42話「孤児院の暴君<クイーン>」
ビール
麦とホップを発酵させて作られる黄金色の酒
ほんのりと苦い
だが、苦味など真実に比べれば大したことない
大人は残酷な現実を、一時でも忘れたいのだ
酔いがもたらす、偽りの忘苦だと理解していても
「ハルカちゃんは……孤児院の最初期からいたらしいのですが……」
ヒカルは、言葉を慎重に選ぶように口を開いた。
「……ただ、僕が来るより前にはすでに……“荒れ”始めていたみたいで」
彼の言葉は歯切れが悪く、視線は所在なげに部屋の隅へ泳いでいた。
「“荒れる”、というのは?」
リナが真っ直ぐに問い返すと、ヒカルは困ったように眉を下げた。
「言葉を選ばずに言えば、『不良』と言いますか……あまり素行の良くない若者たちと行動を共に――いや、そんなことよりも……」
ヒカルは吐き出すような言葉を途中で打ち切ると、周囲の静寂を確かめるように鋭く視線を走らせた。
「……彼女は、他の子に暴力を振るうんです」
その言葉が落ちた瞬間、なぜこの孤児院において「姉」という存在が忌避され、恐れられているのかがようやく理解できた。
そこには複雑な人間関係も、隠された秘密もない。ただ極めて純粋で、単純な『力』による圧政があるだけだ。
「彼女が来るたびに、ショウくんだったり、ツクヨちゃんが止めようとはしているみたいなんですけど……」
暗い影を落としたヒカルが、力なく首を横に振る。「弟妹」による「姉」の制止が、上手くいっていないことは察せられた。
庭で二人が、壮絶に拳を交わしていた光景が脳裏に浮かぶ。彼らが夜な夜なひっそりと重ねる苛烈な鍛錬は、姉の暴力から、小さな平穏を守るための抗いなのかもしれない。
「……でも、アオイくんはどうしてるの?」
あの誰よりも家族思いの「兄」が、「家族」に牙を剥く存在を看過するはずがなかった。たとえその相手が、「姉」であったとしてもだ。
「ハルカちゃんは、彼がいないタイミングを見計らったように帰ってくるんです。アオイくんは……外に出ていることが多いですから」
兄が家族のために「外」で立ち回るほど、姉が「内」から家族を破壊する隙が生じてしまう。
アオイという『王』が君臨して平穏を守る一方で、ハルカという『暴君』は、その平穏を打ち砕こうとしているのだ。
「僕がハルカちゃんをまともに見たのは……たった一度だけ。ついこの間の話です」
三年間、この孤児院に勤めてきたヒカルにすら一度しか姿を見せず、アオイの不在を衝いては、子供たちの心に確実に恐怖を刻みつけていく。
それは偶然などではなく、明確な悪意と意志をもって繰り返される暴虐のように感じられた。
「ちょうど、一回目の魔力奔流があった日です。普段は彼女一人で孤児院に来ているようなんですが……その日は、仲間を引き連れていて……」
その言葉に、思考が弾けた。
魔力奔流からゴーレムへ。ゴーレムからスクルタス孤児院へ。そして今、スクルタス孤児院から魔力奔流へ――一本の線でただ繋がっていただけの三つの点が、一巡して完結した。
「……その時は、僕たち大人も全員、庭に引きずり出されて……ツクヨちゃんとショウくんでもまったく歯が立たなくて、どうしようもなかったんです!」
ヒカルは恐怖を紛らわすように、新たに缶を開け、冷えた酒を喉に流し込んだ。
「その時に、“奇跡的に”魔力奔流が発生して、誰も動けなくなったんです。その隙にアオイくんが戻ってきて、ハルカちゃんたちは逃げていったんです」
ハルカという暴威が、孤児院を致命的な破壊へ陥れたまさにその瞬間。都合よく巻き起こった魔力奔流。そして、その起点には、アオイの手によって作り出されたゴーレムが現れる。
(どう考えても、“奇跡”なんかじゃない……)
『異形天魔』の魔力を隠匿し、ハルカという暴君から孤児院を救った“人為的な”災害。
世界の「光」にも「影」にも与せず、その双方を翻弄する第三の存在。
その「黒幕」の輪郭に、少年の面影を思い浮かべずにはいられなかった。
(でも……もし、この仮説が正しいなら……)
それは、さらに恐ろしい結論へと至る。
もしも、魔力奔流の真の目的が、「“家族”を守ること」なのだとすれば――
――異形天魔は、その“家族”の中に存在していることになる。
◆
――13紀 2114年 冥結の月 16日
ずきずきと脈打つ頭痛に顔をしかめ、瞼をどうにか押し上げる。ぼやける視界の先に真っ先に飛び込んできたのは、机の上で無造作に転がる五本の空き缶だった。壁の時計に視線を向けると、短針は「3」の数字を指し示している。
どうやら、ヒカルとの晩酌でつい話が弾みすぎてしまったようだ……記憶にはまったくないが。
重い身体をどうにか動かそうとした瞬間、猛烈な尿意が容赦なく襲いかかってきた。
(……本当に、私が全部飲んだの?)
