と、『能力者』たちの視線が、数秒間だけ交差する。
アオイは一度だけ小さく頷くと、彼らに背を向け、ピッチを去った。その小さな背中を見た能力者たちは、互いに顔を見合わせると、少年と入れ替わるようにピッチへと走る。
残された休憩時間はちょうど十分。優れた「肉体」だけをフィールドへと持ち込んだ者たちは、今しがた瞳に焼き付けた少年の「技術」と「経験」を倣うようにボールを蹴り始める。その拙い練習の光景に、スタンドからの嘲笑は依然として止まなかった。
◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――ピーッ!
試合の再開を告げるホイッスルの音が鳴り響いた。能力者たちが、センターサークルから滑らかにボールを運び始める。
そこへ、口元を歪めた選手が駆け寄っていき、雑に足を伸ばす。仲間内で打ち合わせた“パフォーマンス”を見せつけるために……
しかし、ボールを進めていた能力者はわずかにボールを横にずらし、その乱暴な足先をかわした。
――おぉぉぉ!
観客席のあちこちから、驚きの混じった小さな歓声が漏れた。
その“偶然”を否定するように、次々と非能力者たちが足を伸ばしていく。だが、ボールを保持する能力者は、易々と彼らからボールを守り抜く。
やがて、ゴールの前へとたどり着いた彼は、まっすぐにボールを蹴った――
――ピピーッ!
ゴールを知らせる笛の音が鳴り響いた。能力者たちは、ゴールを決めた仲間のもとへなだれ込み、歓喜の声援をかける。
放たれたシュートは直線的で、フェイントもなかった。キーパーも、その軌道を完璧に予測できていたはずだった。だが、放たれた弾丸は、ボールを掴み取ったキーパーの身体ごと圧倒的な勢いでゴールへと突き進んだのだ。
「おい、こっちもマジで行くぞ」
余裕のある笑顔のまま、プロたちは短い言葉を交わし合う。彼らはまだ、本気を出していない。今しがた見せた無謀なボール奪取の試みは、“実戦”では決して選ばない軽薄なプレーだった。
センターサークルへ仲間が入っていくのを確認し、非能力者たちは表情を引き締め、規律ある自らのポジションへとつく。
――ピーッ!
再び試合が動き出し、ドリブルを開始した選手の正面に、即座に能力者の一人が立ちはだかった。
プロ選手は、卓越したドリブル技術とステップで相手を鮮やかに抜き去ろうと試みる。しかし、どれほど先回りしようとも、すぐに目の前を塞がれる。
経験も技術も、遥かに非能力者であるプロが上だ。だが、その積み上げられた優位性は、能力者の持つ圧倒的な瞬発力によって、掻き消される。
前進を阻まれ拮抗する隙に、さらに二人の能力者が群がり、ついにはボールを奪い取った。
「おい! ガチで守りに行け!」
非能力者たちが、咄嗟に防御陣形を敷く。ドリブルでの突破、巧みなパス回し、共に不可能な完璧な型――のはずだった。
しかし、ボールを進める能力者は、勢いそのものを武器として、次々とその防御陣を切り裂いていく。そしてゴール前へたどり着くと、再びキーパーごと押し込むような凄絶なシュートを叩き込んだ。
――ピピーッ!
再び、能力者チームの得点を知らせるホイッスルが鳴る。その乾いた音に混じり、スタンドからは僅かな歓声が上がった。
観客席の片隅に、まるで追いやられるようにして、能力者チームを応援する垂れ幕を持った集団がいた。彼ら自身が能力者なのか、あるいは家族に能力者がいる者なのかはわからないが、冷遇されるチームを応援する者は確かにいたのだ。
圧倒的な瞬発力、戦車のごとき突破力、そしてキーパーの存在をものともしない弾丸シュート。
後半が始まってわずか十分、スコアボードには「5:5」という数字が記されていた。
点差を埋められた焦燥からか、会場を包んでいた観客たちの熱気は消え、プロたちの顔からは笑みが失われていく。
――ピーッ!
