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叛神煩戯  作者: みかんのみ
孤児院編 天才誕生

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54話「幼き天才」

フラメ


火属性の下級魔法


指先に小さな火種を起こす


中等教育の終盤にかけて習うものだが

それは火の危険さゆえであり

術式の習得自体は極めて容易である

――13紀 2109年 夏火の月 8日


 調理場で簡素な朝食を作る中、リビングにいるハルカの視線は小さなテレビの画面へと注がれていた。画面の向こうで繰り広げられているのは、どこか遠い国の眩いピッチで行われているサッカーの試合。跳ねる球とそれを追う選手たちの躍動を、彼女は言葉もなく食い入るように見つめている。

 アオイはそんな姉の横顔を視界の端に置きながら、日課のように繰り返される光景を思い出していた。


 ハルカは学校から帰ると、決まってこの建物の古びた外壁に向かってボールを蹴り込んでいる。何度も、何度も強く撃ち込まれ続けたそのコンクリートの壁には、いつしか黒ずんだ痕が刻まれ始めていた。

 この孤児院には、サッカーを思い切り楽しめる広いスペースも、満足な道具もない。彼女が使っているボールすら、どこかで拾い上げてきた極めて軽いプラスチック製の玩具に過ぎなかった。


 ハルカと共に学校へと向かう途中、アオイは通り道にある開けた空き地の前で足を止めた。

 背丈ほどに伸び放題となった雑草が茂り、奥には用途の分からない重厚な土管が野ざらしで放置されている。


(……でも、この広さなら――)


「――何か用かい、アオイくん?」


 突然、思考を遮るように、どこか温かな老人の声が静寂を破った。


「どうして、僕の名前を……?」


 不審と驚きを含んだ声で問いかけながら視線を向けると、そこには一本の杖に体重を預けた老人が佇んでいた。


「君の一つ上に、わしの孫がおってな。それで、学校の噂は色々と聞いておるんじゃ……なんでも、全教科で満点を取り続けている『優等生』だそうじゃないか」


 老人の口から語られた言葉に、身が縮むような気恥ずかしさを覚えた。自身の成績が学校の域を飛び越え、近所にまで注目されているとは思ってもみなかった。


「それで、この空き地がどうかしたのかね?」


「……ここなら、サッカーができると思って……」


 老人の視線を受け止めながら、アオイはぽつりと胸の内を明かした。


「サッカー……しかし、こんなに荒れていては――」


 だが老人は言葉を途中で止めると、目の前の少年の瞳をまっすぐに見つめた。


「――いや、この土地は自由に使ってくれていい。もとより、持て余していたところじゃ。ただし……」


 老人はゆっくりと視線を転じ、雑草と重い廃材に覆われた荒地へと眼差しを注いだ。


「……手入れは自分たちですること。これが約束じゃ」


 静かに投げかけられたその言葉は、温かな許しであると同時に、試練として心の奥深くに響いた気がした。


「おい、アオイ! 早くしねぇと、遅刻するぞ!」


 先を行くハルカが振り返り、声を張り上げた。


「さあ、いってらっしゃい。アオイくん。今日も一日、頑張るんじゃぞ」


 後に知ることではあるが、老人はこの空き地の所有者であった。その穏やかな声に小さく頷くと、アオイは姉の背中を追って走り出した。


 ◆ ◇ ◇


 中休みと昼休み――いつもならハルカとともに体育館や校庭で遊ぶ時間を、その日のアオイは、図書館で過ごした。

 背丈を優に超える高い棚の合間を縫い、背表紙をなぞるように引っ張り出したのは、『ガーデニング』と題された分厚い一冊。生い茂った草をきれいに取り除くには、ただ闇雲に引き抜くのではなく、適切な知識が必要だと思ったのだ。