信じがたい事実に眩暈を覚えつつも、限界を訴える膀胱に従い、ふらつく足取りで、玄関のすぐ隣にあるトイレへと向かう。
だが、一歩一歩進むにつれ、肌を鋭く刺し、酔いをさましていったのは、冬のように冷ややかな夜風だった。
(……扉が、開いている?)
胸を騒がせる違和感に視線を向ければ、薄暗がりの中で玄関の扉が、まさに今、滑らかな軌道を描いて閉まろうとしていた。誰かが闇に紛れてこの建物を出て行ったのか、あるいは――
――ギシッ
静寂を切り裂くように、二階へと続く階段の床板が軋む、微かな音が響いた。
(誰か、いる!)
大きな気配も、魔力の動きもない。だが、わずかに開いていた扉と、耳を掠めた確実な足音。この建物の中に「何者か」が侵入していると確信するには十分だった。
即座に呼吸を整え、足音を殺しながら階段へと足を踏み出す。尿意など、もはや頭から消え失せていた。
――ガチャ
二階の床を踏みしめたその瞬間、廊下に小気味よい金属音が鳴った。その音には聞き覚えがある。この建物の部屋を開錠した時と同じ……
つまり、誰かがどこかの扉の鍵を開けた。
闇が澱む廊下の中で、固く閉ざされたドアへ次々と視線を巡らせる――
(――アオイの、部屋……)
昼間、潜入した「聖域」。その扉は、まるで誘い込むかのように、わずかな隙間を残して開かれていた。
「アオイ……起きてるの?」
ドアの隙間から、小さな声を投げる。しかし、返ってくる言葉はなかった。
室内をそっと覗き込むが、椅子にも寝具にも、人影は見当たらない。
(彼が、不用心に開けておくわけがないわよね……)
部屋の中には、多数の魔法陣が保管されている。そんな危険極まりないこの場所を、誰でも容易に足を踏み入れられる状態でアオイが放置するわけがない。
息を殺し、ゆっくりと扉を押し開ける。
中にいる者は、十中八九アオイではないはずだ。そして、鍵のかかっていたはずのこの部屋をこうもあっさりと開錠できたとなると、“日陰の道”の手口に精通している可能性が極めて高い。
ベッドの下、タンスの陰、開け放たれた扉の裏側。集中力を研ぎ澄ませ、あらゆる死角へと注意を払う――
――ドスッ!
「――ガハっ!」
肺から空気が追い出され、重心が前へと崩れた。重力に抗えず、アオイの部屋の床へ激しく頬を打ちつける。
「誰か――っ!」
――バタン!
声を上げようとした口は、間髪入れずに背後から回し込まれた手によって強固に塞がれた。それと同時に、細く華奢な腕が、しかし尋常ならざる力で首を締め上げ、気道を物理的に叩き潰す。
(罠だった……)
部屋の中を覗き込むこと自体が、仕組まれたシナリオだったのだ。室内に注意を向けた瞬間に背後から襲撃され、逃げ場のない部屋へと閉じ込められた。
扉は閉められ、声も出せず、背後の人物の姿もわからない。どれだけ足掻いても、完全に極められた絞め技を力ずくで逃れることはできない。
空気を吸うことができない。死への恐怖で、全身が震える。まるで、魂の内側から振動が伝わってくるかのように――
(――違う! これ、『共鳴』だ!)
そして同時に気づいた。己の首を絞める襲撃者が宿す、膨大ともいえる量の魔力――すべてを拒絶するように焼く、「荒々しい熱の魔力」に……
(……どうして気づけなかった!? こんなバカげた量の魔力に……!?)
この人物が階段を登っていた時も、廊下の死角に潜んでいたであろう時も、一切の異変は感じ取れなかった。
だが、そんなことはありえない。共鳴に気づかないなんてことも、空間を埋め尽くすような魔力量を見逃すなんてことも――
――ギシッ
壁の向こうから、階段の床材が軋む音が響いた。
「――チッ! さすがに気づかれるか……」
背後から苛立ちを隠そうともしない舌打ちとともに、粗暴な少女の声が聞こえた。
――バタン!