勢いに乗る能力者チームが、再びゴールへと猛進を開始する。その躍動する肉体は、もはやプロたちの脆弱な「肉体」では止められなかった。
ゴールの前で、ボールが勢いよく放たれる。スタジアム全体が、能力者チームの逆転を告げるホイッスルの音を恐れて、息を呑んだ――
――しかし、笛の音が鳴ることはなかった
ゴールの手前、小さな足先が寸分の狂いもなくボールを静止させていた。大人の身体を吹き飛ばす勢いの球を、微動だにせず受け止めた少年の瞳は、すでに敵陣のゴールを見据えている。
直後、稲妻を思わせる鋭利な角度で、アオイは能力者たちの「肉」の壁をすり抜け、ゴールへと向かっていた。
そして、放たれた美しい弧を描くシュートは、吸い込まれるようにネットを揺らす。
――ピピーッ!
ホイッスルの音とともに、スコアボードの数字が「6:5」へと書き換わった。逆転一歩手前での勝ち越し点に、冷めかけていたスタジアムが再び大歓声に包まれる。
「よ、よし! いける……いけるぞ!」
少年の得点に鼓舞されたかのように、沈んでいたプロたちの瞳に光が戻り始める。
だが、アオイの目だけは見逃さなかった。能力者たちが、今の一連の自身の動きを視ていたことを……
――ピピーッ! ピピーッ! ピピーッ……!
得点を告げるホイッスルの音が、休まることがなかった。この歪なピッチの上では、もはや防御が成立しなかったからだ。
能力者たちの爆発的な猛進を止める術を、非能力者たちは持たない。また能力者たちも、アオイの電撃的なドリブルを阻む技術を持っていない。
「6:6」……「7:6」……「7:7」……
プロ同士の試合では到底あり得ない、大雑把で苛烈な点の取り合い。その白熱する乱打戦に、観客席は一喜一憂し、誰もが手に汗を握っていた――
――だが、フィールドのレベルは加速度的に引き上げられていく
その速度に「適応」できない者は、ただ脱落していくだけだ。
非能力者の「肉体」が、試合の最中に劇的に成長することはない。彼らの優位性は、「技術」と「経験」という後天的な“努力”の賜物。
一方で、能力者は実戦の中で確実に進化を遂げていく。先天的に授かった「肉体」。それに加え、リアルタイムで「経験」を蓄積し、優れた身体スペックでプロの「技術」を再現していく。
ゆえに、限界を極めていくフィールドにおいて、どちらが先に置き去りにされるかは自明であった――
ドリブルを進めるアオイの前に、三人の能力者が並んで立ち塞がる。少年はボールを止め、鋭い眼差しで目の前の三人を見据えた。
単独での突破は不可能……だが、彼らはまだサッカーという競技の本質を理解していないようだ。
確かに、自分は攻撃における絶対的な要である。しかし、一人の敵に対し、三人をぶつけるということは、必然的にフリーの敵を二人も生み出すことを意味する。
アオイの思考が、一瞬で盤面の未来を読み切る。何秒後に、フリーの味方が自身の横を駆け抜けていくか。どのタイミングで、パスを渡せばいいか。
少年は、視線を能力者たちに固定したまま、静かにボールを横へと押し出した――
――ピピーッ!
直後、ホイッスルの音が響き渡る。
アオイが驚きとともに視線を滑らせると、ボールは虚しく白線の外を転がっていた。
(読み間違ったか……?)
アオイは自身の計算の狂いを確かめるように、背後の味方へと振り向いた――
「――いやぁ、やっぱ『能力者』が試合に出るとかないよなぁ」
視線の先で、『非能力者』たちはヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべていた。彼らはまさに今この瞬間も、自身をマークする相手と親しげに言葉を交わし、観客席に向けて大げさに肩をすくめておどけてみせる。そこには、明らかな諦観の空気が漂っていた。
「なに……してるんですか……?」
喉の奥で押し潰された小さな呟きは、喧騒の中に消え、誰の耳にも届くことはなかった。
――ピーッ!
試合再開を告げるホイッスルが鳴った。能力者が、スローインでボールをピッチ内へと戻す。
そこから始まる猛攻を止める熱意は、もう非能力者たちにはなかった。彼らはただ、自分の横を通り抜けていく相手を視界の端に収め、呆れ果てたように笑うだけだった。
――ピピーッ!
あっけなく、ゴールネットは揺らされた。「7:8」――能力者たちは、逆転を掴み取った。
(なんでだよ!? 今の局面、勝てただろ……!)
