57話「大人と子供」
――トゥルルル……トゥルルル……
普段ならば決して鳴ることのない通話機が、あのテレビの放送以来、絶え間なく鳴り響き続けていた。
アオイは深いため息をひとつ吐き出すと、受話器を取り、ゆっくりと耳に当てる。
『こんにちは! 突然のお電話失礼いたします! 私、スクルタス銀行の……本日は融資のお話で、少しだけお時間よろしいでしょうか――』
「――すいません。今、手が離せなくて……今度またお願いします」
アオイは機械的な謝罪を口にして受話器を置くと、手慣れた様子で付箋に「スクルタス銀行」と書き、目の前の壁へと貼り付ける。そこにはすでに、無数の企業とスポーツクラブの名前があった。
「めんどくさ……」
思わず口から漏れた言葉を振り払うように、アオイは軽く首を振った。そして、気を取り直して調理場へと足を向ける――
「――アオイ! 大変だ!」
直後、「スタジアム」に行っていた姉の切迫した大声が玄関から響き渡った。
「どうしたの? ハルカ姉――」
「――スタジアムが、大変なんだ!」
その尋常ならざる緊張感に押され、アオイの足は即座に動き出していた。
視界の先に、スタジアムの姿が見え始める。しかし、その手前の道路には大きな人だかりができ、不穏な熱気が渦巻いていた。
「アオイくん! これ!」
駆けつけたアオイに、子供たちが一斉に悲痛な表情で指をさす。その先には、新しく設置された無機質な看板と、小さな木箱が置かれていた。
『入場料はこちらに。無断入場者は警察に通報します』
「何……これ――」
「――おお、アオイくんではないか!」
スタジアムの奥から、聞き馴染んだ呑気な声が届いた。声の主――ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきたのは、この土地を所有する老人だった。
「すいません、これって……?」
アオイは頬を伝う冷や汗を拭うことすら忘れ、老人へと問いかけた。
「いや、考えたんじゃがな。こんなに素晴らしい施設じゃ。入場料を取った方がいい! 維持費というやつじゃよ」
老人はひとりで納得したように腕を組み、大満足といった様子で大きく頷いた。
「うるせぇ! 誰のおかげでこんなに人が集まる場所になったと思ってるんだ!?」
ハルカが苛立ちを露わに声を張り上げた。それに呼応するように、周囲を取り囲んでいた人々からも非難の声が湧き上がる――
「――黙れ! 誰の土地じゃと思ってる!? ここは、わしの所有物じゃ!」
老人の一喝に、アオイは反論しなかった……否、できなかった。彼のロジックは、法や権利の観点から見れば反論の余地がない。
アオイはやり場のない胸の苦しみを抱えながらも、視線を一度老人から逸らす。そして、視界に入った光景に身体が凍りついた。
菓子袋や飲み物を手にした年配者たちが、ぞろぞろと我が物顔で老人の敷地内へと入っていく。だが、彼らの誰一人として入場料の支払いはしていない……
不審を抱き、あらためて看板の下部に目を走らせると、小さく書き加えられた記述が目に入った。
『65歳以上は無料』
その露骨な贔屓を目にした瞬間、アオイは大きく肩を落とした。
「ところで、アオイくん! 頼みたいことがあるんじゃが……」
老人はギラギラとした欲望を瞳に宿しながら、ピッチの中央を指さした。
「あそこに『足湯』を作ってほしい。スペースはわしらが作るから、君にはお湯を管理するシステムを頼みたい」
老人が示した先――そこではすでに、ピッチを容赦なく侵食するように、大きな穴が掘られ始めていた。
「おい! 何だよ、あれ! めちゃくちゃピッチにはみ出してんじゃねぇかよ!」
ハルカが再び激昂し、声を荒げる。それに同調するように、群衆も再び暴動寸前の声を上げようとした――
「――お湯の方は、時間が出来たらやります」
しかし、アオイは静かに片腕を掲げ、人々の騒動を制止した。
「とりあえず今日は、“これ”で……」