扉が大きく開かれる。その先に立っていたのは、人ならざる人型の二つの巨躯だった。
直後、喉の圧迫がふっと解かれた。肺の奥底へ空気が一気に流れ込んでくる。同時に、背後の人影が跳ぶように窓際へと移動した。
差し込む月光が、少女のシルエットをほのかに照らし出す。漆黒の髪の中に、まるで残り火のように混じった鮮やかな赤髪。
「能力者の癖に、弱い奴だな」
少女は床に這いつくばるリナを見下すように吐き捨てる。彼女はそのまま迷いなく窓を開け、夜の闇へと飛び降りていった。
リナはすぐに荒い呼吸のまま立ち上がり、窓の外を見下ろす。だが、そこには広い庭が広がるだけで、あの少女の姿はもうどこにもなかった。
「今の少女は……」
姿を消した襲撃者の残像を脳裏に思い浮かべながら、リナは静かに息を呑んだ。
彼女は一切の迷いなく、まっすぐにアオイの部屋へたどり着いていた。つまり、この孤児院の間取りを完璧に把握しているということだ。
「……ハルカ」
圧倒的な暴力によって孤児院を恐怖に陥れ、忌避される絶対的な「姉」。確証はないが、ヒカルから聞いた情報――能力者であることや、魔力の性質も一致している。
だが、一体どうやって、共鳴とあれほど膨大な魔力を完全に隠していた――
――ドスン
思考を遮るように、背後から重厚な足音が響いた。部屋の外に佇んでいた二体のゴーレムのうち、一体がぬるっと部屋へと入ってきたのだ。
「……あなた達のおかげで助かったわ、ありがとう――きゃっ!?」
感謝の言葉を口にしかけた瞬間、突如として全身を浮遊感が襲った。目の前に歩み寄ったゴーレムに、まるで荷物でも扱うかのように、太い両手で抱え込むように持ち上げられたのだ。
「――ちょっと!? どういうつもり!?」
リナは空中で必死に手足をバタつかせたが、二体のゴーレムは抗議など気にも留めない様子で、規則正しい足音を立てながら淡々と歩みを進めた。暗い廊下をすっと抜け、階段を軋ませながら一段ずつ下りていく。
巨体は一階へ降り立つと、迷うことなく一直線に、隙間から明かりが漏れるリビングの扉を目指した。
手の空いている個体が扉を押し開き、リナは広々としたリビングに担ぎ込まれた。
部屋の中央のテーブルでは、レイが顎に手を添えた姿勢のまま、深い眠りに落ちていた。 その対面では、アオイがただペンを滑らかに動かしている。真っ白な紙の上には、緻密で美しい幾何学模様――何かしらの魔法陣が描かれていた。
――ドガァァァン!
再び浮遊感が全身を襲った直後、凄まじい衝撃音が室内に響き渡った。一瞬遅れて、腰に鈍い激痛が走る。
ゴーレムがいきなり腕を振り上げ、自分をそのまま放り投げたのだ。
「もうちょっと、丁寧に降ろしなさいよ!」
痛む腰を押さえながらリナが荒い声を上げたが、仕事を終えた二体のゴーレムは何事もなかったかのように廊下の闇へと消えていった。
「……それで何の用、アオイ――」
床から立ち上がり、リナは作業を続けるアオイへと問いかけようとした。
しかし、彼は視線すら上げぬまますっと腕を掲げ、指を一本立てて言葉を制止した。そしてその指先が、コクッと首を傾け、寝息を立てるレイを指す。
(静かにしろってことね)
アオイは静かにペンを置くと立ち上がり、リナへと歩み寄った。そして、彼女のすぐ近くにある椅子を引き、腰を下ろす。
「昼間、罠に引っかかった『ネズミ』がいた」
リナが彼の対面にある席へ腰を下ろすと同時に、アオイは口を開いた。
「『リナ・フォーグナー』、この街で鑑定士として活動する女。毎日のように通ってる店は、『回顧録』という喫茶店」
アオイは言葉を区切り、確認するようにリナの瞳に視線を向けた。その全てを見通すような目を前に、リナは何も返すことができなかった。
「そして今、その喫茶店には、天界軍が頻繁に出入りしている。英雄ベスタ・ルクセンブルクと、最高司令官御神楽サオリも含めてだ」
カタン、と小さな音を立てて、机の上に二つのカップが並べられた。いつの間にか背後に迫っていたゴーレムが、お盆を持って運んできたのだ。
リナの手前に置かれたのは、芳醇な湯気を立ち上らせる真っ黒な液体。一方でアオイの手元にあるのは、湯気こそ出ているものの、色も味もない無色透明の液体だった。
「ということは、あんたは天界軍の『尖兵』ってところだな」
アオイの瞳が、まっすぐに自身を射抜く。動揺を悟られまいと冷静を装う仮面をかぶるが、こんな三文芝居、彼には通じないだろう。
「なら、お前たちが求めているのは、未発表の魔法陣や院長の不正の証拠のわけがないな」
アオイは手元のカップにゆっくりと口をつけた。そこに注がれているのは、何の味もついていない、ただのお湯のようだった。
「欲しいのは、俺が必死に隠したがってる『秘密』だろう」
核心を突くように、アオイは問いかけた。
リナは震えを必死に抑え込み、アオイの目を見つめながら、手元のカップへと手を伸ばす。黒い液体の正体は、よく知っている味のコーヒーだった。
「いつもと同じ味か? わざわざ買いに“行かせた”んだぞ」
どこへ、とは彼は口にしなかったが、言われずとも分かる。
「……それで、私はこれからどうすればいいの」
コーヒーでは潤わなかった乾いた喉を鳴らし、リナは意を決して言葉を紡いだ。
もしも彼が、自分を“排除”するつもりなら、今この瞬間を含め、いつでも実行できたはずだ。それにもかかわらず、彼はわざわざ自身の情報網を示し、こちらの喉元に刃を突きつける形で弱点を握っていることを明示してきた。
つまり、これは最期の答え合わせじゃない。「交渉」のためのテーブルだ。




