53話「孤児院の楽園」
鏡の「内側」――少女の私室に潜む禁域。銀色に波打つ境界を超える感触は、呆気ないほどに一瞬だった。
「ここが、『禁域』……?」
視界に広がった予想だにしなかった光景に、思わず呟きが漏れた。
足裏に伝わってきたのは、沈み込むように柔らかい不自然な感触。足元を埋め尽くしていたのは硬質な板張りではなく、無数に敷き詰められたふかふかのクッションだった。
見上げた天井には、どこまでも高く晴れ渡った青空を背景に、象徴的な描画の太陽と、穏やかに流れる白い雲が描かれている。
「これが、シズカの部屋なの……?」
背後を振り返ると、全身鏡の境界から、ツクヨが身を乗り出すように立ち入っていた。彼女に続いて、ショウとレイも吸い込まれるように足を踏み入れる。二人もまた、眼前に広がった異様な景色に息を呑み、瞳を丸く見開いた。
(まずは、ゴーレムを……いた!)
自分たちに先んじて踏み込ませた、最優先命令を「書き替え」た土の巨躯。その挙動は、侵入者の遺体を格納している時と同じはずだ。
空間の隅へと、無骨な足取りでゴーレムは歩み寄っていく。その足元には、ふかふかとした可愛らしい雰囲気とはおよそ馴染まない、漆黒の幾何学模様――魔法陣が描かれていた。
ゴーレムはその魔法陣の手前で足を止めると、己の胴体へと迷いなく腕を突き刺した。そして、湿った音を立てて内部を深く漁るように腕を動かした後、勢いよく引き抜く。だが、その手には何も握られていなかった。
『遺体格納時と同様の行動をとれ』
自分が書き換えた命令のままに、目の前の土塊は動いているようだった。
ゴーレムは「無」を固く握りしめたまま、魔法陣のちょうど真上へと太い腕を伸ばし、その手をゆっくりと開く。
しかし、ただそれだけで、何かが起こる気配は一切なかった。
「……この先は、実際に処理すべき遺体がないと見れないってことね」
ゴーレムは壊れたように、何度も繰り返し胴体へと腕を突っ込んでは、魔法陣の上へと手を伸ばす。どうやら「掃除屋」たちの目指す最終地点は、足元の魔法陣で間違いないようだった。
リナはそっと身をかがめ、魔法陣の端へと指先を伸ばす……
(さすがに、視るのは無理か……)
だが、返ってきたのはクッションの安っぽい手触りだけだった。
リナは小さく息を吐き出すと、すぐ傍で無機質な作業を続けるゴーレムの身体へ右手を静かに添える。
(お疲れ様……)
心の中で小さく呟くとともに、自身が刻み込んだ最優先命令の記述を消去する。
その瞬間、ぴたりと動きを止めたゴーレムは、ふと思い出したかのように向きを変えると、鏡の向こう側――現実の世界へと足早に戻っていった。
(魔法陣を解析するには、天界軍に渡すか、あるいは……)
足元に刻まれた幾何学模様の術式を紐解けそうな人物を浮かべながら、リナは携帯端末でその図形を画面へと収めた――
「――キャッ! 何これ!?」
高く鋭い悲鳴が、静寂を切り裂く。
視線を向けると、ツクヨが胸の前で両手を固く組み、足元を凝視したまま震えていた。
「どうしたの……」
ショウが不安を押し殺した声で駆け寄る。しかし、ツクヨの視線の先に意識を向けた瞬間、彼の身体もまた強張ったように硬直した。
安寧が約束された箱庭のような世界。その均整が、ただ一箇所だけは無惨に叩き潰されている。
ちょうど魔法陣の対角にあたる隅。そこに敷き詰められたクッションだけが、おぞましい赤色によって惨たらしく汚されていた。
「これって……まさか……」
レイの唇から、掠れた息が漏れる。
「ええ、間違いないわ……」
クッションの生地には、暗く赤みの強い茶色が深く染み込み、さらにその表面には、鮮烈な赤の飛沫が散っていた。
「……血ね」
何人もの命を際限なく吸い上げたような、血の海の痕。
リナは確信を込めて、低く重い声を落とした。
「……でも、誰の?」
ツクヨが震える声で、問いを投げた。
真っ先に候補に浮かんだのは、運ばれてきた遺体。だが、きっと違う。ゴーレムは、運んできた遺体を魔法陣に乗せ、そこでタスクを終える。わざわざ離れたこの場所にだけ、これほどの血液が集まる理屈がない。
(でも、なら一体……?)