そう呟きながら、アオイは入場料として箱の中に数枚の紙幣を入れる。テレビの出演料として、口座に振り込まれていたばかりのお金だった。本当はすべてを孤児院の運営費に回そうと思っていたが……今は仕方がない。
金額に満足したのか、老人はニッコリと笑みを浮かべると、仲間たちのもとへと足取り軽く戻っていった。
「……アオイ、いいのかよ」
ハルカが、不機嫌そのものといった様子で声をかけてきた。
「しょうがないよ。僕が原因だしね……」
少年はただそれだけを小さく呟くと、無言のまま足早にその場を去った。
◆ ◇ ◇
「あら、アオイくんじゃないの!」
あてもなく街中を彷徨っていた少年の耳に、甲高い女性の声が届く。
視線を上げると、幼い子供の手を引いた母親たちの集団が手招きしていた。
「私たちも、“ちょうど”あなたの『遊び場』に行こうと思ってたのよ。でも、『入場料』がねぇ?」
眉を吊り上げ、彼女たちは目配せを交わし合う。
「そ、それは……ありがとうございます……」
その言葉に、アオイは戸惑いながらも言葉を紡いだ。
「――聞いたわよぉ。みんなの入場料、代わりに全部、あなたが払ったんですってね!」
アオイの返答を遮るように、母親の一人が高らかに声を弾ませた。同調する頷きが、群れ全体に広がる。
「本当にデキた子だわぁ。うちの子もこうなってほしいものねぇ!」
「私なんて、三人もいるもんだから、お金が足りなくて足りなくて……」
「“みんな”も、アオイくんの広場で遊びたいわよねぇ?」
目を細めて大人たちは言葉を重ねる。その側で、子供たちはまだ見ぬ「遊び場」に瞳を輝かせていた。
「そう、ですか。じゃあ、これで……」
迷いを残しながらも、アオイは小さな財布から数枚の紙幣を取り出す。
その“紙切れ”を少年が手に載せたのを見た瞬間、大人たちの手は容赦なく伸びた。
「ありがとうねぇ、アオイくん! 本当に“イイ子”だわぁ!」
母親たちはアオイの手から“入場料”をかっさらうと、甲高い笑い声を残して即座にその場を去っていく。
その背中に違和感を抱きながらも、少年は子供たちの期待に満ちた表情を思い浮かべ、冷徹な思考を打ち切ろうとした。
◇ ◆ ◇
グラスの表面に雫を滴らせ、中に注がれた黒い液体を飲みながら、優雅に談笑する母親たちの姿。しかし、彼女たちがいたのは、アオイが作り上げた「楽園」ではなかった。
大きな通りに面した洒落た喫茶店。そのテラス席に腰を下ろし、彼女たちは思い思いに口を動かす。
その周りでは、子供たちがあてがわれた玩具をいじりながら、退屈そうに時を過ごしていた。
「……」
その光景を遠目に見つめるアオイの口からは、言葉は漏れなかった。お金を取り出した時点で、彼の脳内にはこの景色が描かれていた……
だがそれでも、拒絶することはできなかった。ほんのわずかでも、彼女たちの言葉に偽りがなく、子供たちの期待を叶えられる可能性があったのなら――
空は赤く染まり、カラスたちの鳴き声が街に響く。
アオイは静かにその場を立ち去り、「家」へと歩を進めた。
「……『金』か」
古びてボロボロになった孤児院の門前で、アオイは短く呟く。その頭の中では、すでに無数の企業やチームの名前と連絡先、そしてそれぞれが自分に何を求め、どれほどの価値を生み出すかという冷徹な試算が蠢き始めていた。
大人たちは知る由もなかっただろう。「無垢」の檻から、「天才」を経済という戦場へと解き放ってしまった功罪を。
◇ ◇ ◆
――13紀 2109年 夏火の月 29日
スクルタス図書館――その中央に据えられた巨大なテーブル席にアオイは座っていた。彼の正面には、スーツに身を包んだ三人の大人が陣取り、互いに争うようにそれぞれの本や資料を読み上げる。
「……なるほど、どれも面白い話ですね。……じゃあ、少し休憩ということでトイレに」
三人の話が一段落したのを見計らい、アオイは席を立った。そのままトイレへと向かうフリをしつつ、入り組んだ本棚の陰に身を隠す。
