41話「兄姉の夜」
「リナさん、ここからが本当の勝負です。一日で一番大変なのは、間違いなく今からの時間ですから」
夕食から入浴、そしてケーキ争奪戦に至るまで、ここまでの時間も十分に大変であった……が、時間帯と子供たちの様子を考慮すれば、思い当たるものは一つしかない。
「寝かしつけ、ですか?」
「ええ。子供たちはとにかく寝たがりません。走り回って逃げたり、家具の隙間に隠れたり……しかも、それを鬼ごっこみたいに楽しむものだから、毎晩繰り広げられるんですよ」
リナが問い返すと、ヒカルは肩を落とし、深いため息をついた。
「ここばかりは、ツクヨちゃんやショウくんの力もフル活用して、とにかく全員を物理的に部屋に収めるのが大事なんです。一人になりさえすれば、みんな案外勝手に寝ますから」
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
「やだ! まだアオ兄と遊べてない!」
「レイちゃんともっと遊びたい!」
ヒカルが予告した通り、踏み入れた廊下は狂乱の戦場だった。あちこちで子供たちが脱走を図り、歓声を上げて縦横無尽に逃げ回る。
だが、それを迎え撃つ体制もまた手慣れたものだった。ショウは抵抗する子供たちを器用に捕獲しては、手際よくそれぞれの部屋の中へと押し込んでいく。
ツクヨもまた、不安そうにするシズカを優しく部屋へ送り届けると、猫耳をレーダーのようにピンと動かし、物陰に潜む子供たちを容赦なく捉え、部屋へと放り込んでいく。
「リナさーん! つかまえてみてー!」
そんな中、アリスが無邪気な挑発を投げかけながら目の前を駆け抜けた。
「アリスちゃん、もう寝る時間よ。明日また遊べるから!」
必死にその背を追いかける。
だが、どれほど迫っても、アリスは常に一定の距離を保つように逃げ続ける。壁際に追い詰めても、こちらの踏み込みを見抜いているかのように、寸前でスッと死角へ抜け出す。視界に捉えているのに、あと一歩が届かない。
しかし、どれほどすばしっこく逃げ回ろうとも、多勢に無勢であった。最後まで逃げのびたアリスだったが、ショウとツクヨ、そしてヒカルの加わった総動員の網に捕まり、ついに部屋の中へ収められたのだった。
◇ ◆ ◇ ◇ ◇
子供たちをそれぞれの部屋に収めた後、静寂の戻った廊下を抜け、リビングへと足を踏み入れる。
部屋の中央で、風呂上がりと思われるアオイが、机に広げた紙へ極めて緻密な筆致で何かを書き込みながら、同時にチェス盤を挟んでレイと対峙していた。
盤面を見つめ、顎に手を添えたレイは、長考の末に最善手を探り当てようとしていた。一方で、アオイはその一手を急かすこともなく、手元の紙に目を落としたまま、ただ筆を進め続ける。
やがてレイの手がゆっくりと動いた。熟考の末にこれしかないと確信を込めて、彼女は駒を進める。
しかし、その直後、アオイは盤面へ視線を移すことすらなく、手元の作業を進めたまま迷いなく自分の駒を動かした。レイが何を考え、どの駒を動かし、それに対してどう返せば優位に立てるのか――そのすべてが、すでに彼の頭の中で完璧に完結しているかのようだった。
「早く風呂入ったほうがいいよ。デブが入る前にね」
リナが呆然と二人のやり取りを観察していると、アオイは顔を上げることなく淡々と告げた。
(デブ……?)
あまりにストレートで容赦のない物言いにリナがキョトンと首を傾げていると、後ろからヒカルが苦笑いを浮かべて補足する。
「院長のことですよ。あの人が入ったあとは……物理的にお湯が残りませんから。文字通り、根こそぎ持っていかれますよ」
(ああ、確かに……)
脳裏に、あの圧倒的な巨体で浴槽の湯を津波のように押し流す院長の姿が浮かんだ。
「あー、さっぱりした」
その時、風呂場から無機質でやる気のない声と、複数の足音が響いた。湯を上がったのは、職員三人組だろう。ということは、次は間違いなくあのデブの番だ。
「……失礼しますっ!」
リナは即座に思考を捨てると、慌ただしく風呂の準備へと走り出す。
背後から「間に合うかな……」という誰かの小さく呟く声が聞こえた。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
(……ようやく一人になれた。ここは一度、情報を整理して――)
白く立ち込める湯気の中、リナは浴槽の縁に身を預け、凝り固まった肩と思考を解きほぐそうとした――その時だった。
――ガッ!