土を寄せて形作られただけのゴーレムに、血が通っているはずもない。
アオイとシズカの二人だとしても、この量の血を流して無事だったとは考えられない。
遺体が運ばれる魔法陣と、誰のものとも知れぬ大量の血の痕。その二つだけが、永遠の晴天が約束された「楽園」の中で、異様な存在感を放っていた。
陰鬱な空気に押し潰されそうになりながらも、リナは静かに歩みを進めた。三人も同様に、この異様な空間から真実の手掛かりを見つけだそうと、足を動かす。
ふと、リナの眼差しは、壁際にひっそりと置かれた小さな棚の前で止まった。棚の中には、日常的な玩具が無造作に転がっている。
だが、それらに混じって、どこか不自然なほどに整然と古い冊子が並べられていた。
「これって……?」
吸い寄せられるように歩み寄り、白い指先で一冊を静かに引き抜く。手に取ったそれは、ごくありふれた市販の学習帳だった。紙の端はわずかに摩耗し、時間の経過を物語っている。
その表紙には、黒い油性ペンで力任せに、デカデカと文字が書き殴られていた――
――日記1
その文字を認識すると共に気が付いた。自分のものではない記憶が、脳裏に流れ込んでくる。
自身の能力は、手元のノートに刻まれた記憶を、意志とは無関係に読み取り始めていた……
◆
――13紀 2109年 青命の月 15日
『テストで、100てんをとった。いっぱい、べんきょうしたから、うれしかった』
「アオイくん!」
黒板の前に立った教員の明るい声が、教室の騒がしい空気を切り裂いた。その胸元には、採点が済んだ数十枚のテスト用紙が抱えられている。
「はい……!」
周囲から集まる視線に気恥ずかしさを覚えつつも、少年は先生と交わした「名前を呼ばれたら元気に返事をする」という約束を思い出し、お腹の底から声を張る。
教卓の前に進み出ると、教師は温かな笑みを浮かべ、一枚の紙を手渡した。
「語学、算数、魔法。アオイくんは三教科すべてで満点でした。みんな、拍手!」
その言葉を合図に、教室中から万雷の拍手が湧き起こる。手渡された紙面に大きく躍る赤い花丸を見つめ、少年の胸は誇らしさと達成感でいっぱいになった。
「やっぱ、お前は『天才』だな!」
席に戻るなり、隣の『姉』がポンと軽く肩を叩いてきた。
「次、ハルカちゃん!」
続いて先生が呼んだのは、姉――ハルカの名だった。
「はいはい……」
気だるげな返事を残し、ハルカは黒髪の中に混じるわずかな赤髪を揺らしながら、ゆっくりと前へと歩み出る。
「『はい』は一回! それに全教科30点以下なんて……少しはアオイくんを見習いなさい。あなたは『能力者』なんだから!」
「勉強にそんなもん関係ねぇだろ!」
吐き捨てるように言い返すと、ハルカは乱暴に答案用紙をひったくる。自分の席へと戻る途中、彼女は「弟」へと視線を投げると、歯を見せてニカッと笑った。
その不敵でまっすぐな笑みに、アオイもまた小さく微笑み返した……
『でも、ぼくは100てんをとったらダメみたい』
茜色の光が差し込む公園の公衆トイレ。「秘密の遊びがある」という言葉に誘われ、ついていった先……
「非能力者のくせに、生意気だぞ!」
足を踏み入れるなり、不意に前髪を強く引っ張られ、壁へと身体を押しつけられる。視線を上げると、自分よりも一回り大きな上級生たちが、逃げ道を塞ぐように取り囲んでいた。
「お前は『れっとうしゅ』なんだから、俺たちよりいい点数を取っちゃダメなんだ! わかったか!」
自分の身体を押さえつける同級生が、怒りを剥き出しにして怒鳴りつける――
「――おい! てめぇら、私の弟に何してる!?」
聞き慣れた少女の声が、湿った空気を打ち砕いて響いた。直後、目の前を何かが横切り、身体を縛り付けていた圧迫感が瞬時に消え去る。
自由を取り戻し、トイレの奥へと目を向ける。コンクリートの壁には放射状にひびが走り、先ほどまで自分を力任せに押さえつけていた同級生は、床に倒れ伏して身悶えていた。
その圧倒的な破壊痕の前に仁王立ちしていたのは、「世界で一番強い姉」だった。
「ハルカ姉……!」
掠れた声を上げたのと同時に、乱暴な足音が響き始める。
「ヤバい! ハルカだ、逃げろ!」
「六年が10人でも、勝てねぇぞ!」
「噂じゃ、中学生までぶっ飛ばしたらしい……!」
自分を囲んでいた子供たちは、顔を蒼白にしてあっという間にその場から逃げ出していった。
「チッ……雑魚どもが」
ハルカは遠ざかる背中に忌々しげな視線を送っていたが、深く息を吐き出すと、ゆっくりと弟の元へ歩み寄った。
「……ほら、帰るぞ」
静かに差し伸ばされたその手を掴み、ゆっくりと立ち上がる。
夕日を背に、孤児院へと帰る二人の間に言葉はなかった。少年の胸の内には、先ほど投げられた言葉が、幾度も渦巻いていた。
『れっとうしゅ』――それが何を意味しているのかは分からなかったが、自分は彼らよりもいい成績を取ってはならないという「決まり」があるようだった……
「アオイ――」
孤児院の門前で、ハルカは足を止めた。
「――悪い奴は全部、私が倒す。だから……」
「姉」は強く拳を握りしめ、孤児院を……その中にいる「家族」を見つめるように言葉を紡いだ。
「……お前は、“あいつら”のお手本になれ」
それが、幼い二人が結んだ約束だった。「兄」が道を切り開き、「姉」がその行く手を阻む敵を叩き潰す。
その誓いは、少年の心の奥深くに、強く刻み込まれた。
初等魔法学
初等教育として、小学校で学ぶ魔法学
低学年では、基礎的な知識や社会での活用事例を学び
高学年になると、初歩的な魔術の習得を目指す
中等魔法学では、多くの者がつまずき、諦める
その原因の多くは、初等学での理解の甘さが故である