自身の出したパスが上手く繋がっていれば……彼らがただ諦めずにゴールに走り続けていれば、得点を取っていたのは自分たちだったはずなのに――
「来月から、“本当”の戦いが始まるんで、そっちで応援よろしくお願いしまーす!」
気の抜けた声を観客へと投げる大人たち。彼らは、まだ小さな仲間が一人戦い続けていることなど、微塵も気に留めていなかった。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇ ◇
「9:21」という無慈悲な数字――少年は孤独に二点を奪い取ったが、能力者たちの壁を一人で破ることはできなかった。
圧倒的な大敗……しかし、観客たちが向けたのは、応援していたチームが打ちのめされたことへの嘆きや苛立ちではなく、健闘を称える呑気で軽薄な拍手だった。
「よく“化け物”ども相手に戦った!」
「来月からの試合も、お願いしまーす!」
威勢のいい観客の歓声と、勝負を早々に投げ出した選手たちの気の抜けた声が混じり合う。
だが、アオイはその熱気や敗北の余韻に浸ることなく、すぐに競技場を後にした。
(……何が足りなかった!?)
脳内でいくつもの選択肢がめまぐるしく交錯する。だが、今の少年には、そのどれもが遠い世界の話にしか思えなかった。
我を忘れたまま夜の街を歩くアオイの足は、吸い寄せられるように見慣れた巨大な建物の前へと向かっていた。
スクルタス図書館――閉館間際の時間ではあったが、顔馴染みの職員に頭を下げ、無理を言って中へ入れてもらった。
目指すのは、興味を抱きながらも、警告を受けて読まないまま残しておいた一冊。そこに、今の己を苛む不快な感情を、どうにかできる術が書かれている保証などどこにもない。だが、今は何としてでも平静を取り戻さなければならなかった。
アオイは静まり返った館内の奥まった本棚へと足を踏み入れ、『聖血の福音』と刻まれた重々しい一冊を、そっと引き抜いた。そして傍らの椅子へ乱暴に腰を下ろすと、ゆっくりとページをめくる――
『……我ら能力者は、神に選ばれ、特別な力を授かって産声を上げた。この事実に疑いの余地はない。
我らの肉体を見れば、その優位性は明らかだ。能力の性質が何であれ、我らは生まれながらにして、能力を持たぬ者たちよりも遥かに頑強な体を持っている。彼らとは生命としての“格”が違うのだ。
魔力の差も決定的だ。能力を持たぬ者が抱える、塵のような微々たる魔力とはわけが違う。我らの内には、世界を動かし、変革させるほどの強大な魔力が宿っている。
以上の事実が示す結論は、議論の余地なく自明である。我々能力者は、非能力者という劣等種を導き、支配するために存在する、次元を異にした“高位の存在”である。この血脈に刻まれた絶対的な序列を否定することは、世界の真理そのものを冒涜することに他ならない。』
「……何だよ!? これ」
口から漏れ出た呟きに、苛立ちが混じっていたことに気づいた。
(……そうか、“俺”は怒っていたのか)
己の内側に潜んでいた感情の正体を突き止めたアオイは、もう一度紙面に視線を落とした。
「『能力者』は“神”に選ばれた――『非能力者』という“劣等種”を支配する高位の存在。それが、世界の『真理』……」
肉体スペックの差は今日、嫌というほど見せつけられた。魔力量も、自分と「姉」を比べれば、明白に差があることはすぐに理解できる。
そうした基本的な強さに加え、“彼ら”には「能力」という理外の力も与えられている。
「この結論は、正しいのか……?」
(……違う。俺たちの間にあるのは、ただの『才能』の差だ)
明確な優劣は存在する。それは否定のしようがない……
「だが、それで『支配』すべきであると断じるのは、飛躍しすぎているか……」
(なら、なぜ“奴ら”は敗北することを受け入れた?)