暴力的なまでの力で引き戸が開かれ、冷たい外気と共に「それ」が侵入してきた。
(……なっ!?)
反射的に、お湯の中に体を深く沈める。
目の前に姿を現したのは、もはや壁そのものが動いているかのような、圧倒的な質量。アオイが「デブ」と吐き捨て、ヒカルが「お湯がなくなる」と絶望していた張本人だった。
「あら? 新入りの……ええと、何だっけ? まあ、いいや。まだ入ってたの」
院長はリナの動揺など微塵も気にすることなく、だらしなく弛んだ肉体を揺らしながら洗い場へと足を踏み入れ、豪快に体を洗い始めた。
(……最悪。思考整理どころじゃないわ……!)
脳が拒絶しようとも、否応なしに目の前の「巨大な情報」を網膜が拾い上げてしまう。垂れ下がった贅肉、不規則に響く荒い呼吸音。だが、その脂肪の奥深くに潜んでいるのは、「神速」を支える異様なまでに強靭なバネだ。
(どうやったら、ここまでの巨体に……それも俊敏さを兼ね備えた身体に育つというの……)
しかし、リナが分析を試みる間もなく、悲劇は訪れた。
シャワーを浴び終えた院長が、のっしのっしと足を湯船へと向けたのだ。
「ふぅ……やっぱり一日の終わりは、これに限るわね」
ろくに働きすらしていないにもかかわらず、さも重責を果たしたかのような口ぶりで言い放つ。
――ドゴォン……ッ!!
それは「入浴」と呼ぶにはあまりに破壊的な音だった。彼女が片足を湯船に突っ込んだ瞬間、水位は一気に跳ね上がり、さらにその全質量を沈めると、リナが浸かっていた貴重な温水は、ダムが決壊したかのような勢いで溢れ出し、排水口へと一気に流れ去っていった。
(……アオイくん、ヒカルさん。あなたたちの警告、一ミリも誇張じゃなかったわ……)
悪びれる様子もなく優雅に鼻唄を歌う院長の横で、リナは風呂からの撤退を余儀なくされた。
温まるはずだった肌は冷え切り、整理されるはずだった思考は「院長の背中の脂」という全く不必要な情報の濁流に飲み込まれてしまった。
◇ ◇ ◇ ◆ ◇
冷えた肩を抱きかかえるように震わせながら、休憩室へと向かう。その道中、庭の様子が見える大きなガラス窓があった。
眠らない都会の街灯りが、芝生へ青白い光を落とす。その光の只中、二つの小さな影が向かい合い、拳を交えている。
しなやかな跳躍から果敢な連撃を繰り出す獣人の少女――ツクヨ。全身から白い蒸気を立ち昇らせ、連撃を受け流す短髪の少年――ショウ。
それは夜の静寂も、街の喧騒すらも切り裂くような、真剣勝負そのものの激しい鍛錬であった。
(こんな幼い子供たちが……!?)