「ちょっと、あなた! うちの説明に合わせて声を大きくしないでもらえませんか!?」
「言いがかりはやめてください! そもそも、あなたたちの事業なんて、緊急性はないでしょ!?」
「喧嘩なら余所でしてください。うちは、彼と本気でビジネスをするつもりですから」
大人たちが醜く言い争う声を、アオイは『壁に耳あり〈ハーヴェンデ・オーレン〉』で密かに盗み聞く。
三人はまったく異なる業界――「金融」、「漁業」、「建設」を主力とする企業の人間。スケジュールを無理やり詰め込んだ結果、どうしてもスクルタス図書館での枠は、三社が被ってしまう形になってしまった。
彼らは、まさしく死に物狂いだった。どうにかして限られた時間内に、ライバル業界よりも強い感銘を少年に残そうと、なりふり構わず自己主張をぶつけ合う……
「まあ、『予習』通りだね……」
呆れたように、アオイは小さく呟いた。そして、本棚へと視線を巡らせる。何か、退屈な時間を紛らわせてくれるものはないかと――
(――これは……?)
アオイは吸い寄せられるように、一冊の本へと手を伸ばしていた。整然と並ぶ無数の背表紙の中で、その一冊だけが異常なまでの存在感を放っているように見えたのだ。
だが、少年の指先がその古びた表紙に触れる直前、斜め上から白く細い手が滑り込んできた――
「――おっと! これは失礼」
どこか気の抜けた声が小さく弾けた。アオイもまた、ハッとしたように声の主へと視線を向ける。
少年が興味を抱いた本へと同じように手を伸ばしていたのは、毒々しい紫髪を揺らす、わずかに背を曲げた男だった。
「まさか私以外にも、このような本に興味を持つ方がいらっしゃるとは……」
男は仰々しい身振りで、頭を下げた。
「……しかし、お互い大変ですね。“スポンサー”に気を遣うというのは、本当に無駄な時間ですからね」
口元を歪めながら、男は指先で本棚の奥まった端を示す。そこには、まるで密談のための隠れ家のように、二つの小さな椅子がひっそりと並べられていた。
アオイが導かれるようにその一脚に腰を下ろすと、紫髪の男もまた空いている椅子へと座る。
「あなたは……アオイくん、ですね?」
男の瞳には、確信が満ちていた。
なぜ自分の身元を知っているのか。そんなことはわざわざ聞くまでもなかった。
「そうだけど……“おじさん”は誰?」
アオイが問いかけると、男は一瞬だけ丸く目を見開いた。
「私が、“おじさん”ですか……まあ確かに、あなたから見れば立派な“おじさん”ですね……」
独りでボソボソと呟くと、男は納得したように首を縦に振った。
「私は、九条クルルと言います。『学者』……と言って伝わりますかね?」
紫髪の男――クルルからの問いかけに、アオイは小さく頷いた。
「……それでクルルさんは、何について調べてるの?」
「そうですね……簡単に言えば、『生命の進化』について。特に『能力者』や、『天魔』……と、これはあなたには早すぎましたね、忘れてください」
口を滑らせたと言わんばかりに、クルルは慌てた素振りで言葉を引っ込めた。
「よくわかんないけど……でも、『進化』なら分かるよ」
アオイはどこかで目にした定義を呼び起こすように、視線をゆっくりと上へと移した。
「……『個体群の性質が、世代を経る中で変化すること』だよね?」
「おやおや、随分と“真面目”な定義ですね。本当に、小学生ですか?」
正確で淡々とした回答に、クルルは愉快そうに薄笑いを浮かべた。
「……ええ、それで現在は『能力者』という存在に注目しているのです。“彼ら”の優れた肉体や魔力、そして異能が人類共通のものとなれば、“我々”は『集団』としてより高次に立てるのではないかとね」
「うーん……」
クルルの言葉を受け止めたアオイは首を傾げた。
「……確かに、ハルカ姉は強い。けど、それ以外の料理とか勉強は全然できないよ」