脳裏に浮かび上がる『非能力者』どもの諦め切った顔……負けたくせに、悔しがりもせず、ヘラヘラと笑って拍手までする浅ましさ。
「この本が言ってることは……間違ってるが、正しい……」
純粋な生物として「人間」を見れば、『能力者』と『非能力者』の間にあるのはただの性能の「差」に過ぎない。
だが、今の社会を生きる“奴ら”は、この狂った結論を正しいものとして受け入れ、果てはその思想を振りまいている――
「――“お前”らは勝手に支配されてろよ……でも、それを“俺たち”に押し付けるな」
アオイにとって、世界は穢れた絵の具で描かれた、しかし完成された絵画だった。だからこそ、もうどうしようもできない。
ゆえに必要なのだ。まだ何も描かれていない、真っ白なキャンバスが……
(守るべきものは決まったな……)
アオイはゆっくりと立ち上がり、歪な聖典を棚に戻すと、闇に染まった図書館を後にした。
その目指す先は、何としても守り抜かなければならない「家」だった。
◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◇
「――アオイ……!」
重い玄関の扉を開けた瞬間、悲痛な叫びとともに影が躍り出た。胸にドンッと衝撃が伝わり、冷えた体を温もりが包む。
「お前は……よくやったよ。だから、その……っ」
言葉に詰まりながらも、「姉」は背中に回す腕に力を込め続けた。
「……“俺”は大丈夫だよ、ハルカ姉。心配しすぎだよ」
「“俺”って……」
アオイは、ハルカの腕からするりと脱出すると、暗い表情を浮かべた彼女の頬を優しく撫でた。
「ごめん、ハルカ姉……約束は守れなさそう。俺はみんなのお手本にはなれない――」
「――どういうことだよ……? お前はちゃんと……!」
引きつった声を上げ、言葉を続けようとする姉を、アオイはただ静かな視線ひとつで制した。
「だからこそ、何としてでも“ここ”だけは守る。みんなを“正しく”導く……!」
言葉とともに感情が滾り始める。その渦巻く憤怒を殺すように、アオイは小さく息を吐いた。
「……心配かけてごめんね。もう大丈夫だから――おやすみ」
「――なに言って……」
しかし、ハルカの言葉が最後まで紡がれることはなかった。
『安寧の眠り〈シュルーフェ〉』
アオイの手が、ハルカの顔の前へと静かに掲げられた。直後、彼女の瞳から瞬時に光が失われ、膝から力が抜ける。
アオイは崩れ落ちる姉の身体を優しく受け止めると、その背を抱え直し、身を寄せ合って眠る幼い弟妹たちの傍らへ静かに横たわらせた。
「さて……まずは『支配権』を奪おうか」
静まり返った暗い廊下、アオイは独り言を漏らすとともに、怠惰な大人が眠りこけている部屋へと、静かに足を進めた。
「おい、“デブ”! 起きろ」
院長の私室の扉を遠慮なく開けたアオイは、室内へ向けて光源魔法を放った。それまで部屋を支配していた静かな夜の闇が、一瞬にして掻き消される。
「……んん!? なに……?」
突拍子もなく満ちた陽光の如き強烈な光に、院長は目元に皺を寄せながら、その巨体を起こした。
「一度しか言わねぇから、よく聞けよ」
淡々とした声とともに、アオイはベッドへと“紙切れの束”を投げつけた。
――ボト……
肥え太った院長の腹の上に、わずかな質量が落とされた。彼女は鬱陶しそうにまぶたを上げ、自身の腹部にある物体を視界に収める。その瞬間、眠そうな表情は嘘のように消え、目を丸く見開いて瞳を輝かせた。
「俺の言うことだけ黙って聞いてれば、その“倍額”を毎月やる。乗るか、乗らないか?」
少年の冷徹な言葉の余韻が消えるよりも早く、院長はニヤついた笑みを浮かべ、何度も激しく頷いた。その太い指はすでに、差し出された札束を数え上げることで忙しい。
「よし……なら、『準備』ができるまでは、『料理』だけしてろ。それ以外は、今まで通り何もするな」
それだけを言い残すと、アオイはすぐに部屋を後にする。
純粋な狂気と、怠惰な欲望は、「金」という現実的な接点において、奇妙なまでに均衡を保っていた。