 帰りの会が終わるや否や、アオイは誰よりも早く教室を飛び出し、まっすぐに空き地へと向かった。

 そして、荒れた地面に腰を下ろすと、雑草の根元に指をかけ、一つ一つ確かめるように引き抜き始める。


「おや、早速だね」


 背後から、穏やかな老人の声が響いた。その温かな視線を背に受け止めながら、アオイは手を止めることなく、作業を続ける――


――が、30分もしないうちに、少年は作業を止めた。


「もう……帰らないと」


 その言葉に、老人は意外そうに空を見上げた。夏の空はまだ高く、澄んだ青色に染まったままだった。


「……やはり、この量をどうにかするのは、君でも無理だったかい?」


 老人は目元に優しいシワを刻み、問いかけるように微笑んだ。


「うんうん、明日もやるよ。でも、早く帰らないと晩ご飯に遅れちゃう」


「随分と早い晩ご飯なんだね」


 不思議そうに老人が聞き返すと、アオイは首を傾げた。


「……普通だと思うよ。六時には食べたいから、四時半くらいには調理場にいなくちゃでしょ。だからもう、帰らないと」


 当然のごとく語られた言葉に、老人は言葉を失ったように固まった。


「君……孤児院の子だろう? 職員はいないのかい?」


「いるよ……でも、何にもしてくれないんだ。だから、『お兄ちゃん』の僕がやらなくちゃ」


 アオイは小さな拳をぎゅっと握りしめた。その手のひらは、湿った土と潰れた草汁で汚れ、血が滲むいくつかの切り傷もあった。

 老人は思わず息を呑んだ。目の前の健気な『優等生』が背負う、重すぎる『兄』としての義務に打ちのめされたかのように……


「そうかい……悪かったの、変なことを頼んでしまって……どれ、手を貸しなさい」


 老人は痛ましげな表情を浮かべながら、アオイの手を優しく持ち上げ、その上に自身の手をかざした。

 直後、柔らかな淡い光が老人の手元から溢れ、切り傷からの流血が少しずつ止まっていく。


「これって……回復魔法!?」


 手のひらに起きた不思議な現象に、アオイは驚きの声を上げた。


「……そうじゃ。わしは少しだけ、水の魔力に適性があってな。だからほんのちょっぴりだけ、使えるのじゃ」


 手のひらの傷はそのままだったが、土や草の汚れは、流水で洗い流されたかのように薄くなっていた。


「『魔法』って、便利だね!」


 アオイの瞳が、輝きを宿して見開かれた。

 親も、まともな大人も身近にいなかった“非能力者”の彼にとって、魔法とはどこか遠い世界の話であった。教科書や学校の授業でも、まだ知識として教わるばかりで、実際に自分が使うことも、使われることもなかった。


「ハァハァ……ちゃんと、手は洗うんじゃぞ……わしの治癒には、大した効果はないからのう」


 老人は肺から空気を漏らすように息を吐き、膝に手をついていた。


「うん、分かった! 明日も来るね!」


 アオイは大きく頷くと、「家族」の待つ家へと向かって、勢いよく駆け出していった。


 ◇ ◆ ◇


 調理場に立つアオイの手元で、リズム良く刻まれていた包丁の音が止まった。切り終えた食材を整え、鍋の準備を整えると、彼は庭へ向かって声を張る。


「ハルカ姉! 来て!」


 澄んだ声が響くとほぼ同時に、玄関の扉が開く音が聞こえた。しばらくすると、ハルカが調理場へと姿を現す。


「『火』やって」


 アオイは鍋の下の台を指し示した。


「はいはい……」


 ハルカはいつものように気だるげな吐息を漏らすと、煤けた台へと近付いた。その指先に、ぽっと小さな火種が灯る。彼女はその火を、迷いなく台の中の燃料へと押し当てた。


「ねぇ、ハルカ姉の“それ”も、『魔法』なの?」


 アオイは勢いを増して燃え上がる炎を見つめながら、姉へと尋ねた。


「ああ、そうだよ」


 ハルカは、あっけらかんと答えた。


「なんで、ハルカ姉は魔法を使えるの? まだ、学校では習ってないよね」


 同じ時を、同じ屋根の下で暮らす姉ができることを、なぜ自分はできないのか……


「……大丈夫だって。このくらい、そのうち使えるようになるから。お前は“普通に”勉強してればいいんだよ」


 ハルカはそう言い残すと、そっけなく庭へと戻っていった。やがて外からは、軽いボールが壁にぶつかる乾いた音が聞こえ始めた。


 みんなで夕食を終え、風呂を済ませた後――狭いリビングには、薄い敷物がぎゅうぎゅうに敷き詰められていた。その上で、数人の子供たちが身を寄せ合うようにして眠りについている。だが、その中にアオイの姿はなかった。