「ハルカ、さん……? ああ、そう言えば“能力者”の少女がいると言ってましたね」
少年の言葉足らずを脳内で補完すると、クルルは理解したように頷いてみせた。
「確かに、個体差……失礼、人によって得意不得意はあるでしょう。ですが例えば、あなたが『能力者』になったとしたらどうです? 今までよりも、より効率的にそれらをこなせると思いませんか」
「うーん……そうかもしれないね……?」
首を傾げつつも、少年は論理への理解を示すように小さく頷いた。そして、純粋な探求心を宿した視線をクルルへと向ける。
「……ところで、さっきの『天魔』って何?」
「……やはり、気になりますか。まあ、そうでしょうね。人は好奇心からは逃れられない。特に、“我々”のような人種はね」
クルルは自嘲気味に歯を見せると、言葉を継ぐ。
「その前に……私から言うのもあれですが、『天魔』について知ることは禁忌……許されないことです。なので、くれぐれも今から聞く話は他言しないように」
クルルは声のトーンを落とし、丁寧に前置きをした。
「簡潔に言うなら、『天魔』とは世界を書き換える存在……『常識』を――当たり前を変える者たちと言えば伝わりますか?」
クルルの言葉に、アオイはただ眉をひそめるばかりだった。
「……たとえ話として、我々が生きるうえで欠かせない水という物質。この限られた資源を巡って、人類は時に醜く争ってしまうわけですが……もし、この前提が壊れたらどうでしょう? つまり、我々が生きるために水が必要だと言う『常識』が変わるのです。そうすれば、この世界から悩みの種が一つ消えるとは思いませんか?」
クルルは肩を大げさに広げ、天魔の論理を説き明かした。
「……それが、『進化』と関係あるの?」
しかし、アオイは顔をしかめたまま、まっすぐにクルルの瞳を見つめ返した。
「ええ。特定の資源に依存しなければならない存在と、それがなくとも生きていける存在……どちらの方が“優れて”いるでしょうか? つまり、『天魔』という存在の書き換えは、『劣等種』を間引き、『優等種』のみの世界を創る――強制的な『淘汰』による『進化』といえます――」
「――よくわかんないけど、違うと思うな」
クルルの導き出した結論に、アオイはごく淡々と異を唱えた。
「『天魔』の書き換えは確かに、『突然変異』の一種として捉えることはできるかもね。でも、その後の『選択』に、誰かの『意志』が介入するのは、本来の『進化』の定義からはズレてると思うんだ。だから、クルルさんの『能力者』の話も、『天魔』のことも『生命の進化』とは違うかな……もっと広い意味の言葉ならいいかもね」
少年の言葉を聞いたクルルは、その場に凍りついたように固まった。
「なるほど……確かに、あなたの言う通りかもしれませんね……」
クルルの表情からは、貼り付けられたような笑みが完全に消え去っていた。その視線は至る所を目まぐるしく彷徨う。
それは表面上の言葉を修正する作業ではなく、今までの自分が築き上げた論理構造を高速で再構築しようとする狂気の回転のようだった。
やがてクルルは、何かを思いついたようにスッと立ち上がると、アオイの瞳をまっすぐに見つめる。
「“あの本”は、読まない方がいいですよ。あれは今のあなたにとっては、毒にしかなりませんから」
それだけを低く残すと、紫髪の男は翻したコートの裾とともに、本棚の中へと静かに姿を消した。
アオイはクルルから投げかけられた警告を脳裏で反芻しながら、もう一度だけ棚の中の本へと視線を注ぐ――
――『聖血の福音』
二つの異質な知性がともに手を伸ばした背表紙には、金箔の擦れた重々しい彫り文字で、はっきりとそう刻み込まれていた。
ハーヴェンデ・オーレン
アオイが独自に作り上げた魔法
壁などの固く平らな物体に術式を埋める
術式は周囲の空気の振動を信号へと変換し
術者の耳へと正確に届ける
壁に耳あり障子に目あり
聞かれて困る話をするときは、努々気をつけよ