リナの胸を打ったのは、圧倒的な実力に対する純粋な尊敬と、それ以上に重くのしかかる恐怖だった。
自分の目は、二人の動作を完全には捉えられていない。力を込める瞬間や、衝撃が弾けた直後の静止は明確に視認できる。だが、その間を繋ぐ動きは、残像となって視界から掠れていく。
その強さは、もはや守られる子供の域を遥かに超え、明確なひとつの「戦力」として成立していた。
同じ能力者という枠組みにありながら、己の半分にも満たない年齢で遥かな高みへと到達しているショウとツクヨ。暗闇に躍動する二人の影に、改めてこの孤児院が秘める異質さを突きつけられた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆
扉を細く開けると、淡い光を放つ魔力灯の下、一人静かに缶ビールを傾けるヒカルの姿があった。
(……よかった。彼にも、ちゃんと“逃げ道”があったのね)
「真面目な職員」の仮面を脱ぎ捨て、少し背を丸めた力の抜けた背中に、リナは微かな安堵を覚えた。
「ああ、リナさん。その感じだと、やっぱり間に合わなかったみたいですね……」
どこか魂が抜け落ちたようなリナの表情を目にし、ヒカルはすべてを察したように苦笑した。彼は机の下に手を伸ばすと、冷気を含んだ缶をもう一つ取り出す。
「リナさんも、一本いかがですか?」
その申し出は大変ありがたくはあったが、自分は日常的にアルコールを嗜む者ではない。
ましてや自分は今、潜入任務の真っ只中。酒を口にするなど、考えるまでもなく論外の行為――
「――いただきます」
リナは迷うことなく、差し出された缶を受け取った。
パチン、という小気味よい音が室内に響く。一口、黄金色の液体を喉へ流し込むと、清涼感が喉奥を刺激しながら落ちていく。
(……沁みるわ! 使命とかプライドとか、そんなものが全部どうでもよくなってしまうくらい……)
アルコールの仄かな痺れが、極限まで張り詰めていた精神をゆっくりと解きほぐしていく。
思い返せば、昨日の一日天界巡りから、息つく暇もなくこの孤児院へ潜入し、一瞬たりとも気を緩めることができない緊張状態が続いていた。
「……父の能力の“調整”が、あんまり上手くいってないみたいで……やっぱり初めてのことですから、学者さんたちにとっても分からないことだらけのようです」
酔いが回ったのか、ヒカルは手元の缶を見つめたまま、独白のような静かな声で語り始めた。
ヒカルの父、斎藤ハジメ。異形天魔の眷属によって魂を加工され、非能力者の肉体のまま、強引に能力者へと造り替えられてしまった警察官だ。
それでも彼は、同じ被害に遭った人々の希望となるべく、自ら進んでクルルたちのリハビリプログラムに協力している。
「『肉体への適応』自体は、それなりに上手くいってるようなんです。でも……」
ヒカルは一度言葉を区切ると、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「目覚めた能力が、火を操る系統だそうで……その制御が難しいみたいなんです」
肉体への適応……おそらくは、能力者の魂の出力に、非能力者の肉体が耐えられるようにすることだろう。
だがそれはあくまでも、出力の不一致に対処したに過ぎず、発現した個別の能力を制御・調整することとは別の話だ。
肉体が耐えられるようになったとしても、それだけで能力そのものを制御できるわけではない。
能力者は、生まれながらにその力を宿している。そして、魔力の乏しい幼少期から、時間をかけて己に与えられた能力を理解していき、力の加減や向き合い方を身につけていく。これが本来のプロセスだ。
「……僕も一度見ただけなんですけど、ハルカちゃんの能力は、多分『熱』に関連するものなんです。それで一時期は、父の能力を制御するうえで、何か手がかりになるんじゃないかと思ったこともあったんですが……」
ヒカルは自嘲気味に肩をすくめると、残っていたビールを呷るようにして一気に飲み干した。
「……僕どころか、あのアオイくんでさえ手に負えない彼女に、協力なんて期待できるはずもないですよね」
孤児院に残る、最後の空白。姉でありながら、ただその名を口にするだけで子供たちの表情を恐怖で凍りつかせる禁忌の存在。
しかしその彼女は、この孤児院の真実を暴く鍵であると同時に、ハジメの救済に繋がる糸口となるのかもしれない。
「ヒカルさん!」
リナは缶の中身を一気に飲み干すと、情熱を叩きつけるように机の上へと置いた。
「ハルカについて、知っていることを教えてください!」
リナの言葉を聞いたヒカルは、一瞬悩むような素振りを見せたが、力強く頷くと慎重に口を開いた。
変異能力者適応プログラム
突如として意識不明となり、目覚めると共に
能力者に変異した者たちへ向けた訓練計画
本来、能力者はその力を行使し、耐えるため
多量の魔力を宿し、強靭な肉体を持つという
このプログラムには、基礎的体力の向上、筋力増強
そして、高濃度魔力カプセルでのケアが含まれる