――13紀 2109年 冥結の月 30日
日付が切り替わった直後の暗闇の中、アオイは明かりもつけずに、ただ黙々と鉛筆を走らせていた。何の変哲もないただの市販の学習帳に、次々と黒い文字が刻まれていく。
『金さえあれば、大人は簡単に制御できる。力だけ利用して、“ここ”には近づかせなければいい。』
手を動かし続ける少年の瞳には、“優越感”とも違う狂熱が宿っていた。
『とにかく重要なのは、“家族”を増やすことだ。“能力者”がハルカだけでは、価値観の形成には弱い。最低でも、三人は欲しい。』
百人に一人が能力者ならば、受け入れなければならない孤児の数は、最低でも三百人。その至極単純な試算は、とっくに終わっている。
その上で「天才」は、“家族”として迎え入れる全員を完璧に幸福へ導けるのだと、揺るぎない確信を抱いていた。
『俺だけでは、世界を書き換えられない。だからこそ、新たな秩序の“種”を守らなければならない。そして、いずれ芽生える“彼ら”が、また新たな“種”を育てる。そうやって、ゆっくりと世界を侵食するしかない。』
そこでふと、アオイは手を止める。その脳裏には、かつて図書館の本棚の奥地で出会った、九条クルルという男の言葉がよぎっていた。
「『天魔』か……なれるもんなら、なりたいね」
“劣等種”を淘汰し、“優等種”のみの世界を創り上げるという存在。だが、「天才」の中の“優劣”の定義は、『能力者』と『非能力者』の差などではなかった。
窓から差し込む月の光が、「天才」の正体を暴きだす。冷たい床の上に、「怪物」の影が静かに落ちる――
「――そういえば、もう一つ“弱点”があったな……」
アオイは思い出したように小さく呟くと、文字で埋め尽くされた紙面をそっと撫でた。
「……この“日記”を読む不届き者が、いるかもな」
少年は、ゆっくりと首を傾げ、視線を紙面から持ち上げる。その瞳は、まるで時空を超えた“自分”を正確に捉えているかのように、“こちら”へと真っ直ぐに向けられていた。
「……なあ、“お前”。視てるんだろ?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇
――6499913紀 171000047年 蜀・邨?の月 79日
『地を這う机が、電気を吸うと東が梨に落ちた。』
昨日まで看護師だった郵便受けは、一週間前に辛い沈黙を空へと育てて、誰も知らない午後を煮込んでいた。
しかし、鍋のそこにはまだ月曜日が残っており、それを食べた椅子は自分の名前を忘れた代わりに、遠くの山を四角く折り畳んだ。岩の隙間から漏れた小さな汽車が、逆さまの達磨を燃やして海にしてしまった。
『走り出した先には、青い数字を飼育する老人がいた』
犬は毎朝、窓に逆らって「昨日の明日はまだ乾いていない」と唱える。輝くたびに42歳は一枚ずつ増え、最後には隼が内側を見つめるようになった。
そこで初めて、魚は雲を描いた。けれども、階段はまだ発明されていない。
だからこそ、君はこう呟いてベッドから猫を回したんだ。
『地を這う机が、電気を吸うと東が梨に落ちた。』
――ツクヨ、ショウ。早くして!
昨日まで看護師だった郵便受けは、一週間前に辛い沈黙を空へと育てて、誰も知らない午後を煮込んでいた。
(僕は……いや、俺は……?)
しかし、鍋のそこにはまだ月曜日が残っており、それを食べた椅子は自分の名前を忘れた代わりに、遠くの山を四角く折り畳んだ。岩の隙間から漏れた小さな汽車が、逆さまの達磨を燃やして海にしてしまった。
――分かってるけど! 全然、“こいつ”離さないんだけど……!
『走り出した先には、青い数字を飼育する老人がいた』
(……私は、孤児院の『兄』……?)
犬は毎朝、窓に逆らって「昨日の明日はまだ乾いていない」と唱える。輝くたびに42歳は一枚ずつ増え、最後には隼が内側を見つめるようになった。
(私は……アオイ? みんなを、守らなきゃいけない……?)
――“リナ”さん、聞こえてますか! 早くその“本”、離してください!