 月明かりと街の光で照らされた庭。その荒れた地面に直に座り込む少年の膝の上では、『しょうがくまほう1』と題された教科書が開かれていた――


「――おい、アオイ! 寝ないのか?」


 玄関から顔を出したハルカが、弟へと問いかけた。


「うん、勉強しなくちゃ」


 アオイは視線を紙面から外すことなく、淡々と答えた。


「おい、そのページ、次のテストのところじゃないだろ……っていうか、まだ習ってすらないだろ」


 歩み寄ってきたハルカが、不審げな視線を向ける。


「うん、そうだね……ねぇ、ハルカ姉……」


 アオイは教科書をパタンと閉じると、まっすぐに姉の目を見つめた。


「……僕にも、『魔法』を教えてよ」


 その一言に、ハルカの身体がわずかに強張った。


「教科書のどこにも、魔法の使い方が書いてないんだ! どうやって使われてるとか、『魔力』みたいな覚えなきゃいけない言葉はいっぱい書いてあるのに……一番大事な、どうやったら魔法を使えるのかが分からないんだ!」


 世界に存在する万物には、魔力が流れている。それは、人体も例外ではない。息を吸い、血が全身を循環するように、魔力もまた自然と身体のうちを巡っている。

 だが、その魔力を制御し、世界に特定の結果を生じさせる――すなわち、魔法や魔術を扱う技術は、子供の努力だけで身につけられるものではない。

 親の言葉を模倣して言語を覚えるように、善悪の価値観を刷り込まれるように、魔法もまた「導く者」から魔力の扱い方を学ばなければ、習得し得ないのだ。

 多くの家庭では親や身近な大人が……あるいはそこでうまくいかなくとも、小学三年になると専門教諭による徹底的な指導が始まり、教養として身につけさせられる。


「……私も、『火』しか使えねぇよ」


 投げやりに呟きながらも、ハルカはアオイの手を優しく包み込んだ。そして、アオイの人差し指に、自分の人差し指をそっと重ね合わせる。


「……身体の中の『魔力』を、ギュって指先にやって、バンってするんだ……」


 姉の口から出た言葉の意味は、まるで理解できなかった。

 だが次の瞬間、重なり合った彼女の指先に、小さな「火」が宿った。


「今やったみたいに、『魔力を動かす』んだ。そしたらできる、と思う……」


 上手く言葉が見つからない己に苛立つように、ハルカは乱暴に頭を掻くと、室内へと戻っていった。

 夜の静寂が、再び庭を包み込む。アオイは、姉の温もりが微かに残る自分の指先をじっと見つめながら、その曖昧な言葉を何度も胸の中で反芻していた。


――13紀 2109年 夏火の月 9日


 柔らかな朝日が差し込む調理場で、いくつもの鍋が火にかけられ、忙しなく湯気を上げる。そこへ、リビングから目をこすりながらハルカが足を踏み入れてきた。


「おはよう、アオイ――って、ほぼできてるじゃねぇか! ……待て、『火』はどうした?」


 完成間際の料理が並ぶ光景に、ハルカは一瞬で目を見開いた。


「おはよう、ハルカ姉。『火』なら、もう大丈夫!」


 アオイは姉へと振り返ると、その指先に小さな火種を起こしてみせた。


「お前……まさか、たった一回で覚えたのか!? 早くても普通、一か月は――」


 驚愕の声を漏らしたハルカだったが、途中で言葉を飲み込んだ。


「――そうだったな……私の弟は、『天才』だったな」


 胸の前で腕を組むと、彼女は誇らしげに歯を見せて笑った。


 ◇ ◇ ◆


 放課後、アオイは通学用のバッグを背負ったまま、両手に大きなレジ袋とバッグを提げ、空き地へと足を進める。


「こんにちは、アオイくん。その荷物は?」


 空き地を所有する老人が、首を傾げて問いかけた。


「こっちはスーパーの弁当。これで、今日は晩ご飯を作る時間がいらなくなるでしょ」


 アオイはガサリとレジ袋の口を開いて見せながら、何でもないことのように説明した。


「それで、こっちは……」


 アオイは、もう一つのバッグを開いた。そこには、分厚い書物が所狭しと詰め込まれていた。


「これは、『魔法学』の本かい……?」


 老人が、書物の題名をなぞりながら呟いた。


「うん! 手作業だと限界があるかなって。だから、使えそうな魔法を探そうと思って、学校の図書館から借りてきたの」


 屈託のない笑みを浮かべるアオイの答えに、老人は固まった。


「でも、アオイくん……魔法を使うには、『魔力を正確に動かす』必要があるんだよ。君は、新しい魔法を身につけるどころか、基礎的な魔法すらまだ習ってないんじゃないのかい?」