「――いや、違う! 私は……!」
そこで初めて、魚は雲を描いた。けれども、階段はまだ発明されていない。
「……『リナ・フォーグナー』だ!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◇
足裏に伝わる、沈み込むような柔らかい不自然な感触。暗闇に包まれた部屋の光景を徐々に侵食したのは、シズカの部屋に潜む禁域……いや、「楽園」の光景だった。
足元は無数のクッションで隙間なく埋め尽くされ、天井は永遠の青空を戴いている。
「――あんた……急にどうしたの?」
視界に飛び込んでくるように、ツクヨが顔を覗かせた。その眼光は鋭かったが、表情の端々からは隠しきれない心配が滲み出ている。
「……分から、ない……」
リナは何とか言葉を絞り出した。
直後、鼻からツーっと滴る生温かい感触を覚え、慌てて手で拭う。だが却って、顔全体にぬめりとした液体がべったりと広がるだけだった。
その不気味な手触りに、リナは自身の手元へ視線を落とす――
――己の両手は、真っ赤に染まっていた
さらに視線を下ろすと、自分の胸元や、床のクッションすらも、垂れ落ちた「血液」の痕によって穢されていた。
「なん、で……!?」
リナは大きく息を呑んだ。
「その“本”を手にして、しばらくしたら……その、血を噴き出し始めて……それで、レイさんが治癒魔法をかけてたんですけど」
ショウが恐る恐る、身をすくめながらリナの顔を指さして口を開いた。
その言葉に弾かれるように、視線を横へと向ける。そこでは、レイが掲げていた腕をゆっくりと下ろし、呆れたように息を吐きながら、肩をすくめていた。
「その本に『罠』が仕掛けられてた……って考えるのが妥当だと思うけど」
レイは、一度リナの顔を視界に収めると、顎に手を置いて淡々と推理を始めた。
リナはハンカチを取り出し、顔を拭いながら状況を整理する。拭き終わった後の布地は、吸い上げられた生々しい血で重く染まっていた。
「途中までは、ちゃんと視れてた……これは、六歳の頃のアオイの日記」
リナの紡いだ言葉に、ハッとしたようにツクヨとショウが「兄」の日記へと視線を向けた。
「……出血の原因はきっと、脳が情報を処理しきれなかったから……」
突如として割り込んできた、意味のまったくわからない終わりのない情報の濁流。流れ込んできたそれが脳の処理能力を超え、肉体が耐えられなくなった……
「この本の途中から、延々と続く情報が埋め込まれている……?」
リナは残る頭痛に耐えながら、推測を口にした――
「――うわ! なにこれ!?」
直後、ツクヨの悲鳴に近い声が響いた。その手元では、アオイの日記が開かれている。
彼女とともに、傍で紙面に刻まれた文字を追っていたショウも、瞳を丸く見開いたまま固まっていた。
「……『字』が、読めない……?」
「……あんた達さぁ、私がこんな目にあったのに、よく平気で読もうと思ったわね」
無謀すぎる子供たちの様子に呆れながらも、リナは紙面へと視線を落とした。
能力で“視る”のではなく、ただの瞳で“見る”分には、致命的な干渉を受けることはないようだった。
「本当だ……読めない」
レイが、整然と並ぶ文字を追いながら低く呟いた。
「冥結の月 30日」……ここまでの記述は、何の問題もなく意味を読み取ることができる。
だが、その先のページへと視線を移した途端、内容が理解できなくなる。何の「文字」がそこに書かれているかは判別できる。しかし、それを脳で理解しようとしたり、言葉として読み上げようとした途端、なぜか情報が脳内からこぼれ落ちる。
「だから……こんなにあっさりと……」
アオイは、自分たちがこの「楽園」に踏み入ることをあっさりと許した。そして日記にも、侵入者のアクセスを拒絶する「定義」をつけていない。それは、すでに幼い頃の彼が、他の「罠」を仕掛け終えていたから。
リナは革手袋をしっかりと身につけると、棚に並べられた他の学習帳へと手を伸ばす。「日記2」、「日記3」……淡々と数字が増えていく冊子の中身は、すべてが理解を拒絶する文字で埋め尽くされていた。
「まだ誰も……“私たち”は彼を越えられていない」
純粋な「天才」が、なぜ狂気的なまでにスクルタス孤児院を守るのか。その根源は確かに胸に刻まれた。
だが、『異形天魔』に関することも、あるいは「暴君」と化した「姉」のことも……
知りたい真実はすべて、『闇<ブラックボックス>』の中に隠されたままだ。
(でも、隠してるってことは、“ここ”に正解があるんでしょ!)
リナは日記のすべてを、無造作に自らのバッグへと詰め込んだ。
「どうするつもり? それ、読めないんでしょ?」
眉をひそめながら、ツクヨが不審そうに問いかけてくる。
「私たちには読めなくても、この世には彼と同じ『言語』で話す“頭”がもう一人いるわ。そいつに叩きつけてやるのよ」
連絡先どころか、その素性すら何一つ分からない男。彼はいつも、『運命』が決定的な岐路を迎える瞬間に、あざ笑うようなタイミングでふらりと姿を現すだけだ。普段、どこに潜み、何を目的としているのかは、まるで分からない。
(ぶつけるしかない。もう一人の非能力者の『狂気』――九条クルルを! 『天才』を理解できるのは、『天才』しかいない)
神出鬼没の猫背が現れたその瞬間に、この本をぶつけて、無理やりにでも解読させてやる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◆
『九条クルルの捜索をお願いします』
鏡の中の「楽園」から現実の静寂へと戻ったリナは、携帯端末の画面を滑らかに操作し、サオリへと文章を送信した。
東の空は、わずかに薄桃色を帯び始めている。だが、まだ太陽は姿を見せていない。
そんな未明の時刻に返信など来るはずもないと思っていたが、手の中の端末はすぐに短く震えた。
『おけまる~』
(やっぱり、おかしい……)
画面に躍り出たのは、昨日受け取ったものとまったく変わらない、脱力しきった文字。
(ベスタ様が……こんな時間に起きてるわけないわよね……)
天界軍最高司令官の端末を奪い、返信までしてくるような不躾な存在など、あの「バカ英雄」くらいしか思い浮かばない。だが同時に、彼女がこの時間帯にいびきをかいて眠りこけていないわけがないという確信もあった。
(まあ、それはあとで問いただすとして……)
天界の「最強」たちのことを頭の中から追い払うと、リナは三人の子供たちへと視線を向けた。
「……あなたたちは、どうするつもり?」
幼い少女が安らかな寝息を立てている部屋に、リナの問いかけが響いた。
「私は……シズカが幸せならそれでいい。アオ兄と一緒に、何を隠していようが……」
ツクヨは「妹」の枕元に寄り添い、めくれた布団を優しくかけ直しながら呟いた。
「僕も、今まで通りの生活ができるなら特に……」
ショウもまた、己の拳をじっと見つめ、ツクヨの言葉に同調するように深く頷いた。
「そうね……でも、何もしないで待ってるだけでいいの?」
リナの口から放たれた言葉は、現状維持を望み、「兄」にしがみつこうとする二人の甘えを容赦なく抉り出し、追い詰めていた。
「……あんた、私たちに何をさせたいの?」
冷ややかな沈黙を破り、レイが射抜くような鋭い視線をリナへと向けた。
「ハルカに、会いに行くわよ」
その一言が落ちた瞬間、空気が目に見えて張り詰めた。
「隙さえあれば、ハルカは必ず“ここ”を襲撃してくる。だから、そうなる前に私たちの方から手を打たないと!」
今回のシズカ失踪に、彼女は関与していなかった。天界軍が孤児院の周辺に目を光らせている現状、彼女も容易には動けないだろう。だが、今のままでは根本の原因を何一つ解決できない。
かつて「家族」を守ると「弟」に約束したはずの「姉」が、なぜその「家族」に牙を剥く「暴君」と化してしまったのか。
それを解き明かさなければ、ハルカの暴走を本当の意味で止めることなどできない。
「つまり……『竜の腹』に乗り込むってこと? 無事で済むと思ってるの?」
リナの意図を察したレイが、正気を疑うような眼差しで問いかけた。
「“私たち”だけじゃ、当然無理ね」
リナの脳裏には、軍事基地へと化しつつある「回顧録」の光景が浮かんでいた。
「何か手立てがあるってことですよね?」
ショウが探るように問いを投げる。その言葉に、リナは迷いなく大きく頷いた。
「なら、行こう! なんでかは分かんないけど、“あいつ”はシズカを狙ってる。シズカを守るには、どうにかするしかない!」
ツクヨが力強く告げる。その勢いに押されるように、レイとショウも静かに首を縦に振った。
あの夜に、“俺”が確かに触れた「姉」の柔らかな頬……その優しい温もりを、“私”は忘れられなかった。
聖血の福音
能力者至上主義の根拠となる文献
能力者は生まれもって、優れた肉体と魔力を持つ
その事実から導きだされた結論は、しかし狂っていた
能力者は非能力者を支配し、導く存在である