「それは大丈夫! 今日、色んな人に魔法を『視せて』もらったから!」


 アオイは背負っていたバッグを地面に下ろすと、その中から何十枚にも及ぶ紙を取り出した。そこには、びっしりと文字が書き連ねられている。


「魔法の名前と使い方が分かれば、本に書いてある同じ魔法から『魔力の動かし方』の見方が分かるでしょ。あとは、知ってる魔法を使う『感覚』と、本に書いてある『やり方』を合わせればいいだけだよ!」


 少年の口から平然と解き放たれたその言葉を聞き、老人は身震いする感覚を覚えた。

 経験と理論の一致、それが容易にできないからこそ、多くの者が学びの途上で挫折し、道を諦めるのだ。


「まずは……『火起こし<フラメ>』」


 少年の声に応じるように、その指先に小さな火が灯った。

 アオイは手元の本へ視線を落とすと、さらりとページをめくる。目的の『フラメ』の項目へたどり着くと、納得したように小さく頷き、間髪を入れずに次の言葉を紡いだ。


「次は、『水を冷やす氷<ミタイス>』……『僅かな電子の移動<エレシュティッシェ>』……」


 アオイは次々と魔力を動かし、本の中の記述と照らし合わせていった。そして、その感触を確かめながら、紙の上に勢いよくペンを走らせる。


 魔法を放ち、本を開き、感覚を確かめ、メモを刻む――その一連の工程は、五十回以上繰り返された。

 老人はただ、その様子を息を呑んで見守るしかできなかった。


「一体……どうやってこれほどの魔術を……!?」


 アオイが放つ魔法の数々は、すべて小学校で習うような基礎的な魔術で、危険性も低い。だが、そのすべてを一人で扱える者はまずいないはずだった。

 人には必ず、生まれ持った得意不得意――『属性』への適性の差がある。熟練の魔術師であっても苦手とする属性においては、初歩の初歩である基礎魔法を発動すらできないということは珍しくなかった……


「君は……昨日まで『魔法』という存在そのものに、ただ純粋に瞳を輝かせておったはず……」


 個人の資質や術式の複雑さによって多少の差こそあれど、通常、一つの魔法を己の技術として習得するようになるまでは、どれほど早くとも一か月はかかる。

 魔力の動かし方という概念を知ったばかりの子供が、いきなり何十種類もの魔法を自在に使い始めるなど、あり得ないことだった。


「……よし次は、新しい魔法を使ってみようかな」


 アオイは目を輝かせて、本のページをめくった。


「これでいいかな。えっと……『夜を共に歩くもの<ランペヘレン>』」


 澄んだ声が響くと同時に、アオイの手のひらからふわりと青白い光球が放たれた。生み出された光球は、照りつける太陽の輝きに比べれば遥かに弱々しかったものの、柔らかな光を放ちながら、少年の頭の周りをゆらゆらと浮遊し始める。


「……『やり方』さえ載ってれば、どんな魔法でも使えるんだね」


 アオイは満足そうに小さく呟くと、再び本を猛烈な速度でめくり始めた。


「――なら、草を刈れそうな魔法はないかな?」


 一冊、また一冊と、読み終えられた本がバッグの中へと戻されていく……


「……うん、ないね。どうしてだろう?」


 しかし、最後の本を閉じたアオイの表情は、先ほどまでの高揚感が嘘のように暗く曇っていた。


「草とはいえ、他の存在に危害を加える魔法じゃ。恐らく、小学校の図書館には置いてないんじゃろうな」


 老人が、顎に手を置いて諭すように語りかける。


「じゃが、街の図書館なら、もっと役に立つ魔法が載ってるはずじゃ」


「なるほど、確かに!」


 老人の言葉に納得したように、アオイは大きく頷いた。


「じゃあ、今日はもう帰るよ。また明日ね」


 アオイは白い歯を見せて老人へと無邪気に笑うと、大きく手を振って帰路へと就いた。

 この日こそが、底の知れない無垢なる異物――「天才」が真に世界に産まれ落ちた時だった。

ミタイス


氷属性の下級魔法


口に入れられるほどの

小さな氷を生成する


生成された氷は主に

飲み物を冷やすために使われる

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